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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

順番が前後してしまうが、クリスマスなのでこの記事に取り掛かるようにしたい。

なお、前回の「第5黙想 我が罪」からしばらくは重いタイトルが並ぶ。

・第5黙想 死

・第6黙想 大審判

・第7黙想 痛悔と赦罪

・第8黙想 キリストの御国と召命

 

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===P173===

   第九黙想 罪性治癒としての受肉御降誕

 

 序想一 それを取り給ひしにより、人類の中に在り給ふ主イエスの御身體、それは恰も、光㷔(注・火へんにノ、ツ、旧)と熱氣を失うた冷灰中に、形を顕はしつゝある。一塊の炭火の如しと云はう。

 序想二 キリストが來り與へんとし給ふ、活かす能力を體験し得るやう祈る。

 

     一 人間性の死

 

 一、肉體に於ても靈魂に於ても、死は、アダムの罪に對する刑罰であつた。彼の靈魂が直ちに死んだのは、その生命であつた神の「聖成の恩惠を失うたからである。そして、彼の肉體もまた死の宣告を蒙り、病氣、廢朽、解體等に支配される者となつた。罪の毒素は肉體にも靈魂にも滲入し、三重の惡慾を殖えつけた。『即ち、肉の慾、眼の慾、所有【もちもの】の誇』である≪ヨハネ第一書二。一六≫ 斯く、廢滅と死は是に起源を發

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したのである。

 二、人類の全歴史を通して、徐々に顕れて來た廢滅の様を想ふ。≪ロマ書一。一八ー三一≫――大洪水前の世界、ソドムとゴモラ、バビロン、エヂプト、アツシリア、亡國に際してのギリシヤとロマ、等の邪惡を想ふ。聖パウロが記述した、當時の異教世界の状態を推測する。

 三、之をユダヤ人の歴史に照らしても大差はない。肉に由れば、キリストの先祖に當る。ユダとイスラエル各王國の諸王を思ふ。彼のバビロン浮囚による、淨化的訓練を受けた後に拘らず、全國民は如何に成り果てて行つたか。我らの主の御在世當時は如何ん。此の如く、國民的頽廃は引續いて、癒すことが出來ず、そして生命に在す御言【ことば】が肉體と成り、降世し給うた時に迄及んだのである。

 

     二 キリストの人格中に宿る人の新生命

 一、ナザレの貧しい小屋を想見する。そこに天使ガブリエルが祝せられた處女に告げた。『めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと偕に在せり。……視よ、な.

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んぢ孕【みごも】りて、男子を生まん。其の名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり。』≪ルカ傳一。二八ー三一、マタイ傳一。二一≫ その時マリアは答へた。『視よ。われは主の婢女【はしため】なり、汝の言の如く我に成れかし』と。≪ルカ傳一。三八≫

 二、かくて、言は肉體となつて我らの中に宿り、そして、恩惠と眞理に滿ちて在し給うた。≪ヨハネ傳一。一四≫ ああ、驚嘆すべきは、神の愛の能力なるかな。人性の頽廃は、御降誕の神子の御人格中に終止した。然し、キリストから離れた、外界の人々は、益々惡化する。唯、主に在る者のみは頽廃腐敗を止められる。人の生命は、主に在つて新たに組織され、人の凡ての才能は、思慮と良心の命ずる處に從つて働く。理性に開眼された意志は、神の聖意に對し忠誠を儘すに到る。主に在つて、人は堕落以前のアダムの状態に引かへされる。否、それよりも一層近く神に結ばれるものであり、此の結合の恩惠は、決して喪失することがないからである。

 三、斯く、永遠なる神の御子として、永久不離、主に屬する神の生命は、その人性に滿ち、且、それは主に來る凡ての者の潔めと革新の源泉となるのである。

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     三 主イエスの人性よりの生命は、

        凡て主に連なる者に傳達さる

 

 一、我らは皆此の革新を要する。キリストは人を死の状態にある儘救ひ給はぬ。主は人々を、頽廃と死滅の原因である罪の中に在つてでなく、罪より救ひ給ふのである。主は、人々に新生命を與へることに由つて救ひ給ふのである。≪マタイ傳一。二一≫≪ヨハネ第一書五。一一≫

