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Always smile

めぐりあえた世界に感謝をこめて…

フランス南西部の街で、第五の規模を持つ都市でもあるトゥールーズは、「バラ色の街」とも呼ばれているそうです。旧市街に多く見られる煉瓦を用いた建物が夕日を浴びて「色」を醸し出す時間、それは一層美しいものでしたグッド!。駅のそばにとったホテルも広々として使いやすく、旧市街までも徒歩圏内。快適な滞在を楽しむことが出来ました晴れ

トゥールーズ、と聞いてイメージするのが、ロートレック。全く関係ないのですが、彼の名前がトゥールーズ、そして彼の生まれ故郷がこのトゥールーズからは電車で1時間半から2時間ほどの場所にある町アルビという私独自の「まつわる」イメージ。

メモ世紀末のパリを彩った溢れる才能と刹那なまでの退廃を生きた不世出の芸術家ロートレック。アルビの名門伯爵家に生まれたロートレックは「小さな宝石」と家族の愛情を一身にうけて幼少期を過ごしました。しかし弟が夭折、自身も少年期の落馬による骨折などが原因で大腿部の成長が止まってしまいます。胴体の発育は健常者と変わらなかったものの、足の成長はストップ…そんな「小さな宝石」を父親は疎んじるようになります。この悲劇は、貴族階級では一般的であった代々の近親結婚の繰り返しによる遺伝疾患であろうと現在では解明されています。居場所を探し求め、アルビを後にしたロートレックを迎えたのがパリでした。ロートレックは画塾に通い幾つもの名作を放ち、パリに集った数多の溢れる才能たちと出会いながら、世紀末、倒錯のデカダンに身を委ねていきます。

煙に包まれ、アブサンをあおり、娼婦らと戯れる日々の中で彼が描き続けたのは社会の底辺にいて、窮状に不満を募らせながらもそれぞれの懸命さで生き抜く人々の姿でした。富裕階級に生まれながらも身体の不自由ゆえに疎まれ孤独の中にあった彼は、それゆえに立場や出自などを超越した「生きることの苦しみ」に共感したのではないでしょうか。決して美しいだけではない、麗しいだけではない人間の惨めさ、残酷さ…でもそれを丸ごと引き受けて生きる人生の清々しさ、そして美しさ。

アルコールと梅毒に侵されたロートレックは20世紀が幕をあける頃、アルビの地で永遠の眠りにつきました。傍らには息子の悲運を嘆きながらもその才能を見出し、生涯にわたった変わらぬ愛情を注いだ母親が付き添っていたといいます桜

彼の絵を見ると、私はいつも「強さ」を感じます。彼のこんな言葉とともに。

人間は醜い、されど人生は美しい

   Henri.Marie.Raymond.de.Toulouse.Lautrec.Monfa(1864-1901)

トゥールーズの街が夕焼けに染まる頃、バラ色の街を実感しに旧市街まで歩いてみました。そこは青空ではなく夕焼けがよく似合う、スミレの香りのする美しい町でした。…人生は美しいクローバー

目覚めて翌日、昼の出発までニームの街をぶらり。アレーナのある裏手に広がる旧市街をテクテクと散歩してみました。本当にのどかで静か、そして豊かな水の街。また必ずここを訪れたいなぁと思いましたチョキ

この日は風が少々強く、これがまた冷たい!首に巻くものがあるといいなぁ~と旧市街のショップにかけこんで大判のスカーフを入手。早速活用させて、賑わうマルシェを見たり、広場でしばしニームの空気に触れてみたり…こういう時間の積み重ねのうちに、現実の日常のマイナス要因たちがどんどんと消されていくのを実感として感じます。

この日の移動行程は、地下鉄Nimes-Montpellier-Toulouse地下鉄です。モンペリエで途中下車して街をぶらりとしたら、ICでオートガロンヌ地方のトゥールーズへ。

モンペリエ駅は現代的に建築が印象的な駅舎で、また複数のTGVや各国間特急も停車することから、ニームよりは随分と規模が大きい印象でした。なかなか行く機会もなく通過しがちですが、ここはフランス最古の医学校がある街でもあり、あのノストラダムスがその学校の卒業には失敗したという歴史の一コマもあるそうです。そしてあのペリエの故郷。もちろんモンペリエでペリエもいただきました!

