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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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   第五默想 死

 

 死は、その來るとき、百千の妄想を追ひ拂ふ。今、一層眞實に我が生涯を考察する助けとなる。それは何處に向つて居るか。全體、それは我が臨終の牀上から如何に観えるであらうか。その時、斯くあらばよかりしにと思ふは如何なる生活であらうか。今心を鎮めて、死の考想に親しんで見よう。

 

 序想一 臨終の牀上に横はる我自身を想像する。

 序想二 我が死に臨むとき、然かあるべく願ふ生活を、今始め得られるやう恩恵を祈る。

 

     一 死の別離

 一、死は我を地上一切の事物から引離す。『我らは何をも携へて世に來らず、ま

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た何をも携へて世を去ること能はざればなり。』≪テモテ前書六。七≫ 死は凡ての事物に我を繋ぐところの絆【きづな】を絶ち切る。親族、朋友、財産、名譽、快樂、趣味、計畫、研究、事業――凡てが後に遺されねばならぬ。

 二、死は我を事業から引離す。但し、その結果としての、善悪何れかが我が心に殘る。死の刹那に神の御前に出て、我が過去の生涯と凡ての行爲を、神の御眼に映ずるその如く観せつけられるのであるが、それは如何なる姿であらうか。先には善と思はれた如何に多くの事業が、今は唯『木、草、藁』に類するものと見えるであらう。≪コリント前書三。一二ー一五≫ 宜しんば自身は神の御憐みによつて救はれようとも、それらは審判の火により燼滅せらるべきものであらう。ああ、自身は救はれても、自己の一切の事業が、聖火に燼滅されるのを見ねばならぬ人々の徒勞さよ。神前に立ち、聖火に照らされて見れば、神への愛のためにしたことは僅少若しくは皆無であつた。却つて我が生涯は、永遠のため無益にして、やがて審判の火に煙と化すべき事のため、如何に多く費やされて居ることであらう。然り。死は我が爲した事業の實想を明示するであらう。

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 三、死は我を自己の一部――我が肉體――から引離す。肉體は極めて必要であつて、我自身の離すべからざる部分と思はれて居る。それは、欲望、懈情、放逸により、我が犯した巨多の罪過の器となつて居る。それは幾度か神の召命に從ひ善生涯に向つて起つ我を妨げた。多分、それは我が生活の主人であつて、靈魂はその奴隷として驅使されて居た。――その肉體は、今や遺れて土に埋められ、腐朽して塵芥と化すのである。

 四、死は來世への通路である。 それは無限であり、不變である。そして、幸福か悲惨か、その一つへ到る通路である。現世に在る間は、我らが永遠の運命は未だ決せられぬ。罪人も改心するを得、聖徒も堕落の恐れがある。然るに、死後に於ては、彼此その状態を變へることが出来ぬ。死は靈魂の永遠の救亡如何を示す分水嶺である。

 此らの諸眞理を黙想して、それから教訓を得よう。即ち、(一)世からの超脱、(二)肉體上の訓練の必要、(三)現世生活から永遠界への出發を眞面目に想見すること、等である。

///P145///

     二 死の確實と不確實

 

 一、その確實なること。之を理解することは容易でない。死は極めて遠く思はれるが常である。然し、それは我らが考へて居るよりも非常に近いであらう。昨日といはず、今日と云はず、人々の急死は、我ら自身の上に必ず來るべき時と思はせるが、その感想さへも忽ちに消えて仕舞ふ。

 而かも猶、死の來るや如何に速かであらう。長命と雖も如何に短くあるであらう。試みに我が過ぎし年月を回顧すれば、それは如何に迅速に經過して居るであらう。曾て幼少の頃には、一年を長いと思うたが、今となつては、それが如何に短く疾く過ぎ去つて居ることであらう。

 その速かさ、そして其の確實さよ。我は、生れるや否や、死へと向つて來た。我が生命は、五體が成熟しつゝある間に過ぎ去つて居り、我が呼吸の一つごと、鼓動の一つごとに、一歩づゝ死へと向つて居るのである。死は既に我が中に兆して居るのに、如何で此が遠くある如く自己を欺くことが出來ようか。

///P146///

 二、その不確實なること。我は何時死ぬべきか。今年か。來年か。壮年にか。老年にか。否。我ながら之を一週間或は一日とても保證することができぬ。

 何處に死ぬべきか。生國に於てか、或は外國でか。旅行中にか。孤獨でか。又は朋友に取り巻かれてか。

 如何なる死か。病氣でか。奇禍でか。急死か。或は臨終の準備が出來て居てか。就中、最も大切なのは、その時、我が如何なる状態にあるかである。恩恵の中にあるか。将た罪の中にあるか。熱誠を懐いて居るか、又は微温的であるか。知らず。唯死のみ確實であるが、その他については一切が不明である。

