――どうしてだろう。

 何か、とても重大なことを、見逃しているような気がしてならなかった。


 父は何故、自分一人をここへと寄越したのか。

 操生は何故あのような嘘をついたのか。

 そして、久江の表情をああも曇らせている、その原因とは一体何なのか。


 考えたところで分かりもしないのだが、こうも拭い去れない違和感ばかりが残るのはたまらない。

 訪ねてみたくとも、一番何かを知っている筈の、当の操生がいないのではどうしようもなく、彬文はもどかしさにじりじりする心を宥めすかしつつ、ひっそりとその機会をうかがうことしか出来なかった。


 だが、そんな彬文の煩悶をよそに、昼食時にも夕飯時にも、操生が居間に姿を見せることはなかった。

 明日はもう帰宅するというのに、こんな気持ちのまま彼と別れて、自分は後悔しないのだろうか。


 ――いや、自分ばかりが考えたところで、どうにかなるものでもない。


 さっさと眠ってしまえとばかり、奥の間へと続く廊下を曲がりかけ……彬文は、そこでふと足を止めた。

 この家では珍しい、言い争うような声が耳に飛び込んでくる。


「嫌だっ」


 鋭い声が耳に飛び込んできて、彬文は思わず息をのんだ。

 紛れもなく、それは操生の声だった。

 ――操生の奴、出かけていた訳じゃなかったのか。


 まずいと思いつつも、聞かなかったふりをして立ち去ることも出来ず。

 彬文は仕方なくその場に佇んだ。

 かなり興奮しているらしい操生は、彬文がすぐ傍にいることに気付きもしない。


 相手は一体誰なのか。

 家人の誰か、であることは間違いないのだが、如何せん伝わってくるのは操生の激昂ぶりばかりで、肝心のもう片方の人物が分からない。

 操生の声も、感情的になっている所為か、相当に早口で、会話の内容も断片的にしか把握できない。


 ――聞いていたって仕方がないのに。


 そう思いながらも、その場を離れることが出来なかったのは、ただならぬ操生の雰囲気に、追い詰められた何かを感じていたからか。

 彬文は、操生が今までこれほど自分の感情を露にしたところを、一度として見たことがなかった。


 昔から、全てにおいて自分の一歩前を歩き続けてきた従兄。

 幼い頃の泣き顔ですら、とんと記憶にはなかった。

 揶揄われて怒るのも、いつも彬文の方。

 だから漠然と、自分とは違うのだろう――そう考えていた。


 ……しかし。

 本当は、これこそが操生の姿なのかも知れなかった。

 まだ十五――どれだけ大人ぶった振舞いや言動を見せても、実際は自分と僅か一つの差しかないのだ。

 悟りきったようなその口調を、鵜呑みにする方が間違っている。


 廊下には、まだ異様な雰囲気が漂っていた。

 操生は何をそんなに荒れているのだろう。

 一方的にまくし立てる声に、拳を壁に叩きつけるような烈しい音が重なり――ふいに静寂が訪れた。

 立ち聞きをしているという状況も忘れかけ、彬文はその場へ飛び出そうとし。

 そして。


「……母さん……」


 彬文の足が止まった。

 弱々しい、今にも途切れそうな細い声。

 相手が久江だったという事実以上に、彬文は操生の放った『母さん』の一言に囚われていた。


 やはり、操生の母親は久江なのだ。

 例え血の繋がりがどうであれ。

 とうに分かっている――分かっていたことだというのに、動揺する自分に戸惑う。

 何故か、灼けつくような胸の痛みに襲われ、彬文は我知らず襟元を握りしめていた。


「他に、何も望んでやしない」


 取り乱したその声音は、彬文が初めて耳にするものだった。

 背筋が粟立ったのは驚愕からか。それとも――。

 やけに潤んだ声で、操生はなおも言い募る。


「それなのに、どうして叶わない。どうして僕だけがこんな……」


 ――自分は今まで、一体彼の何を分かっていたのだろう。

 足下を崩されるような感覚に、彬文はその場からそろそろと後ずさり。

 そうして、文字どおり逃げ出したのだった。




*** 第四章-幻影_2 へ続く***