帰国後、猛烈に映画『ニューシネマ・パラダイス』を、また観たくなった。

 

シチリアの小さな村が舞台のこの物語は、ローマで映画監督となり、地位も名誉も得た主人公サルヴァトーレ(トト)の少年期、青年期の思い出や恋愛を軸に、映画とシチリアへのあふれる想いを描いた名作だ。

 

1956年、シチリアに生まれたジュゼッペ・トルナトーレ監督は、この映画を弱冠32歳の時に作っている。

 

1954年生まれの私は、この映画が初上映された30代のころから何回も観ている。

 

 

30代の頃は、正直、少年期のトトの演技にわざとらしさを感じたり、またアルフレードを演じたフィリップ・ノワレのこともあまり好きになれなかった(何様?ではある)。

 

映画自体も、いい映画だとは思ったが、何か『ある種のくささ』みたいなものを感じていた。

 

それでも、惹かれるものがあったのだろう。完全版のDVDも買い足し、何度か繰り返して観ていた。

 

 

そして、歳を重ねれば重ねるほど、私はこの映画が好きになっていった。

 

完全版では、それまでの劇場版になかった、中年になったトトとエレナの再会が追加されたことも大きかった。中年のエレナを演じたブリジット・フォッセー(あの『禁じられた遊び』の子役)のきれいなこと。

 

 

シチリアを離れて何十年経っても、エレナを思い続けるトトの一途さに、私は思い切り感情移入した。

 

 

アルフレードの死を知り、30年ぶりに故郷に戻ったトトと母親との間にこんな会話がある。

 

トト「子供の頃、自分のことで一杯で、お母さんが若く、きれいなのに気づかなかった。別の人生もあったろうに」。

 

母「再婚せずに、お父さんを思い続けたの。わたしはおまえに似てる。よいことかどうかわからないけど、真心を尽くすのは苦しい」。

 

『真心を尽くすのは苦しい』

 

いい言葉だと思う。

 

ひとりの人を思い続ける不器用さ。それは、恋愛だけでなくすべてに通じる不器用さ、律義さ、誠実さだと思う。

 

そういう生き方は、苦しいに違いない。

 

 

シチリアに行って、シチリア人に出合って、そして改めてこの映画を見直して、私はますますこの言葉の持つ意味がわかったような気がした。

 

私たちがシチリアで出会った人々は、ほんの数人だけだったけど、この映画に出てくる人たちと、とてもよく似ていると思った。

 

一途で、昔気質で、愛する者を守ろうとする情の深さ。

 

 

 

そして、亡くなった母が、まさにこういう生き方をしたのに、今更ながら気づかされた。

 

父が交通事故で亡くなったのは、私が3歳の頃で、弟はまだ生後半年だった。

それ以来、再婚もせず、2021年に93歳で亡くなった母。

 

再婚の話もあったようだが、子供のために再婚はしなかった、と私は母から聞いていた。母から、父の話はあまり聞いた覚えがなかった。

 

しかし、少し認知気味になった母が通っていたデイケアで作った、5月のカレンダーの兜に『道夫』という父の名前を書いていたのを見て「お母さんは、今でもお父さんのことを思っているのだ」と、その時に改めて知った。

 

それは、私にとって小さな衝撃だった。

 

私も、トトと同じように母に別の人生があったかもしれない、などと考えたこともなかった。

父の対する愛情の言葉など、一切口にしなかった母だったからだ。

 

母は、ずっと父のことを思い続けていたのだ。認知気味になって、今まで抑えていたものが溢れてきたのだ。

 

 

私にも、その血が流れているのかもしれない。シチリアやニューシネマ・パラダイスに惹かれるのは当然だろう、とも思った。

 

 

『ある種のくささ』、上等ではないか。

愚直なまでに泥臭くて、地べたをはい回るような生き方も、かっこいいではないか。

 

こんな感情を知ることができるのも、年齢を重ねたからこそ。

歳を取り、いいこともあるのだ。

 

 

アルフレードが自分のために作った、キスの場面だけの映像を観るトト。

これが、この映画のラストシーンだ。

本当に素敵なジャック・ペランのこの表情に、涙が止まらない私であった。