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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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///P159///

   第七默想 痛悔と赦罪

 

 序想一 聖ルカ傳七。三六-五〇。以上の諸句は聖マタイ傳一一。二八ー三〇、に記されてある御言。即ち主がシモンの家の懇ろな招待に臨み給うた直ぐ前の御言『凡ての勞する者、重荷を負ふ者よ、われに來れ、われ汝らを休ません』と比較して思ひ起される。この女は主が彼らに言ひ給うた御言を聞いたのであらうか。或は主が特にこの女を意中に置いて、斯くの如く仰せられたのであらうか。さう思はれる。女は實際『重荷を負う』て居り、靈魂のため休息が欲しくあつた。それ故に、主を追うて、シモンの家に入つたのであらう。

 序想二 饗宴の席に着く客人らと、その中に居給ふ我らの主。御足に接吻し、流涕を以て之を洗ふ彼女等を想像する。

 序想三 悔恨と愛の悲歎が與へられ、多く赦され、多く愛されるやう祈る。

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     一 マグダラのマリアの痛悔

 一、マリアは恩惠の靈感に直ちに從つた。主との個人的拝接の時を待たず、直ちに從ひ、招待客と共に、知らぬ人の家に入つた。人は恥辱を死よりも恐れるが、愛はその恥辱よりも強い。マリアは、ニコデモの如く夜陰に乗じて密かに來ず、日の眞只中、衆目環視の中に、彼らが何と言ひ或は何と思ふかに一切頓着せず、専念主への痛悔者として來たのである。

 二、マリアは御足に油を塗り、涙を以て之を洗ひ、心には、御憐みによつて靈魂が洗はれんことを願うた。頭髪を以て御足を拭ふとき、身に滿ちて居る罪が拭ひ去られるやう祈り、接吻には、主が「御赦しと平安の接吻」を下し給ふやう願ふのであつた。マリアは及ぶ限りの賠償をし、罪の器であつたもの――その眼、髪、香油等――を主への奉仕のうつはに改め、外部の行爲として、聖パウロが命じた如く實行した。『なんぢら舊【もと】その肢體をささげ、穢と不法との僕となりて不法に到りし如く、今その肢體をささげ、義の僕となりて潔【きよき】に到れ』≪ロマ書六。一九≫

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     二 主の御寛容と赦免

 一、主から先にマリアを導き給うた。 凡ての痛悔は神からのものである。我ら自身よりのものではない。若し我ら之を願ふならば、主から與へられるであらう。

 二、主はマリアに勇氣を與へ、直ちに御許に來らしめ給うた。 その時、マリアは羞恥も他人の批評も思惑も更に怖れなかつた。主は我に斯くの如き勇氣――告悔の羞恥と苦難を忍ぶ勇氣、一度決心し、實行して我が罪とその機會を破壊し得る勇氣を與へ給ふであらう。

 三、主はマリアに、信仰と希望と愛とを與へ給うた。 主をば赦罪を與へ得る唯一の御方として信ずる信仰。主は決して拒絶して給はずととの希望。流涕悔悟して主に近づき奉る愛。此らはみな、願ふとき、我にも主が與へ給ふであらう。

 四、主はマリアに言ひ給うた。『なんぢの信仰なんぢを救へり。安らかに往け。』 この赦罪の御言の中に含蓄される意味を想ふべきである。

 (一)罪に伴ふ刑罰の赦免。主は、罪の赦免と同時に、それに伴ふ永遠の刑罰を

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も赦し給ふのである。されど罪の結果は暫時殘るのであるが、それは却つて懲戒、淨煉として我らの爲に益となる。もはや其は刑罰ではなく、愛の訓練であつて、悔改めた靈魂は、その罪に對する軽少な償ひとして、之を悦んで忍ぶのである。靈魂の永遠の刑罰、地獄の膺懲は、赦罪によつて取り去られたのである。

 (二)淨化。神が赦免し給ふとき、靈魂は罪の穢れから潔められる。様々な罪の癩腫に蔽はれた靈魂は、赦罪に於て振り注がれる尊き御血により、恰も洗禮を授けられた日の如く潔められる。

 (三)強健。主に於かれては、我らが靈魂の罪を淨化し給ふのみでは充分とせず、その傷を癒し、之に生命と力とを注ぎ入れ給ふ。我らは若し依然として弱くあるならば、再び倒れるのみであるが、赦罪は靈魂を新たに強健ならしめる。先には及び難く見えた罪を征服し得る能力を與へるのである。

 (四)平安。我らの主は唯『なんぢの罪は赦されたり』と仰せられたのみならず。『安らかに往け』と言ひ給ふ。罪の淵にある霊魂は如何にんで(※かがんで。足偏に宛)居るであらう。『惡しき者には平安【やすき】あることなし』≪イザヤ書五七。二一≫ 然るに、主は悔悟の心を懐いて來る者を

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『平安【やすき】をもてさきはひ』給ふのである。≪詩篇二九。一一≫