 二、然し、之は唯、我らが主と結合するに由つてのみ出來るのである。キリストがその御身位に、我らの人性をとり給うたことが、我らに新生命を與へるのではない。仮令、聖なる主の御母の如き身分關係に由り、主に親しく結ばれるとしても、それは不可能である。我らは、主の御體に接がれることによつて新生命を得ねばならぬ。『水と靈とによりて生れ』≪ヨハネ傳三。五≫ねばならぬ。かくて、我らは新に生れ、唯主の御體と御血に養はれて、その生命を持續し得るのである。『まことに誠に、なんぢらに告ぐ、人の子肉を食はず、その血を飲まずば汝らに生命【いのち】なし。されど『わが肉をくらひ、我が血をのむ者は、我に居り、我もまた彼に居る。』≪ヨハネ傳六。五三、五六≫ そして『永遠【とこしへ】の生命【いのち】をもつ。』 即ち彼は『我によりて活くべし』と、主は言ひ給ふので

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ある。

 三、此の如く、キリストの中に存する神の生命は、我らに傳へられ、我らの全性、全身、全靈を、潔め革新する。されば我らは祭壇に進むとき恁う祈る。「我らの罪ある體はキリストの體にて潔められ、我らの靈魂【たましひ】は其の貴き血にて洗はれ、我らは常にキリストに居り、キリストは常に我らに在すことを得させ給へ。」≪祈祷書三五七頁≫ 我らの頽廃的状態は、御獨子に依つて、我らに健康と癒しを賜はんとする神の思召を妨げない。我らが汚染も、悔い改めて罪より脱出せんとする我らに來り給ふ主を妨げ奉らぬ。専心主に頼るとき、我らの弱きことは、主の御能力への妨げとはならぬのである。

 四、されば我らは希望に滿たされるではないか。如何に我らは弱くとも、如何に罪に疲勞し、罪癖に捕へられて居ても、それは神力の障碍とはならぬ。唯我らは、赦罪を願う碎けた悔ゆる心を以て主に近づき、生命と靈的健康の快復のため、聖餐式に來るのみである。今再び、序想に於て描いた、冷灰中に殘一塊の炭火を想ひ起す。彼の一塊は冷えた炭全體を熱する能力がある。その如く、キリ

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ストの聖體は全世界を變化させる能力がある。そして、聖餐式に於て恭しく之を拝領する者には、生命と熱誠の火が點ぜられる。

 五、然し、之は一隻日の業ではない。恐らく一生涯を要する。此の世に於ける我らが生涯の目的は、試練誘惑の一切と、恩惠の凡ての機會とを以て、層一層とキリストに有るやう改造され、我らが舊い罪性は去り、新らしいキリストの性が代つて我が裡に宿り、遂に、聖パウロと共に此く言ひ得るに到らんがためである。『最早やわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。』≪ガラテヤ書二。二〇≫

 以上の如く、御子御降世をば、我らが罪性治療の大奥儀として默想せねばならぬ。人間性の死滅と腐爛、キリストの人格中に起された人間性への新生命、そして此の生命は主に結合される者に傳達されること、等を想ふ。そして、我が祈祷中、かゝる大なる恩惠を感謝せねばならぬ。同時に、生命と治療の恩惠を無にして、以前死の道を歩んで居ることを悲しみ、之を告白する。若し恩惠を正しく用ゐて居たならば、今日如何なる状態に在るべきか。然るに、實際は如何にあるか、等を思ふ。されど、猶、希望は殘つて居る。わが過去の失敗と現在の柔弱が

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如何様なりとも、神子御降世の恩惠はその凡てを癒し滿すに充分である。ああ、キリストが今我を待ち居給ふこと如何許りであらう。我は唯、祈祷に於て主にゆき、一切の罪が癒されんことを願ふと告げ、そして、今より後、自由となつて新生命に活き、主に仕へ奉るのみである。

 

 聖範 第三巻 第五十五章

 

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===現代語訳案===2020.12.25

   第九黙想 罪性治癒としての受肉御降誕

 序想一 人間の形をお取りになることで、人類の中におられる主イエスの御体、それはまるで炎光と熱気を失った冷たい灰の中で、姿を見せつつある。一片の炭火のようなものであると言えよう。