駅からコメディ広場まではトラムの線路沿いに従って歩けば10分とかかりません走る人走る人。私は地図を読み違えて少し遠回りをしてしまいましたが、まぁ、これも旅の一興。大きく取られた広場にはカフェ、マーケット、回転木馬などなど広がる青空のもと夏の終わりを楽しむ人たちでいっぱいでした。実際に歩いてみて、このモンペリエの不思議な地形には少し迷わされ、「あれ?この道、さっきの道??」なんてこともありましたはてなマーク!?そしてここモンペリエはサンチャゴ・コンポステーラ巡礼の道の地点の一つ。聖ロック教会は巡礼者が立ち寄る拠点になっています。だまし絵のある教会対面の建物もまた愛嬌たっぷりです。

電車までの時間がちょうど2時間ほどあったので、カラリとした南仏の風と青空が最高に気持ち良いテラス席でランチをいただくことに。チキン煮込みとローズマリーリゾットのトマト風味。リュックを下ろしてふと見上げる青空はまさに絶景でしたニコニコ

モンペリエ駅をあとに向かうは終点Toulouse。いつか訪れてみたいと思っていた町の一つです。まだまだ日の長い夏の終わり、人気もまばらなICの車内でゆるりと座って一休み。車窓からは大陸側に美しい古代の街並み、海側に太陽の光を水面にたたえた地中海を見ることが出来ます晴れ

手元にあった地図のルートを一つ一つたどりながら、その道程で瞬間出会った小さな感動を書き留めながら、心が少しずつ力を取り戻していることに気づいていました。それは初めて訪れる土地の空気を、水を、太陽を、景色を、そして人を介して伝わる感動、喜び、そして何よりそれを感じれとれる心の力。

 

作家マルセル・プルーストのこんな言葉があります。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目を持つことにある。」

この旅はもしかしたら自分にとって、このための旅だったのかもしれないなと…何をするでもない、ただ小さな感動を書き留めるなかで気づかされました。ベル

 

 

アルルの街をあとに、次に向かったのがアヴィニョン。

アルルの駅で電車を待つ間、駅舎のベンチで休憩していましたニコニコ。隣にアジア系の女性2人が座ってスマホ片手に何やらリサーチしていました。タブレットで撮ってきた写真を確認していると、ふいに道を尋ねられました。彼女たちは今からゴッホゆかりの場所を訪ねるところのようでした。片言の英語で場所を教え、ちょうど持っていた地図のコピーを「日本語だけど英語も併記されているから方向の手助けにはなるかも…」と渡すととても喜んでくれました。台湾からの旅行で、パリから南仏に移動してきてアヴィニョンに寄ってから帰国するとのこと。まさに旅は一期一会チョキ。旅の幸運を互いに祈ってお別れしました。

アヴィニョンまではアルルから30分ほどで到着。かつて教皇が暮らしたパレスが世界遺産に認定されています。アヴィニョンは想像していた以上に観光都市化されていて、いわゆる情緒らしきものはあまり感じられませんでした。まだまだ日も長く、夕刻になっても陽射しが健在でしたヒマワリ。時間に限りのあるツーリストには日の長さは有り難い限り音譜

アヴィニョンからニームに戻る途中の景色も絶景でした。またゆっくり来なきゃなぁ…駅名をしっかり控えて通過。

まだ明るいニーム駅に降り立ち、宿に到着して荷物をほどきFacebookに今日の移動をアップしていつの間にかウトウト…幸せな眠りにつきましたグッド!

 

「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼」、もし旅を続けなかったら永遠に知らないままの言葉だったかもしれません。

本サンチャゴ・デ・コンポステーラはスペインにある都市、ガリシア州の州都。聖ヤコブの遺骸が祀られていることから、キリスト教信者にとって重要な巡礼地の先となっています。聖ヤコブはキリストの12使徒の1人でフランス語ではSaint Jacques。聖ヤコブのシンボルは杖、そして帆立貝、そこからなのかフランス語では帆立貝をcoquille Saint Jacquesというそうです。ヤコブはもともとガリラヤの漁夫でヨハネの兄弟にあたり、キリストともとても近しい人物だったそうです。殉教したヤコブの亡骸はエルサレムから遠く離れたスペイン北西部で813年になって発見されます。その墓の上に立てられたのがサンチャゴ・コンポステーラの大聖堂というわけです。(サンチャゴはスペイン語で聖ヤコブを意味します。)聖ペトロの遺骸の上に築かれたのがバチカンの聖ピエトロ寺院とされているのと同じようなものでしょうかニコニコ

いずれもキリスト教徒にとって巡礼の地となっています。私はどうしてか、教会にいる方が落ち着き、讃美歌を聴くと心がとても穏やかになり、陽の光を通したステンドグラスを見ると失われた情緒が復調してきます。旅先で必ず教会に立ち寄り、しばし何をするでもなくぼんやりとしているのはもしかしたら、偶然の必然なのかもしれません。

キリストの12使徒は絵画などにもたびたび描かれており、その意味やバックストーリーが分かれば、より理解が深められるのではないかと思い、使徒とされる聖人たちについて調べていくなかで、一人の聖人の名が印象に残っていました。それが聖ヤコブでした。

 

