●~父よ彼らを赦し給え~ 真珠湾攻撃総隊長 淵田美津雄氏の自叙伝から(前編)ホ・オボノボノ付記版 | 青い地球は誰のもの ~世界はこれからどこへ行く~

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聖書には、黙示録というのがあるそうで。やはり、本当に来るのかもしれませんね、なんちって^^;「いいね」を入れていただいても、必ずしも記事内容を支持した旨踏み絵だなんて野暮なことは思ってません。なお、フォロー・フォロー解除を頻繁に繰り返すのはおやめください。

※この記事は2019年12月にあげたものの再掲です。

◆2024年7月に、ハワイ先住民由来の智慧「ホ・オポノポノ」など、追記しています。とかげ

 

みなさん こんにちは!

お越しくださりありがとうございます。クローバー

はじめて起こし下さったお方に置かれましても、どうぞ宜しくお願い致します。

 

さて今回は、日米開戦の日12月8日(米国などでは7日)を心にとめて、表題のテーマとしまして、氏の自叙伝を読みましたので、(文庫本533ペーシ)小生なりに書評というよりは備忘録として要約?!をしたためてみようと思い立ち、でも、かなり長くなりますのでやむなく割愛したエピソードもいくつかあるのですが、よろしければ、お付き合いいただけましたら幸甚に存じます。

 

淵田美津雄氏自叙伝      

 

さて、淵田美津雄氏は、戦前、戦時中に、何度も落命の危機に直面しながら、その都度、悉く不思議にも命を落とすことなく、やがて自らもそれをはっきりと自覚するに至り、「なぜ生かされているのか?」と、彼なりに答えを求めた中で、やがてキリスト教に目醒め、戦後は、日米を股にかけるキリスト教伝道者として大いに活躍したという波乱万丈の生涯を送られた御方でした。

 

それでは、なるべく時系列に沿いながら、進めていきたく思います。

 

①胸の中からの「高度を上げよ」の声で命拾い

1930(昭和5)4月に、27歳で空母加賀に航空機搭乗員として乗組、艦隊は、航海中、なんと艦長が行方不明となり、海に落ちたのではないかと、捜索飛行に発艦したのですが、みつからず、すると、機の位置の捕捉にミスがあって、母艦への帰投の進路を誤り、次第に燃料を消耗して、払底しはじめ、いよいよ万事休すとなったとのこと、「そのときであった。私の胸の中で、高度を上げよ、高度を上げよ」と、囁くように聞こえた」とのことで、そうすると、雲の中へと突っ込んで海上を見る視界が奪われるが、万策尽きた中で、あえてその声に従ってみようとおもったそうで、それはグライダーのように滑空距離を延ばす効果があり、すると、雲の切れ目から他国の帆船が見え、その至近に不時着水して助かった。とのエピソードがのっています。

艦に帰投して上官に経緯を報告する中で、燃料残り10分というときに、高度を上げたことを称賛され、「「高度をあげよ」という声は、誰の声だったと思うかね」と問われて、その時には「さあ、私にも分かりませんけど、多分亡くなった母かもしれません」と答えたとのことでした。


②ミッドウェー海戦の攻撃隊長役を虫垂炎でリタイア

1942(昭和17)6月のミットウェー海戦、これは開戦以来、向かうところ敵なしだった日本軍(日本海軍)が、4月に起きた帝都初空襲に揺動され、二度とこのようなことがないようにと敵空母を誘出して叩いておこうと企画したもので、あわせて、ミッドウェー島を攻略占領しようという二兎を追う作戦を立て、作戦企画側は、そうすれば真珠湾で撃ち漏らした敵空母が必ず出てくると踏み、艦隊司令官には、攻撃機の半分には予め魚雷を装填しておくよう指示したにも拘わらず、現場の艦隊側では、ここに空母が出てくるわけはないと油断し、まず同島への爆撃を行ったところ、敵は既に全て暗号解読済で敵機は避退しており、指揮官友永大尉は、「第二次攻撃の要あり」と打電したものでした。陸軍の上陸部隊も来ていたわけですから、同島への攻撃を手抜きできない事情もありました。そうしたときに、索敵機から敵空母発見の知らせが入り、攻撃機には、陸用爆弾なのか魚雷なのか装填を右往左往しているうちに、敵に先手を許して惨敗したものでした。

