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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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///P135///

   第四黙想 我 が 罪

 

 序想一 一人の純な少年を想像する。次に、年過ぎて、堕落し、失敗した同人物を思ふ。

 序想二 我自身を知るために眞の知識が與へられ、凡て悲惨な有様と罪の恥辱を感じ、眞實の悔恨が生ずるやう祈る。

 

     一 恩惠に活ける靈魂の善美

 一、今し、洗禮を授けられた一小兒を想像する。一點の汚染もないその靈魂――キリストと聖靈の御内住――聖きと榮光に到り得る素質――を想ふ。

 二、我が靈魂も一度は斯くあつた。それと現在の状能とを比較して見よう。先づ、わが記憶に宿る第一の大罪を思ひ起す。次に、大方幾年の間の罪が、續いて想ひ浮ぶのである。その結果は靈肉の穢れ、惡慾情の反逆、惡習の奴隷たるこ

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と、忌しい記憶、汚れた思想と想像の出没、心情の冷酷、時には恰も死屍の如きこと、祈祷と心靈的事物に對して無味と嫌惡を感じ、神よりの隔離を覺ゆること等である。

 三、我は、若し幼少のとき、未だ洗禮の恩惠が新しい中に此の世を去つたならば、永遠に神と偕に居り、決して罪の悲惨と汚辱を知らずに濟んだであらう。

 四、もし現在の儘で死ぬとすれば、死は我に悔恨と恩惠を見出して呉れるであらうか。恩惠の中に死ぬことは救ひであるが、恩惠なくして死ぬことは滅びである。

 五、仮令、我は既に悔改めて居り、恩惠の中に生活して居るとしても、猶、神の御憐みによつて浄化さるべき如何に多くの罪の汚れがあるであらう。如何に多くの恩惠を、罪過の生活中に濫費したであらう。我に與へらるべくあつた如何許りの榮光が、没収せられて居るであらう。

     二 罪は死なること

///P137///

 一、大罪は霊魂の死である。 神の恩惠は靈魂の生命であり、大罪は靈魂を神から引き離す。恰も肉體は靈魂から離れ去るとき死ぬ如く、靈魂は神から離れるときに死ぬのである。

 二、大罪は靈魂の美を損ふ。 ルシファーは、諸天使中最も榮譽ある者であつたが、罪によつて、諸天使中最も恐るべき者となりて仕舞つた。アダムの靈魂は、神の恩惠により、光輝あるものであつたが、一度の罪のため恩惠を失ふや、その生命の美は一切去つてしまつた。斯くの如く、我らも大罪を犯すとき、恩惠は去り、我らの靈魂は腐敗すべき死屍の如きものとなるのである。

 三、大罪は靈魂が天に貯へてある凡ての財寶を失はせる。樹木枯死すれば、果實も亦枯死する。その如く、大罪により、我らが凡ての善行も死に、神から與へらるべき報奨も、皆失はれるのである。然し乍ら、若し、靈魂が悔改めと赦罪とにより恩惠の中にかへされるならば、それら凡ての發果も蘇生する。何となれば、その木、即ち靈魂がもう一度活かされるからである。

 四、大罪は靈魂の能力を駆逐して、何事によらず、永遠の報賞を受くるに價す

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る事を不可能にする。 大罪中に生活する人の一切の行爲は、死んだものである。その中にはキリストの恩惠も功徳もなく、神を喜ばせ奉る力もない。

 五、大罪は靈魂を聖徒の交通から切り離す。癩病者がイスラエル人の天幕から退けられた如く、大罪を負ふ靈魂は、聖徒の交通及び神の家族から放逐されるのである。≪レビ記一三。四六≫

 六、大罪は霊魂を斷えず地獄の危険に置く。急病、奇禍、心臓の故障などは、如何なる時生命を絶つか豫め知ることが出來ぬ。そして悔改めず、大罪中に去つた靈魂は永遠に滅びるのである。

 七、小罪――靈魂を一撃の下に殺さぬ僅少の罪――と雖も猶死の萌芽を含む。それは靈魂の疾病である。小患が身體を衰弱させ、重病に冒され易からしめる如く、小罪も、之を防がぬとき、靈魂を致命的の罪に導く。『小事を輕んずる者は少しづゝ倒れ行くべし』≪ペン・シラの智慧一九。一≫ 小罪が大罪となることは極めて容易である。殊に、良心が惡習に依つて鈍くされて居るときはさうである。

 