 以上から、如何なる結論を得ようか。それは我らの主が力説して居られる。

『されば目を覺ましをれ、汝らは其の日その時を知らざるなり。』≪マタイ傳二五。一三≫ 其の日その時が秘めてあるのは、我らが、毎日、毎時、死の用意をして居るべき爲である。

『この故に汝らも備え居れ、人の子は思はぬ時に來ればなり。』≪同ニ四。四四≫

 然らば、我が準備は如何に。若し今日準備なくば、いかで明日を期することが出來ようか。明日もまた保證の限りでない。明日が我がものであるか否か、それ

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すらも知らぬのである。

 

     三 死は唯一度のみ

 

 一度の誤解、一度の失敗。もはや反すべき術がない。若し、我に二度の死あり、二度の機會を許されるならば、尠からず安心出來るであらう。先に準備成らずば、次に之を確實にするであらう。再び先の如き冒險を試みぬであらう。然し乍ら、死は唯の一度で、それ限りである。我が持つのは一の生涯、一度の死、永遠に滅ぶるも救はれるも唯一つの靈魂のみである。

 重大であつて、唯一度なすべき事は、極力之を試みねばならぬ。そして、祝せられた死のため、我が全生涯を充ててその準備とせねばならぬ。

 されば、決心しよう。

 一、善良なる生涯を送ること。神と我が良心とに對して誠實であること。我は自ら生活して居つた如く死ぬのに相違ない。

 二、恰も死が目前に迫る如く、屡々之を考想すること。それは多分、豫想す

///P148///

る時よりも早いであらう。

 三、毎日、恩惠により、堅忍と聖き死とを與へられるやう祈ること。

 四、時々、我は現状の儘死するを冀うや否やを自問すること。

 五、然か爲したらと願ふその如く、今、之を實行すること。死期に際しての如く、晦澁のない良心の光に照し、我が生涯を回顧して――。

 

 バツチ霊父著「聖フイリツプ・ネリの傳記中に、聖人によつて悔改めたサルヴイアーテイといふ人の死に關する物語がある。非常な敬虔を以て最後の聖餐をうけ、そして臨終が迫つて居ることを聞かされた時、彼は歓喜に充ち、兩手を天に差し伸べて歌ひ出した。『人われに向ひて、率【いざ】主のいへに行かんといへるとき我よろこべり……』と。≪詩一二二。一≫ そして、間もなく、聖人の腕に抱かれつゝ最後の息を引き取つたのである。

 神よ、願くは、我もまた死に臨むとき、サルヴイアーテイの如く言ふことを得させ給へ。『人われに向ひて、いざ主のいへに行かんといへるとき我よろこべり

///P149///

・・・・・・』と。

 

   聖範 第一篇 第二十三章

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牀…ねどこ

 

===現代語訳案===2020.12.29

 

   第五黙想 死

 死は、それが訪れるときに数多の妄想を追い払う。そのことは、今、わたしの生涯を更に真実に考察するための助けになる。わたしの生涯はどこに向かっているのか。わたしが臨終の床にあるとき、それはいったいどのように見えるだろうか。最後のときに、こうしておけば良かったと思うような生活だろうか。今、心静かに、死についての考想することに親しんでみよう。

 

 序想一 臨終の床に横たわるわたし自身を想像する。

 序想二 わたしが死に臨むときに、こうあるべきだったと願うような生活を、今始められるように恩恵を祈る。

 

    一 死による別れ

 

 一、死はわたしを地上にある一切のものごとから引き離す。『わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。』≪1テモ6:7≫ 死はすべての物事にわたしを結びつける絆を断ち切る。親族、友人、財産、名誉、快楽、趣味、計画、研究、事業――すべてをそこに残さなくてはならない。

 二、死はわたしを行いから引き離す。ただし、その行いの結果としての善又は悪のいずれかが心に残ることになる。わたしは、死の瞬間に神の御前に出て、過去からの死までの生涯とすべての行いを、神の御目に映すように見せつけられることになるが、それはどのような姿だろうか。以前は善と思われた多くの行いが、『木、草、藁』と同じようなものに見えるだろう。≪1コリ3:12-15≫ たとえ自分が神の御憐みよにって救われることがあっても、それらのものは審判の火によって灰燼に帰されることになるだろう。ああ、もしわたしが救われたとしても、自らのすべての行いが聖なる火によって燃やし滅ぼされるのを見なくてはならない人々の徒労感はいかばかりだろう。神の御前に立ち、聖なる火に照らされてみれば、わたしが神への愛のために行ったことはごくわずか、または皆無だろう。むしろ、わたしの生涯は、どこまでも無益で、いずれ審判の火の前に煙となってなくなってしまうようなことのために、どれほど浪費されていることだろう。そうである。死はわたしの行いの実相を明示するものとなるだろう。