 

さて先程、飛行隊指揮官は、友永大尉と申しましたが、本来なら、飛行総隊長は、淵田少佐でありますところ、その時、虫垂炎を患い、空母赤城艦内で手術を受けて病床にあったのでした。指揮した友永大尉は戦死されました。この海戦では参加した日本の航空母艦4隻全艦が沈没しました。ということは、その艦載機は、帰る母艦がなくなったため、ほぼ全機喪失となったのです。そうした経緯で、出撃しなかった淵田少佐は、足の骨折をしながらも、避退救出されてここでもまた落命を回避出来たのでした。

 

③広島原爆投下の前日と翌日に広島滞在

淵田氏は、1945(昭和20)8月はじめに、本土決戦の航空参謀として、広島の第二総軍司令部で打ち合わせを85日まで3日間行い、すると、電話で、東京の艦隊司令部から、大和基地の通信施設を見てほしいから、今晩中に出発せよと命令が来て、早速彼は広島を後にします。

すると翌日6日朝に、広島市には原子爆弾が投下されて壊滅したのでした。このことを6日昼に知らされた彼は、その調査隊を編成するから早速合流して調査に当たってほしいということで、翌7日に再び被爆した広島市内に入るのでした。当時の日本では、そこが放射能に汚染されているという知識も皆無の中で、何の防御もなしに瓦礫の中に入っていくというもので、後になって、この調査団員の多くは原爆症にかかってお亡くなりになり、にも拘わらず氏は、何等健康上支障も出ず、しかもこの後、被爆後の長崎にも向かったとのことで、こうした中で、次第に、「ああ、自分は死なずに生かされている、なぜだろう?」との思いが増幅していくのでした。原爆は、実験の他、本土進攻に先立って、西日本防衛を担当する第二総軍を潰しておく意図もあったのかもですね。

 

  

④占領の名の下で(黒人兵の意外な歓待)

19458月末ごろに、東京に占領軍総司令部の看板がかかると、早速呼び出され、まず経歴から尋問を受ける中で、真珠湾攻撃の飛行隊総隊長であった経歴を明かすと、相手は、説明に用いたメモにサインを求め、応じると、彼はそれを報道陣に見せびらかしたのか、以後宿舎に大勢の記者が詰めかけたのだそうでした。そんなある日、黒人兵3人が現れ、窓越しに、こちらへ来いという仕草をするので仕方なく出ていくと、どうも悪意はなさそうで、ジープに乗って郵船ビルにつき、そこのバーの楽屋裏に通されたそうです。そこで待っていたものは・・・案に相違しての大歓待で、大勢の黒人兵が、飲みねぇ 食いねぇと、酒やつまみを差し出してくる。そして、次第にその歓待の意図が掴めたのだそうで、「真珠湾空襲をだれが一番喜んだと思うか? と 問われ、そしてその答えは、「我々黒人だよ」というものでした。氏は書いています。(P338)  黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに、 頭が上がらないものとされてきた、しかし、彼らは、白と黒との差別待遇には我慢ならない思いを、いつも泣き寝入りさせられてきたのであった。それが、真珠湾で、小気味よく白人の横面を殴り飛ばして呉れた。われわれ黒人は、留飲を下げた。その御礼に、今、サービスするというのであったと。 何とも言えない気持ちになるお話ですね。

 

◇拙い余談

思えばハワイももとはハワイ王朝が統治していました。明治期にはハワイ王朝から、日本と友邦になりたいと打診があって、王族と皇族の縁談まで提案されていたそうです。(この王女様は欧州留学ののち23歳で他界されました。)でも、米国に遠慮した日本は、如何ともしがたかった、そんなお話もどこかで読みました。そんなこともあって、当時の大日本帝国とハワイ王国とは関係良好で、それで、米領になる前から日系移民が盛んになっていったんだそうです。

 

小生は、はなんだか、スビリチュアル的には、黒人だけでなく、そんな先住民の御霊の遺恨も関わっていたのか?そして、ひょっとして、原日本人と、アイヌ、エスキモー、アボリジニ、ハワイ、北米の原住民と、遥か古代には血筋は案外、近いものがあった可能性もあるのかな??等と、彼我の遺恨や因果応報は遥か時空を超えて戦をも招来するものかな??と。そんなことが、ふと頭をかすめたものでした。拙い余談失礼しました。