あるとき、宗教学が専門の先生にこう尋ねました。

「どうにもこの聖ジャックが気になります。」と言う私に、先生は穏やかな口調でこう返して下さいました。

「それには何かしらの意味があるから、そういうときはその意味をよく考えてみるといい。」

 

意味を考えると言ってもなぁ…と自問しながらも、答えは特に出ず季節が変わっていきましたブーケ1ヒマワリ。そしてこの旅を計画し、気になっていた土地を結んでいくと、一つの円になりました。

フランスにはサンチャゴ・コンポステーラ巡礼に4つの道があります。トゥールの道、リモージュの道、ル・ピュイの道、そしてアルルの道。私が今回廻った行程はこのうちの2つの道に交差するものでした。

「その地で、その場で、それが何なのかを近くに見てきなさい」

答えの出ないままだった「何かの意味」を解く手がかりとなりそうな、そんなメッセージが込められているかのように。

 

アルルの駅から徒歩20分強、旧市街を抜けテクテクと歩き、中心から少し外れたところに古代ローマ時代の遺跡でもある古代墓地アルスカンはあります。ゴッホの絵のモデルとなった地や、アレーナなどアルルの観光スポットとは少し趣きを違えた、独特の異質の空間、そのエントランスにはそこが巡礼ルートのスタート地点であることを示す案内が置かれていました。大きなリュックと杖、そして帆立の貝殻をつけた巡礼者を何人か見かけました。彼らの「求める道」への旅の始まりを見つめながら、彼らの前途の穏やかなことを祈らずにはいられませんでした走る人走る人走る人

Nimesはフランスで最古の古代ローマ都市といわれているそうですコスモス

街の中心に残るアレーネ=円形闘技場はニームのシンボルです。宿で荷物を預けるとニームの地図を渡して最初にアレーネの場所をマークしてくれました。

駅からまっすぐに伸びた道を行くと左手に威容をたたえたアレーネが見て行きました。ちょうどパリまでの機内で、随分と昔の映画「グラディエーター」(ラテン語でGradiator)を見ていたのでやけにリアルでした。

まさにグラディエーターさながらの光景が遥か昔の時代には繰り広げられていたわけです。剣闘士と猛獣の戦いや、奴隷同士の闘技などにアレーネを埋め尽くした観客たちは熱狂していたのでしょう。フランスでありながら、どこかイタリアを感じさせるのは、ここはかつて古代ローマ帝国であったことからでしょう。実際に訪れてみると、実感としてすんなりと理解が出来るものですね。

豊かな水をたたえたNimesから電車で30分、まずはArelsに向かいました。平日の昼間、処は南フランス、何ともゆったりした雰囲気のローカル線の旅となりました。

メモアルルはゴッホの絵でも有名な土地、いつか訪れてみたいと思っていた場所の一つでした。そこは私が大好きなゴーギャンゆかりの地でもあったからです。18882月、フィンセント・ファン・ゴッホはパリを離れ、南仏の街アルルにたどり着きました。何人もにアルルへ集うよう誘いますが誰も応じる者はなく、唯一やってきたのがポール・ゴーギャンでした。ゴーギャンの到着を待ちわびたゴッホは、自ら筆をとりアルルの地に咲きほこる花々の絵でゴーギャンの部屋を飾ったといいますヒマワリ。ゴッホは傑作を次々と描き上げていきます。しかし、当然のように強烈な個性と才能の衝突が生じ、2人の同居生活は僅か2ヶ月で終わりを告げます。自らの耳を切り落としたゴッホは精神病院へと収容され、ゴーギャンは太陽の街アルルを去り再びブルターニュへと戻ります。ゴッホもやがてアルルを去り、再びパリに戻りますが精神の病がコッホを解放することはなく、18907月、その生涯に自ら幕を閉じました。

アルルの駅を降り、旧市街へと足を進めるとゴッホらの足跡を留めた数々の場所が点在していました。降り注ぐ太陽と青い空、そして流れるゆったりとした時間。

ゴッホの傑作の一つ「ひまわり」はこの南仏アルルの地で描かれました。匂い立つような、迫りくるような赤のような青のような、幾種もの黄の色が印象的な作品郡です。私もゴッホといえば「黄」、そんな印象を強く持っていました。でも現実にその町を訪ね、歩き、空気を感じるとふとこんな思いがよぎりました。

「ゴッホの眼には本当は何色に映っていたのだろうか。」と。星

 

ゴッホの死の報せを受けたゴーギャンは、生涯を通して兄を支援し続けた弟テオに、こんな言葉を送ったといいます。

「あなたもご承知のように、彼は誠実な友人でした。そして私たちの時代における数少ない本当の芸術家でした。作品の中に彼はずっと生き続けることでしょう。彼がいつも“岩はいずれ砕けるが言葉は残る”と言っていたように。 私もこの眼と心で、作品の中の彼に会うつもりです。」