 序想二 キリストが来て、与えてくださろうとされた、活かす能力を体験できるよう祈る。

 

     一 人間性の死

 一、死は、霊的・肉体的双方の意味において、アダムの罪に対する刑罰である。彼の霊魂が直ちに死んだのは、その源泉であった神による聖性という恵みを失ったからである。そして、彼の肉体もまた死の宣告を受けたことで、病気、朽廃、解体等に支配される者となった。罪の毒素は肉体にも魂にも染み込み、三重の悪欲を植え付けた。「肉の欲、目の欲、生活のおごり」である。≪1ヨハ2:16≫ このように廃滅と死はアダムの罪から始まった。

 二、人類の全歴史を通じて、徐々に表れて来た廃滅の様子を想う。≪ロマ1:18-31≫――大洪水前の世界、ソドムとゴモラ、バビロン、エジプト、アッシリア、滅亡時のギリシャやローマなどにあった邪悪を想像する。聖パウロが記述した、当時の異教徒の世界の状態を推測する。

 三、それをユダヤ人の歴史と比べたときに、そこに大きな差はない。肉体的にはキリストの先祖にあたる。ユダとイスラエルの各王国の諸王を想う。あのバビロン捕囚によって、浄化的な訓練を受けた後であるにも関わらず、全国民はどのようになり果てていったか。わたしたちの主がこの世におられたときはどうだったか。このように、国民的な退廃は引き続き、癒すこともできずにい。それは、生命である言葉が肉体なり、世にお降りになられるときまで及んだ。

 

     二 キリストの人格の中に宿る新たな生命

 一、ナザレの貧しい小屋を想像する。そこに天使ガブリエルが来て、祝福されたおとめに告げた。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる・・・・・・見よ、あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』≪ルカ1:28-31、マタ1-21≫ そのとき、マリヤは答えた。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』≪ルカ1:38≫

 二、このようにして、言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは恵みと真理とに満ちていた。≪ヨハ1:14≫ ああ、驚嘆すべきは神の愛のお力である。人性の退廃は、御降誕の神の子のご人格の中で終止された。しかし、キリストから離れた外の世界の人々はますます悪化している。ただ主に在る者だけは退廃腐敗を止めることが出来る。人の生命は、主にあって新たに組織され、すべての才能は思慮と良心の命令に従って働く。理性によって開眼された意思は、神の聖なる意思にして忠誠を尽くすに至る。主に在って、人は堕落以前のアダムと同じ状態に引き戻される。いや、むしろそれよりも一層神に近く結ばれる。この結合の恩恵は決して喪失することがないからである。

 三、このように、永遠の神の御子として永久に離れず、主に属する神の生命は、その人生に満たされており、また主の下に来るすべての人の清めと革新の源泉となる。

 

     三 主イエスの人性から出る生命は、主に連なるすべての者に伝達される

 一、わたしたちはみな、この革新を必要とする。キリストは人を死の状態にしたままでお救いにはならない。主は人々を罪の原因である退廃と死滅の中にいさせず、罪からお救いくださる。主は人々に新たな生命をお与えになることで、お救いくださるのである。≪マタ1:21、1ヨハ5:11≫

 二、しかし、この救いは、わたしたちが主と結合することによってのみ可能となる。キリストがその御姿に、わたしたちと同じ人性をおとりになったことをもって、わたしたちに新たな生命が与えられるのではない。たとえ聖なる主の御母のような身分関係で、主と親しく結ばれたとしてもそれは不可能である。わたしたちは、主の御体に繋がることで新たな生命を得なくてはならない。『水と霊とによって生まれななければ』ならない。≪ヨハ3:5≫ こうしてわたしたちは新たに生まれ、ただ主の御体と御血に養われて、その命を保つことが出来る。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 ・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』≪ヨハ6:53,56≫と主は言われる。

 三、このように、キリストの中に存在する神の生命は、わたしたちに伝えられ、わたしたちの全ての性、全身全霊を浄め、革新する。そのため、わたしたちは祭壇に進むときにこのように祈る。「わたしたちの罪ある体は、キリストの体によって清められ、わたしたちの霊魂はその貴き血によって洗われ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられるようにしてください。」≪祈祷書P357≫ わたしたちの退廃的状況は、御独り子によって、わたしたちに健康といやしをたまわろうとする神の思召しを妨げない。わたしたちの汚染も、悔い改めて

