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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

第二靜修 第六默想 大審判

 

(1)からつづき

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///P155///

     三 告訴人

 一、サタン。我が爲すべからざる事を爲した罪、爲すべき事をなさなかつた罪、彼の教唆、または我が邪曲剛腹から犯した罪……人が罪に陥るとき制止するを得たのみならず、正に制止すべきであつたのを敢えて爲さなかつたこと、他人の惡模範となつた多くの行爲――。サタンは此ら凡てを訴へるであらう。

 二、我が守護天使。彼は數多【あまた】度【たび】その聖き忠告と警告とを却けたことを非難するであらう。我が罪のための悲歎と羞恥から、彼の眼を反らさしめたことは抑も幾度であらう。

 三、我が邪道に導いた人々の守護天使達。

 四、聖所と祭壇の周圍を護る天使達。彼らは我が不敬虔、不注意、不熱心を訴へるであらう。

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 五、我が真心。それは他の告訴を證據立て、我が全生涯につとめて忘れようとした最も秘密な凡ての罪に直面させる。今、試みに、我が良心の私語することを聽け。それは彼の日に於て、到底忍ぶ能はざるものである。遺憾なき告悔により、今我は良心を神との正しい關係に置き直し、そして我が罪は凡て消滅するやうにせねばならぬ。

 

     四 宣   告

 聖書には二種の宣告が書かれてある。一は無限の祝福で、他は無限の呪詛である。≪マタイ傳二五。二一、三四、四一≫ 此らの宣告を默想する。そして我に宣告されるのは其の何れであるかを考へねばならぬ。

 一、受け容れられる宣告。『わが父に祝せられたる者よ、來り世の創より汝等のために備へられたる國を嗣【つ】げ。……汝の主人の歓喜【よろこび】に入れ。』『來れ』と主が宣ふ御言は如何に喜ばしく聞えるであらうか。久しい以前、我はその御言をきいた。『凡て勞する者、重荷を負ふ者、われに來れ。われ汝らを休ません。』≪マタイ傳一一。二八≫ 今その御

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言葉は、もはや疲勞もなく誘惑も罪もない境涯に我を招くのである。曾ては我が十字架を負うて主に從ふためであつたが、今は御國と榮冠とに招くのである。

 二、斷罪の宣告。『詛はれたる者よ。我を離れて惡魔とその使らとのために備へられたる永久【とこしへ】の火に入れ。』 これに含まれて居る意味を想ふ。――

 (一)滅びの苦惱。神を失ふのである。――『我を離れ去れ。』 曾ては神なしに居られると靈魂は思うたが、今、彼を滿足せしめるものは神のみと悟るのである。神のみが充たし得る空虚、神のみが飽かし得る飢餓を感ずるのである。ああ、神を愛しもし、また神よりの愛も感じたのであつたならば。されど、さうあつたことを冀ひつゝも、事實愛し得なかつた靈魂は、神を失うたと知つて、神を憎み、冒涜し、そして反逆するのである。

 (二)苦罰。「永遠の刑火」。然り地獄には苦罰がある。『哀哭【なげき】・切齒【はがみ】』『蛆(良心の呵責)つきず、火も消えぬ、』『外の暗黒【くらき】』等がそれである。≪マタイ傳二五。三〇、四一、マルコ傳九。四八≫

 

 以上の二宣告中、その一は何日か、我が受くべきものである。さらば、何れ

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であるか。全く不明である。然し乍ら、我は知る、何れにせよ我が選ぶ方に決するであらう。その選定は今日我に屬する。然し、速かに、誰もその時を知らぬけれども、速かに我に屬せぬ事となるであらう。

 

 聖範 第一巻 第二十四章

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===現代語訳案===2021.1.8

     三 告発者

 一、サタン。 わたしの、してはならいないことをした罪、しなければならないことをしなかった罪、悪魔にそそのかされ、あるいは自分自身のねじ曲がった豪胆さから犯した罪。他人が罪に陥ろうとしていたとき、それを止められたのにもかかわらず見過ごしたこと。私の行いが他者にとって悪い意味での手本となってしまったこと。サタンはそれらすべてについてわたしを告発する。

 二、わたしの守護天使。 彼は、わたしが彼から何度も繰り返し受けた聖なる忠告と警告を無視したことを非難するだろう。わたしの罪によって彼を悲嘆させ、辱めたことによって、彼が目を背けるようにさせてしまったことがどれほどあっただろうか。

 三、わたしが悪の道に導いた人々の守護天使達

 四、聖所と祭壇の周囲を護る天使達。 彼らはわたしの不敬虔さ、不注意と不熱心を訴えるだろう。

 五、わたし自身の真心。 それは、前述の告発を証明し、わたしが生涯にわたってなんとか忘れようと努力してきた、最秘密の罪すべてに直面させる。ためしに、今時点での自身の良心のつぶやきを聞いてみよう。それは、来るべき日に、到底耐えられないようなものである。完全な告悔によって、わたしは今、良心を神との正しい関係に置き直し、わたしの罪がすべて消えるようにしなくてはならない。