     三 我 が 罪

 一、仮令、一度大罪を犯したことがあつても、それは我をして地獄に陥らしめるに充分である。我が既に滅びて居らぬは、實に神の御憐みである。さらば、我が多くの罪咎を何と考ふべきであらうか。≪コリント後書三。一六、一七、六。一五≫度々繰返へして習癖となり、多年の間その奴隷となつている恐ろしい罪。それに對して殆ど後悔を感じなかつた――現に感じて居らぬと思はれる罪。神の御榮光と恩惠と、更にまた屡々ある我が良心の警告とに背いた罪。我が身と靈魂を汚辱した罪。キリストの肢とせられ、聖靈の宮とせられた者でありながら、敢えて犯した幾多の罪等を思ひ起す。

 二、我が罪の大きさと、罪を以て我が背き奉つた神の偉大さとを、推し量らねばならぬ。

 (一)主の愛。主が我を作り給うたのは我をして主の生命、主の愛、主の歓喜に與らせんためである。故意に、知りつゝ、罪を犯すときは、常にこの愛を蹂躙して居たのである。

///P140///

 (二)主の神性。我は罪に依つて、神の御姿に肖せて創造されし自身を穢し、野獸以下に卑賤ならしめた。即ち、野獸は與へられた本能に従ふが、我は御姿に肖せて造られた本然の性法に背いて、罪を犯すのである。

 (三)主の能力。瞬時の休みなく、主は我を保ち、存世せしめ給ふ。仮令與へられた我が靈肉の機能を以つて、主に對して、罪を犯す際と雖も、猶、主は我を保ち居給ふのである。

 (四)主の全智。我は決して主の御眼から隠れることが出來ぬ。主は我が内外を知り、心の密かなる思想を知り給ふのである。

 (五)主の遍在。人が我が罪の證人として立現れただけでも、それが我を検束する。然るに、神は何處にも在し給ふと思ふとも、それが決して我を制止せぬのである。

 (六)主の忍耐。若し、神が我が罪過とその刑罰との間に、猶豫を置き給はぬとしたら、我は敢て罪を犯すであらうか。然るに、神は忍び給ふが故に、我はその御寛容を濫用し奉るのである。

///P141///

 三、抑も、我が敢て背いて罪を犯すは神に對してである。それは何が爲か。それは卑賤な、價値なき目的物、我乍ら恥づべき或る種の邪情の滿足。刹那に過ぎ去つて、殘るは唯罪と悔いのみである快樂、等のためである。

 (一)何たる愚劣であらう。我は罪過により、我が父、我が救主、我が最上であり唯一の善美である神を棄てた。そして、その代りに發見したものは羞恥、後悔、地獄の恐怖等のみではないか。

 (二)更に惡しきは、何たる忘恩ぞ。我が存在と我が所有する凡てのもの、また我が周圍にある凡ての善き物、一切は神より受けたのである。然るに、此らの恩賜に對して感謝し、神の榮光のために用ふる代りに、却つて此を濫用し、此が故に數限りなく罪を犯したのである。

 

 主よ。願くは、我が罪咎を悟り、之を憎むことを得させ給へ。願くは眞實に衷心の悔いを授け、また恩惠により、再び大罪を以て主に背くこと勿らしめ給へ。

 

 聖範 第三巻 第十四章。第五十二章。

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===現代語訳案===2020.12.25

///P135///

   第四黙想 我 が 罪

 

 序想一 一人の純朴な少年を想像する。そして、年が過ぎ、堕落し、失敗した同じ人物を思う。

 序想二 わたし自身を知るために、真の知識が与えられ、すべての悲惨な有様と、罪による恥辱を感じ取り、わたしの中に真実の悔恨が起きるように祈る。

 

    一 恵みによって活かされる霊魂の善なる美

 一、たった今、洗礼を授けられた一人の幼子を想像する。一点の汚れもないその魂――そこにはキリストと聖霊がご内住されており、聖性と栄光に到ることが出来る素養がある――を思う。

 二、わたしの魂も一度はそのような状態だったことがある。そのときと、現在の状態を比較してみよう。まず、自身の記憶に宿る最大の大罪を思い起こせば、続いて何年もの間の罪が続いて思い浮かぶだろう。それは例えば、魂と肉体の穢れ、悪性の欲情の反逆、悪習の奴隷となっていること、忌まわしい記憶、汚れた思想と想像、心情の冷酷さ、ときにはまるで屍のようであったこと、祈りと霊的な事柄をつまらないものと感じて嫌悪し、神から離れようとしたことなどである。