罪から脱出しようとするとき、わたしたちのところにお越しくださる主を妨げることはない。一心に主に寄り頼むとき、わたしたちが弱いことは、主のお力への妨げにはならないのである。

 四、それならばわたしたちは、希望に満たされるではない。どれほどわたしたちが弱くとも、どれほど罪に疲れ、習慣化してしまった罪に捕らえられていたとしても、それは神の力の障害にはならない。わたしたちはただ、罪の赦しを願う砕けた悔い改めの心をもって主に近づき、生命と魂の健康が快復されるよう聖餐式に集うだけである。今、序想で想像した冷たい灰の中の一片の炭火を思い起こす。この炭火は、冷えてしまった炭全体を熱する力を持っている。そのように、キリストの聖体には全世界を変化させる力がある。聖餐式において、謹んでこれを拝領する者には、生命と熱誠の火が点けられる。

 五、しかし、これは一朝一夕にできることではない。おそらく生涯をかけた実践が必要になる。この世でのわたしたちの生涯の目的は、試練や誘惑の一切、恵みによるすべての機会を使って、なお一層キリストにあるように改められ、わたしたちの古い罪性は去り、新たなキリストの性がそれに代わってわたしたちに宿り、ついには聖パウロのように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」≪ガラ2:20≫とに言うことが出来るような境地に至ることである。

 

 このように、神の御子がわたしたちの世界に降られたことは、わたしたちの罪の性質を治療するための大奥義であったと黙想しなくてはならない。人間性による死滅と腐乱、キリストの人格の中に起こされた人間性の中の新たな生命、そしてこの生命が主に結ばれる人々に伝達されることなどを想う。そして、わたしの祈りの中で、この偉大な恵みに感謝をしなくてはならない。同時に、今の自分が、生命と治療の恵みを無にして、以前の死の道を歩んでいることを悲しみ、これを告白する。もしこの恩恵を正しく用いていたのであれば、今どのような状態にあるべきか。それにもかかわらず、実際はどのようであるか、などを想う。しかし、それでもなお希望は残っている。わたしの過去の失敗と、現在の優柔、弱みがどのような姿であったとしても、神の子のご降誕の恵みはそれらすべてを癒し、満たすに充分である。ああ、今キリストがわたしをお待ちくださっておられることはどれほどであろうか。わたしはただ、祈りにおいて主のもとに行き、一切の罪が癒されることを願うと告げる。そして今から後、自由になって新たな生命に活き、主にお仕えするだけである。

 

 聖範 第三巻 第55章

 

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今ひどい状況の中にあったとしても、それを悔やみ、主のご降誕の恵みに与れば、新たな生命を得る希望があるとのことである。

クリスマスらしい救いのある終わり方で良かった。

しかし、久しぶりにたくさん文字を打ったので大変目がシパシパする。コツコツ続けるなら一日0.5~1黙想くらいが限界かな。

 

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■ヨハネの手紙一(2:16)

15世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 16なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 17世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 

■ルカによる福音書(1章)

26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 37神にできないことは何一つない。」 38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

■マタイによる福音書(1章)

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

■ヨハネによる福音書(1:14)

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

■ヨハネによる福音書(3:5)

4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 

■ヨハネによる福音書(6:53)

 53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

□日本聖公会祈祷書(1990) P181 陪餐前の祈り。

主の祈り、「わたしたちがパンを裂くとき・・・」に続いて

「憐み深い主よ、わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。わたしたちはみ机から落ちるくずを拾うにも足りない者ですが、主は変わることなく常に養ってくださいます。恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン。」

引き続き、アグヌスデイ・子羊唱、陪餐へ。

 

■ガラテヤの信徒への手紙(2:20)

18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 

■ローマの信徒への手紙(1:18-31)

18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 19なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 20世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 21なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 22自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 23滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

24そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 25神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 26それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 27同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。 28彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 29あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 30人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 31無知、不誠実、無情、無慈悲です。 32彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。