 三、死はわたしを自己の一部――肉体――から引き離す。肉体は極めて必要なものであり、わたし自身から話すことのできない部分と思われている。それは、欲望や怠け心、自分勝手で奔放な生活によってわたしが犯した多くの罪の器になっている。わたしの肉体は何度か神からの召命に従って、善い生涯に向かって起つわたしの邪魔をしてきた。おそらくそれは、わたしの生活の上での主人であり、わたしの霊魂は肉体の奴隷として使われてきた。――しかし、その肉体は今や捨てられ、土に埋められて腐敗し、塵に帰るのである。

 四、死は来世への通路である。来世は無限であり、変わらない。そして、幸福か悲惨か、そのどちらか一つへと至る通路が死である。現世にいる間は、わたしたちの永遠の運命はまだ決まっていない。罪人も改心することができ、聖徒にも堕落してしまう恐れがある。しかしながら、死後においては、誰もが自分の状態を変えることができない。死は霊魂の永遠の救いと滅びを分かつ分水嶺である。

 これらの様々な真理を黙想し、そこから教訓を得よう。すなわち、(1)現世からの超脱、(2)肉体上の訓練の必要、(3)現世での生活から永遠の世界への出発をまじめに想像し、見つめることなどである。

 

     二 死に関わる確実と不確実

 

 一、確実であること。死を理解するのはとても難しい。死は極めて遠くにあるものと思うのが人の常である。いかし、それはわたしたちが考えているよりも非常に近いところにあるだろう。昨日であろうと今日であろうと、死はいつのときか必ず、急にわたしたちの上に訪れると思われているが、そのときには死のときが来たという感想さえもたちまち消えてしまう。

 その上、死はどれほど素早いことか。世に長寿と言われる人であっても、どれほど短い生涯だろう。試みにわたしの過ぎ去った年月を回顧して見れば、いかにそれがあっという間に過ぎ去ってきたかがわかる。幼いころには1年は長いものだと思っていたが、今となってはそれが如何に短く、早く過ぎ去っていることだろう。その速さ、その確実さはなんということだろう。わたしは生れたその時から死へと向かってきた。わたしの生命は五体が成熟しつつある間に過ぎ去っており、わたしの呼吸の一つごとに、心臓の鼓動の一つごとに一歩ずつ死に向かっている。死は既にわたしの中に芽生えているのに、なぜそれが遠くにあるかのように自分をあざむくことができるだろうか。

 

 二、不確実なこと。わたしはいつ死ぬのか。今年だろうか、来年だろうか。壮年のときにだろうか、老年になってだろうか。いや、わたしはこれを一週間、一日すらも保証することができない。

 どこで死ぬのか。生まれた国、故郷の地で死ぬのか。あるいは外国でだろうか。旅行中だろうか。一人で孤独に死ぬのか、または友人たちに囲まれて死ぬのだろうか。

 どのように死ぬのか。病気によってか。不慮の事故によるのか。急に死ぬのか。それとも臨終の準備ができた状態で死ぬことが出来るのだろうか。なかんずく大切なのは、死に臨むときにわたしがどのような状態であるか、ということだ。神の恵みの中にあるのか、それとも罪の中にあるのか。熱く誠実な気持ちを懐いているだろうか、それとも生ぬるい気持ちだろうか。わたしはそれらのことを知らない。ただ死ぬことだけは確実だが、その他の詳細はすべて不明である。

 このような概要から、どのような結論を得ることができるだろうか。それについて、わたしたちの主は次のように力説している。

『目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』≪マタ25:13≫ その日、その時がいつなのか明確にされて居ないのは、わたしたちが毎日、毎時、いつでも死の用意をしているべきだからである。

『だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』≪マタ24:44≫

 それならば、わたしの準備はどうであろうか。もし今日準備をしていなければ、どうして明日に期待できるだろう。明日もまたなんの保証があるわけでもない。明日を自分のものかどうか、それすらもわたしたちは知らないのだ。

 