 

     四 宣告

 聖書には2種類の宣告が記されている。ひとつは神からの無限の祝福で、もうひとつは無限の呪いである。≪マタ25:21、34、41≫ これらの宣告を黙想する。わたしに宣告されるのはどちらか、それを考えなくてはならない。

 一、受け容れることができる宣告。さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』、『来なさい』という主のみ言葉はどれほど喜ばしく聞こえるだろうか。遠い昔、わたしはそのみ言葉を聞いている。『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』≪マタ11:28≫ そのみ言葉は、わたしを疲労も誘惑も罪もない境地に招く。それはかつてはわたしが十字架を背負って主に従うためのものだったが、み国と栄冠に導くものとなる。

 二、わたしを断罪する宣告。 呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』 この言葉の意味を考える。

 (一)滅びの苦悩。 『わたしから去れ』、そう宣告された者は神を失う。 その人の魂は、これまでは神などなくとも問題ない、と考えていた。しかし、今になって自分を満足させることができるのは神だけだと悟るのである。神だけが充たすことのできる空虚、神だけが満足させてくれる飢餓を感じる。ああ、わたしが神を愛し、神からの愛を感じることができていれば、と。しかし、そうなることを願っても、事実得ることができなかった魂は、神を失ったと知り、神を憎み、冒涜し、反逆する。

 (二)苦罰、「永遠の刑火」。そう、地獄には苦しい罰がある。『泣きわめいて歯ぎしり』し、『蛆(良心の呵責)が尽きることも、火が消えることもない。』、『外の暗闇』などがそれだ。≪マタ25:30,41、マコ9:48。※下線部は著者の注で、聖書自体には記載がない。≫

 いつの日か、わたしはこの二つの宣告のうち、どちらかを受けなくてはならない。それがどちらであるかはわからない。しかし、わたしは知っている。その宣告はわたし自身が選んだものになるだろう。どちらになるか選ぶことができるのは、今日の私である。しかし、その選ぶ機会は、すぐにわたしがら離れてしまうだろう。そのときがいつなのかは誰にもわからない。

 

 聖範 第一巻 第二十四章

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■マタイによる福音書(25:21) 

21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 いわゆるタラントンの譬え。主人が3人のしもべにそれぞれ5・2・1タラントン現金を預けて出かけ、戻ってきたときに成果を聞いた。

 5タラントン預かったしもべはそれを元手に5タラントン儲けて主人に返した。2タラントン預かったしもべは2タラントン儲けて返した。1タラントン預かったしもべは、失敗を恐れるあまり、主人が帰るまでそれを土中に隠しておき、戻った主人にそのまま返した。

 21節は5タラントンのしもべに対することば。2タラントンのしもべも褒められた。1タラントンのしもべは、銀行に預けて利息を受け取ろうともしなかった怠け者とされ、

30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

 と追放される。

 なお、その1タラントンは5タラントン預かって5タラントン儲けたしもべに与えられた。

 「29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」という言葉もここででてくる。

 なお、1タラントンは6,000デナリオンらしい。1デナリオンが日雇い労働者の1日の賃金である、現代でいうと日給8千円×6,000=4,800万円くらい? そんくらいの金を受け取っておいて、埋めておいただけの1タラントンのしもべも大した度胸だと思う。 

 

■マタイによる福音書(25:34,41)

  主が栄光の座についたとき、すべての国の民を集め、羊は右に、山羊は左にと、2つのグループに分けた。

34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

  このあと、羊側(善い人たち)は「あなたに対してそんなことしました?」と聞き、主は「兄弟である弱い人たちにあなたがたがしたことは、私にしてくれたのと同じことだ」という返事。

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

  山羊側(悪人たち)は、「わたしはあなたにそんなことはしていません!」と羊サイドの人々と同じような理由で言い訳をするが、主の返事も同じく「兄弟である弱い人たちにしなかったことは、私にしてくれなかったのと同じことだ」ということで、正しい人たちは永遠の命に与り、悪人たちは永遠の罰を受けることになる。

 

■マタイによる福音書(11:25)   笛吹けど踊らず、と忠告に従わなかった街を叱っている話に続いて。

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

■サムエル記下(16章) 本文中には引用なし。立ちされ、という呪いの言葉の話に関連して。この場を去れということは当時から呪いの言葉として認識されていた様子。

5ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、 6兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。 7シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。 8サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」

 

■マルコによる福音書(9:48) 目や腕が罪を犯すなら棄てて仕舞え、という話の後。

 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」