 

⑤改心

氏は東京裁判(後から作った罪刑で遡及して裁くのでは罪刑法定主義が欠格しており、公正な第三者でなく勝者が敗者を裁く形は「私刑」(リンチ)で「裁判」とは言えないという価値観で、そこは読者各位の判断にお任せします。)C級戦犯として憤りを感じ、敗者の日本側の戦争犯罪だけを探して追及するので、そこでひとつ、米側の日本兵に対する虐待行為等をつぶさに調べ上げ、書籍にしてやろうと考え、米国の捕虜収容所から復員した方々に、ひどい扱いを受けなかったかと取材に赴いたそうです。そうした中で、思惑に相違して、ひとつの印象深い事実を知ります。(参考映画 フランキー堺「私は貝になりたい」)
 

ユタ州の温泉の湧出する捕虜病院では、義手や義足さえも作ってくれ、そして、20歳前後の1人のアメリカ人女性が現れ、日本人傷痍捕虜に対して、懸命な奉仕を始めたという。(P393398)「みなさん、何か不自由なことがあったり、何か欲しいものがあったりしたら、私におっしゃってください。私は何でも叶えてあげたいと思っています。」と言い、時には彼女のように、妻のように、親身に勝る献身的な看護を続けてくださるので、捕虜の皆は心を打たれ、どうしてそんなに親切なのか聞いたといいます。すると、彼女(マーガレットさん)の答えたことは、なんと、「私の両親が、あなた方の日本軍によって殺されたからです」であったそうです。

 

淵田氏は、それを聞いてびっくりし、身を乗り出してさらに仔細を尋ねたといいます。

それは次のようでした。彼女の両親コベル夫妻は、日本に派遣されたバプテスト系の宣教師で、日米関係が悪化したので、引揚勧告に従って、米領フィリピンのマニラに移り、やがて開戦となり日本軍がマニラを占領したので、ルソン島北部の山中に隠れたが、1945(昭和20 )1月に、マニラで惨敗し北へ敗走した日本軍は、もはや秩序の失われた敗残軍で、夫妻がラジオを携帯していたというだけで、スパイだと濡れ衣を着せられ、その場で、日本刀で、夫妻御二方の首をはねたというのでした・・・。

これを知った彼女は日本兵に対する憤りで腹ははち切れるほどであったといいいます・・・。

 

さて後日に、現地の目撃者による米軍からの詳しい報告書を彼女は読みます。それによれば、両親の宣教師は両手を縛られ、日本兵のかざす日本刀の下へ引き据えられながらも、お二人は、心を合わせて熱い祈りを捧げていたといいます。これを読んだ彼女は、この時、ご両親がなんと祈られたかを思ってみて、「私の在り方は、憎いと思う日本兵に憎しみを返すことではない、憎いと思う日本人に対してこそ、両親の志をついで、宣教に行くことだ」と思ったそうです。 そして、自分の住んでいる町に、日本兵の捕虜収容所(病院)があることを知り、「おお、日本に行くまでもない。私の考えを実践に移す道が、こんな近いところに備えられていたか」。それから彼女は、一日も欠かすことなく、ソーシャルワーカーとして傷ついた日本兵に献身的に尽くし続けたのだそうでした。

 

氏はこれを聞いて、心が動き、やはり憎悪には終止符を打たねばならぬ、遺恨の連鎖は、断ち切らないとと。捕虜虐待の調査を中止し、そして、ひとつわからないのは、あの宣教師夫妻の最後の祈りであったといいます。一体なんと祈っていたのだろう?と。そして聖書にも関心を持って入手し、読み進めてみたところ、

 

「かくてイエスは言いたまふ。 父よ、彼らを赦し給え、その成す処を知らざればなり」(ルカ伝 二三・三四) ふんわり風船ハート

 

氏は、これだと分かったといいます。「日本刀を振りかざしている彼らは、何をしているのかわからない」のだと。そして自らがハワイに爆弾を落としたことも(殺生)。そして彼は洗礼を受け、研鑽し、ハワイへ、米国へと伝道の旅に出ることになったそうです。ハワイへ向かう航路は、かつて、真珠湾攻撃へと向かった航路、ハワイでは、自らの爆撃で父を失った遺族と面会も果たしたとのことでした。

 