     三 死はただ一度だけ

 たった一度の誤解や一度きりの失敗だったとしても、死んでしまったときはもはや取り返す方法がない。もし、わたしが二回の死を経験することができ、二度の機会が許されているならば、少なからず安心できるだろう。最初のときに準備不足であっても、それを踏まえて次には確実なことができるからだ。二度目のときには、最初のときのような冒険を試みることはないだろう。しかしながら、死はただ一度のことで、それで終わりである。わたしが持っているのは一度きりの生涯、一度きりの死であり、永遠の救いに与るのも、永遠の亡びに到るのもただ一つの魂だけである。

 重大であり、ただ一度だけ行うことができる事であれば、様々なことを試みなくてはならない。そして、祝福された死のために、自身の全生涯をもってその準備としなくてはならない。

 

 そのため、次のように決心をしよう。

 一、善良な生涯を送ること。神と自分の良心に対して誠実であること。わたしは自ら生活していたように死ぬに違いない。

 二、あたかも死が目前に迫っているように、折に触れてこれを考察すること。そのときはおそらく予想よりも早く訪れる。

 三、日々、恩恵によって堅忍さと、聖い死が与えられるように祈ること。

 四、ときどき、わたしは今のまま死んでも良いだろうか、と自分に問いかけること。

 五、こうしたらよかった、と願うことを、今実行すること。死期に際してするように、単純で明快な良心の光に照らし、わたしの生涯を思い返して――。

 

 バッチ霊父の著書「聖フィリップ・ネリの伝記」の中に、聖人によって悔改めたサルヴィアーティという人の死に関する物語がある。優れた敬虔さで最後の聖餐をうけ、死のときが迫っていることを告げられた彼は、歓喜に充ちて、両手を天に差し伸べて歌いだした。『「神の家に行こう」と言われて|| わたしの心は喜びにはずんだ』≪詩122:1≫ そして、間もなく聖人のみ腕に抱かれながら、彼は最後の息を引き取った。

 神よ、私たちが死に臨むときもまた、サルヴィアーティのように『「神の家に行こう」と言われて|| わたしの心は喜びにはずんだ』と言うことができるようにさせてください。

 

   聖範 第一篇 第二十三章

 

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タイトルが重そうだった割に、内容は割と明るい、というほどでもないけどポジティブな感じだった。

 

晦澁(かいじゅう)…言葉や文章が難しくて意味がよく分からないこと。難解。

という言葉をどういう意味だろうか。文脈的にシンプルに考えて、ってことだろうと思うけど。

小難しく考えず、理屈やなんやは抜きにして、良いことはいい、悪いことは悪い、ってことかな。

 

フィリップ・ネリはカトリックの聖人 St. Fillip Neli(1515-1595,1622列聖)

カトリックオンラインによると、明るく朗らか性格の人だったらしく、

"Well, brothers, when shall we begin to do good?"

 「で、兄弟たち、我々はいつから善いことをはじめましょうか?」

と問いかけていたこと。なんとなくこの一言からポジティブさがほとばしっている。

 

サルヴィアーティはよくわからないが、Salviatiでイタリア人のおじさんなのだろう。

達観している風でもあり、もう老境にあった人なのかもしれない。

詩編も122編、神の家、すべての民の都、審きの座があるエルサレムを祝福する詩編とは、

とっさに出て来たとすればとても恵みの中に活きた人だったのだろうなあ、という感じはする。

 

 

■テモテへの手紙一(6:7)

6もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

 

■コリントの信徒への手紙1(3:12)

10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 12この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 13おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 14だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 15燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 

■マタイによる福音書(45:13) ※花婿を待つ花嫁たちのたとえ話。花嫁たちは灯の火種を持っていたが、賢い花嫁は一緒に油を用意しており、愚かな花嫁はそうでなかった。深夜に突然花婿が来たため、油を持たない花嫁たちは持っている人に分けてほしいと願うが断られて買いに行くことになった。

10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

■マタイによる福音書(24:44)

42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

 

□日本聖公会祈祷書(1990年)

詩編第122編

1 「神の家に行こう」と言われて|| わたしの心は喜びにはずんだ

2 エルサレムよ、わたしたちは今|| あなたの門のうちに立っている

3 しげく連なる町、エルサレム|| すべての民の都

4 そこにはイスラエルの部族、神の民が上って来る|| 主のみ名に感謝をささげるのはイスラエルのおきて

5 そこには審きの座|| ダビデの家の座が据えられている

6 エルサレムのために平和を祈ろう|| 「エルサレムを愛する者に栄光

7 その城壁のうちに|| その宮殿のうちに平和があるように」

8 わたしの兄弟、わたしの友のために祈ろう|| 「エルサレムに平和があるように」

9 わたしたちの神、主の住まいのゆえに|| エルサレムの上に恵みを祈ろう