 三、もしわたしが幼い頃に、洗礼の恵みが真新しい中でこの世を去ったのであれば、永遠に神とともいることができ、罪による悲惨と汚辱を知らずに済んだことだろう。

 四、しかし、もし現在のままの魂で死ぬとすれば、死はわたしの中から悔恨と恵みを見出してくれるだろうか。恵みの中で死ぬことは救いだが、恵みなくして死ぬことは滅びである。

 五、たとえわたしがすでに悔改めていて、恵みの中で生活しているとしても、なお神の御憐みによって浄化されるべき多くの罪・汚れがあるのではないか。罪にまみれた生活の中で、どれほど多くの恵みを浪費してきたことか。わたしに与えられるはずだった栄光は、どれほど没収されてしまっているのだろうか。

 

     二 罪は死であるということ

 一、大罪とは霊魂の死である。 神の恵みは魂の生命そのものであり、大罪は魂を神から引き離す。まるで肉体から霊魂が離れるときに死が訪れるように、霊魂は神から離れるときに死を迎える。

 二、大罪は魂の美しさを損なう。 ルシファーは、諸天使の中でも最も栄誉ある存在だったが、罪によって堕落し、天使の中でも最も恐れられるものとなってしまった。アダムの魂は、神の恵みによって光輝あるものであったが、一度の罪のために恵みを失ったことで、そこにあった生命の美の一切は去ってしまった。このようにわたしたちも、大罪を犯したときに神の恵みを失い、私たちの魂は朽ち行く屍のようになってしまう。

 三、大罪は、魂が天に蓄えたすべての財宝を失わせる。 樹木が枯死すれば、その果実もまた枯れて死んでしまう。それと同じように、大罪によって私たちのすべての善行も死に、神から与えられるはずだった報いや褒美もまたすべて失われる。しかしながら、もし魂が悔改めと罪の赦しによって神の恩恵の中に再び帰ることができるならば、それらのすべてん果実もよみがえる。その木、つまりわたしたちの靈魂がもう一度活かされることになるからである。

 四、大罪は魂の能力を駆逐し、どのような場合でも、永遠の報いを受けるに値することを不可能にする。 大罪の中に生活する人のすべての行為は死んだものである。その中にはキリストの恵みも功徳もなく、わたしたちが神にお喜びいただけるようにする力もない。

 五、大罪は魂を聖徒の交わりから切り離す。癩病患者がイスラエル人の天幕に入ることを許されなかったように≪レビ13:46≫、大罪を負った魂は、聖徒の交わりと神の家族から放逐される。

 六、大罪は霊魂を絶えず地獄の危険と隣り合わせる。 急病、不意の災難、心臓の故障などにより、思いがけない時期に生命が絶たれるかもしれない。そのとき、大罪の中にある人は悔改めることもできず、そのようにして世を去った魂は永遠に滅びることになる。

 七、小罪――魂を一撃で殺すことのない小さな罪――といえど、なお死の芽を含んでいる。それは言うなれば霊魂の病気である。それ自体は大したことのない病気であっても、それによって身体が衰弱し、重病に冒されやすくなるのと同じように、小罪もそれを防がないと魂を致命的な罪に導く。『小事を軽んずるものは少しづつ倒れるだろう』≪シラ書19:1≫ 小罪が大罪になることは極めて容易なことだ。特に、悪習によって良心が鈍っているときはなおさらそうである。

 

     三 我が罪

 一、たとえ大罪を犯したことが1度きりであったとしても、わたしを地獄に陥らせるには充分である。それにも拘わらずわたしが未だに滅びていないのは、一重に神の御憐みによる。それならば、わたしが犯した多くの罪咎はどのように考えるべきであろうか。≪2コリ3:16-17、6:15≫ 罪をたびたび繰り返して習癖とし、長年の間その奴隷となっている恐るべき罪。また、それに対してほとんど後悔を感じなかった、現に感じていないという罪。神の栄光と恩恵、更にはしばしばあったはずの自身の良心による警告に背いた罪。自身の身体と魂を汚辱させた罪、それはキリストの体の肢であり、聖霊の宮とされた者でありながら、敢えて犯してきた数多の罪を思い起こさせる。

 二、わたしの罪の大きさと、罪によりわたしたちが背いた神の偉大さとを推し量らねばならない。

 (一)主の愛。 主がわたしをお造りになられたのは、わたしを主の生命、主の愛、主の喜びに与らせるためである。故意に、罪と知りつつそれを犯すとき、私たちはいつもこの愛を蹂躙していた。