あの真珠湾攻撃隊長、「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲に成功セリ)の淵田美津雄氏が、聖書を持って真珠湾に戻ってきたというこの出来事は世界を駆け巡るニュースとなり、この本の結びとは若干ズレますが、その生涯の最後の一息まで叫んだメッセージは、「憎しみの革命を通して平和は来ない。戦争を通して平和は来ない。真の平和はイエス・キリストの十字架の愛。父なる神の愛によってのみ来る。」だったそうです。なお、「全軍突撃せよ」の電文は「ト・ト・ト」(ト連送)でした。

 

⑥むすび(私感)

氏は、ご仏壇や神棚のある生家に育ったけれど、ずっと宗教的なものには興味はなかったといいます。小生はキリスト教徒ではありませんが、「(殺生が)何をしているのかわからない」、この言葉は胸にとどめておきたいものかな と思いました。そして、仏教でも「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む。」という法句経の一節があるやに見聞しております。

 

◆後日追記

この本の紹介は、武田鉄矢氏のラジオ番組「今朝の三枚おろし」で聴いたものでしたが、氏の結びは、米国の兵学校や士官学校には教会が併設されているのに、日本にはそれがない、と、彼我の宗教・思想環境の違いに帰結させてましたが、そこになにやらいまいち違和感があったものでした。それは若しかして、「一将功成りて万骨枯る」という趣旨たったのかな? 彼我双方、非人道的事象はあったのに。(原爆投下、捕虜をとらない米第41師団とか)(「海行かば」の歌詞を読むと、何とも言えない気持ちになるものでした。)

 

※なお、このときの第一次攻撃隊第1波(183機)第2波 併せて350機余との記憶ですが、艦隊帰投時、五十数名の空の未帰還者を数えたものの、それは軍神とはされず、併せて湾内に潜入させた特殊潜航艇部隊(2人乗りの小型潜水艦)も未帰還で、そちらは軍神扱いとなったものの、そこでの初の捕虜が確認されると、それは軍神から除外されるということもありました。この空海の扱いの差への現場からのクレーム処理に上層部は忙殺されたそうです。そしてまた、現場で特殊潜航艇を作戦するには、潜水母艦が当然そこにいたはずなのに、なぜか全く云々されていません。そして、同日に台南海軍航空隊がバシー海峡を跨いでフィリピン・マニラ近郊のクラーク空軍基地を空襲していたのに、そちらは、誰も何も言いませんね。

 

   

 

 

落命した将兵の合言葉は「靖国神社で会おうなクローバー」だったそうです。泣

それは、軍国主義の正当化ではなく、むしろその真逆、原爆ドームの碑文(ひふみ よいむなや⇒良い碑文 無にするなや)と同じくニ度と繰り返してはならない反戦の鎮魂の場所である筈です。

 

かように、このときの武田氏とは、優劣ではなく、ま違った趣旨・個性の解釈となりました。仏教では「悪因悪果」「不殺生」を言いますので。お願い日本はこのとき、航空機搭乗員等の救助に奔走したのかな? 川西の大型飛行艇(97式)も保有してましたね。開戦時、世界最高と言われた搭乗員の練度でしたが、それは、この後の南太平洋海戦までで払底しました。結果、マリアナでは、七面鳥撃ちと揶揄されます。それでも戦果を期待するには、VT信管の存在や、もともと生還率の極低いこともあり、(爆装零戦・99棺桶)もう、「体当たりしてこい!」となって…。つくづく、人を大事にしないと…と、思わされます。

 

本来、神道は精霊信仰であったのに、かように人命を粗末にする人的組織。日本は、戦前まで切腹のあった国です。切腹では即死できない。介錯して頸動脈を切らないと。(特攻や人間魚雷回天は、現代の電子頭脳による誘導弾に進化する素の発想かな? 同様に潜水空母伊400型も、後の核装備原子力潜水艦へのモチーフに見える蓋然性があるような。)

 

また、この作戦は、マリアナ沖で想定される日米艦隊決戦に備えて、補助艦戦力で敵主力艦の漸減を図るという従来からの思想も見えます。この辺は、千早正隆著「日本海軍の戦略発想」に詳しいです。(大和に、軽巡最上級から降ろして付けた、装甲が薄く、舷側近くに給弾設備と弾火薬庫を持つ副砲について、「そんなもの 外して蓋しとけ!」という話は秀逸な感想でした。)この本も断捨離で失った後、なんとかやっと再び買いなおしました。山本五十六氏って、航空主兵思想大艦巨砲主義、長崎ちゃんぽん麺?