 (二)主の神性。わたしは罪によって、神のみ姿に似せて創造された自分自身を穢し、野獣以下の卑賤なものとしてしまった。なぜなら、野獣は与えられた本能に従っているだけだが、わたしたちはみ姿に似せて造られた本来の性分に背いて罪を犯しているからである。

 (三)主の能力。主は一瞬たりとも休むことなく、わたしという存在を保ち、この世界に存在させられている。わたしたちが、神が与えられた身体と魂の働きをもって主に対して罪を犯しても、それでもなお主はわたしを保ち続けてくださっている。

 (四)主の全知。わたしは決して主の御目から隠れることはできない。主はわたしの内面・外見のすべてを知り、心の中の密かな思想をもご存知である。

 (五)主の遍在。わたしの罪の証人として別の人が現れただけでも、わたしはそれによって自由な行動をとらなくなるだろう。しかし、神はいつでも、どこにでも存在されるにも関わらず、決してわたしを制止することはない。

 (六)主の忍耐。もし、神がわたしの罪咎とそれに対する罰の間に、なんの猶予も与えてくださらないとしたら、わたしはあえて罪を犯すだろうか。神が忍んでくださっているのをいいことに、わたしはそのご寛容を濫用している。

 三、そもそも、わたしが神に背き、罪を犯すのは何のためか。それは卑賤で無価値な目的物や、恥ずべき邪な心の満足、後にただ罪と悔いだけを残す刹那的な快楽のためである。

 (一)なんとばかげたことか。わたしは罪過によって、わたしの父、わたしの救い主、わたしの最上にして唯一の善なる美である神を棄てた。そして、その代わりに得たものは羞恥、後悔、地獄への恐怖だけではないか。

 (二)更に悪いことに、何という恩知らずか。わたしという存在とわたしが持つすべてのもの、また、わたしの周囲にある一切の善いもののすべては神からうけたものだ。それなのに、これらの恩賜に対して感謝し、神の栄光のために用いるどころか、かえってこれらのものを濫用し、これらのもののために数限りない罪を犯している。

 

 主よ、願わくは、わたしが自分の罪咎を悟り、これを憎むことが出来るようにしてください。願わくは、真実に、真心からの悔いを授け、また恵みにより再び大罪を犯して主に背くことがないようにしてください。

 

 聖範 第三巻 第14章。第52章。

 

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久しぶりの長文である。クリスマスの恵みに感謝。

内容は引き続き重いけど。

リトリートが内省を促すものだけに、「調子に乗ってんなよ」というメッセージをひしひしと感じられる。

 

最近の教会はどちらかと言えば、「大丈夫、神は許してくれる、あなたのままでいい、許しあう、それが愛。」みたいな風潮が強いが、

キリスト教というかアブラハムの宗教のできて来た過程を見れば、「あなたのままでいい」なんていう要素は全くなく、

理不尽だろうと、意味がわらからなかろうと神に従え、なぜならそうすることになっているからだ、という原理である。

 

他者の過ちに寛容であることと、自分の信仰からくる「そりゃだめだろ」ってことまで大目に見ることは違うことだと思う。

ここでも出てくるように、過ちを悔改めるからこそ、赦され(=罪がなかったことになるではない)、罰を受けることを免除される、

というからにはそもそもは過ちを犯さないように生きよう、が前提になっていて、それでも人は弱いから罪を犯してしまうけど、

それでも神の慈悲で即地獄行ではなく、心から悔改めれば赦してもらえる可能性がある、ってことであって、

 

開き直って自由に欲望のまま、思うがままに生きて、ダメだったら謝れば許してもらえる、ってわけじゃないのだと思うのよな。

その辺って、いま世の中にあふれるポリコレとか、なんでも差別差別、なんでも法律違反法律違反、っていう風潮もその表れなんだと思う。

 

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レビ記の規程は、この部分を含めて、共同体から締め出されるような規則は、重病=神の恩恵を失っているということだけでなく、経験則に基づく感染予防としての効果があったと言われている。その意味でも、小罪を持つ者が聖徒や神の家族に対して罪の伝播につながるので排除されるということだろうか。


■レビ記(13:46) 

45重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 46この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

 

■知恵の書(19:1) 出展元には同内容の記載がない。

1神を信じない者たちには、容赦のない怒りが下った。彼らが後に何をするかを、主はあらかじめご存じだった。

2彼らが民の出国を許し、せきたてて追い出した後で、後悔して追いかけることをご存じだった。

 

■コリントの信徒への手紙二(3:16)

10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

12このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、 13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

 

■コリントの信徒への手紙二(6:15)

14あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 15キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。