 

さらに言うと、ハワイ真珠湾は、引き続き、軍港としての機能を遺憾なく発揮し続けました。急速修理ばかりでなく、休暇厚生・治療施設としても。このとき、日本軍は、足の遅い旧式戦艦など、艦船ばかりが標的として念頭にあったということかな?(こののちに出現した大和も速力27ノット(時速約50キロ)で、巨躯で燃費も悪く、そもそも用途が違い、高速空母機動部隊には随伴しづらいものでした。)

 

ちなみに、大敗北を国民に隠したミッドウェー海戦関係者は、その機密を隠すため、以後、家族に会う機会を奪われたそうです。

 

こういうのはもはや、宗教以前に、人心不在の人的組織の人権・倫理観の欠如の問題キョロキョロかな?嘘の屋上屋を重ねる「八日目の蝉」的な悪因縁の悪循環で。

 

 

南雲忠一司令官の考えは、「無傷にのうちに、かけがえのない虎の子の艦隊を日本へ連れて還ろう」だったと映画「トラ・トラ・トラ」ラストでの描写でした。そりゃそうですね。一度失ったら、日本では、人的・物的に再建不可能なんですから。氏は、かつて堀悌吉との確執も有りましたが、1944年6月のサイパン島守備隊の長として、戦死されます。お願いそこは、原爆搭載機B29(エノラ・ゲイ 中央アジアの言語で、天皇を滅ぼせ だそうで)其の原爆をテニアン島へ運搬したとされる米重巡インディアナ ポリスがその任務直後に日本潜水艦(伊58)に撃沈されるという運命の数奇さでした。

 

さて淵田氏は、戦前と戦後で、精神が大きく変遷を経ておられたのかなと思います。諸行無常、すべての人や、生きとし生けるもの、森羅万象は、移ろいゆくものですね。それは、良くも悪くもです。

例えば、各自、10年前・20年前の自分を思い出してみて、今の自分とひき比べてみたら、瓜二つなんてことはなく、どこかしら年取った分だけ、心身ともに変遷していますよね。人の好みもまた然りですね。

 

彼が戦死しなかったのは、きっと、その、改心した精神で、戦後に果たす役割が用意されていたためだったのかもしれませんね…?。クローバーチューリップ

 

小生が先ず思うことは、先の大戦で殉職された、日本だけでも、銃後の三ちゃん(爺さん・婆さん・女性・子供などの国民・弱者)を除いて、幾多の名もない何百万という将兵・軍属等 おばけくんに、彼我の御霊にむけて、回向有縁無縁一切精霊お願いと鎮魂の祈りを捧げ、どうか佳い生まれ変わりをされますように、世の悪因縁が減りますようにと、こうした事象の再発防止を願いたいものでした。お願い あわせて 重油で汚した海・空気、いきもの・地球地球にも、ごめんね 波 ですね。

 

ふんわり風船ハート「ごめんなさい」(謝罪)は、「ありがとう」(感謝 )と同じくらい大切な言の葉🍃・言霊おばけくんですね。ところが、素直に これを言ったら、「あ、自らの有罪を認めたのね~ニヤリ」とばかりに、さらなる糾弾に遭う場合があって、なので、慎重に態度と言葉を選ばなくちゃ、という現実もあるのかな~びっくり、ですね。トラ地球

 

ハワイの智慧、ホ・オポノポノの本も持っています。(はじめてのホ・オポノポノ(宝島社))それは、要約しますと、次のとおりだそうです。

とかげ(いつもうちに居られる ハワイの?ゲッコーさま月見)とかげ

 

ありがとう晴れ

ごめんなさいアセアセ

ゆるしてくださいネザーランド・ドワーフ

愛していますふんわり風船ハートとかげ

 

この4つの言葉の意味を味わい唱えることで、本来の自分ハートのバルーンを取り戻すことができるそうで、〆に載せてみました。これが、気兼ねなく、ごく素直・自然に 言い合える世の中になるとイイですね。うずまき

 

あぁ、ハワイに始まり、〆る話となりました。最後までお付き合い下さり、どうも ありがとうございました。それでは また晴れカエル