 (五)愛。マリアは愛心を懐いて來たのであつた。その心中を洞察して、主は『この女の多くの罪は赦されたり。その愛すること大なればなり。』と言ひ給うた。

そして、赦された後、愛は更に強くされた。斯く、赦罪により我らの愛は非常に強められる。我らが懐いて行く不完全な罪の悲しみが、眞實な愛から生ずる心底からの痛悔に變ることは、決して少くない。我らの衷心から湧き出る眞摯な悔悟は、我が罪の結果であつて、赦罪の原因ではない。

 

     三 自己への適用

 自ら問ふ。何故我はマリアの如き祝福に与り得ないであらうか。何故赦されぬ――然り、何故多く赦されぬのであらうか。何故潔められて、平安が與へられぬのであらうか。ああ、主よ。我もまた御許に行く。恐怖、羞恥、または雑多の理由により妨げらるまじ、マリアの如く我もまた敢て主に行かん。我が義によらず、何ら自力の精進に頼らず、唯一個の罪人として御許に行かん。マリアの如き

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信仰を以て、決して主の御能力と愛を疑わず、御許に行かん。主はマリアを赦し給へり。我をも赦し給ふ。我が罪により、責任の怠慢により、冷淡不敬虔により、聖慮を痛め奉りしこと千萬度。而かもなほ、聖愛に牽かれ、聖愛に信頼し、而して聖愛を望み、御許に行かん。

 主よ。爾【なんぢ】は我を拒絶し給ふまじ。微かなれど、未だ我が裡に愛の流れ殘る。若しそれなくば、御許に行くことを望むまじ。主が、我が胸中を貫いて愛の痛傷を與へ、湧然たる悔恨の涙を給ふまで、御足の下に身を投じて、我待たん。主は、曾て然かあり給ひし如く、同じく罪人の共に在す。主は變り給はず。御心は、曾て地上に在し給ひし如く、今天に在しても同じく愛と慈悲に充ち、常に御赦しを與へ給ふ。一介の罪人にして、前も今も變らず、感謝の念薄く、マリアの如く虚弱にして、寄邊なき我は、ただ確き信仰と希望とに滿ちて、主にのみ頼り行く。主は我を受け容れ給ふ。主は淨め給ふ。主は癒し強め給ふ。主は我が靈魂に尊き愛を注ぎ、多くの赦しを賜う。されば、我もまた深く主を愛し奉らん。

///P165///

 聖範 第一巻 第二十一章

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===現代語訳案===2021.1.9

   第七黙想 痛悔と赦罪

 序想一 聖ルカによる福音書7章36節から50節に記されている、香油を持った女性(伝統的にマグダラのマリアと言われている)によるイエスへの奉仕の出来事は、聖マタイによる福音書第11章28節から30節にあるシモンの家に招待を受ける直前のイエスのみ言葉、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』というみ言葉を思い起こさせる。この女性は、主が仰ったこのみ言葉を聞いていたのだろうか。あるいは、主がこの女性を気にかけ、このようにおっしゃられたのだろうか。そう思われる。この女性は実際に『主にを負』っており、魂のための休息を必要としていた。そのため、主を追ってシモンの家の中に入ったのだろう。

 序想二 宴席につく客人たちと、その中におられるわたしたちの主、そしてそのみ足に接吻し、流れる涙でそれを洗った彼女の姿を想像する。

 序想三 わたしたちに悔恨と愛の悲歎が与えられ、多くのことを赦され、多く愛されるように祈る。

 

     一 マグダラのマリアの痛悔

 一、マリアはみ恵みを魂で感じ取り、すぐにそれに従った。主への個別の挨拶のときを待つことなく、他の招待客ととともに、主がお入りになった見知らぬ人の家に入った。人は死よりも恥辱を受けることをおそれるが、愛はその恥辱よりも強いものである。マリアは、ニコデモ(ファリサイ派の議員で、イエスに敬意を持っていたが公に訪ねることはせず、人目を忍んで夜にイエスのもとを訪れ、問答をした。イエスの死後、遺体を引き取り、のちに殉教したと言われている。ヨハ3:1以下参照)のように夜陰に紛れて密かに訪れたわけではなく、白昼堂々、周囲の人々が何を言い、どのように思われるかなどは一切気にすることなく、ただ主への痛悔のために訪れた。

 二、マリアは、主のみ足に香油を塗り、涙でこれを洗い、心では主の憐れみによって魂が洗われることを願った。自らの髪で主のみ足をぬぐうとき、自身の身に満ちていた罪もまたぬぐい去られるように祈り、接吻によって主が「ゆるしと平和の接吻」を与えてくださるようにね願ったのである。マリアは自分ができるかぎりの償いをなし、罪の器となっていたその眼、その髪、その香油を主への奉仕の道具に変え、外から見える行為として、のちに聖パウロが命じるように実行した。『かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。』≪ロマ6:19≫

 

     二 主のご寛容とゆるし

 一、主から先にマリアをお導きになった。すべての痛悔は神から与えられたものである。わたしたち自身から出るものではない。わたしたちが痛悔を願うとき、それは主から与えられるだろう。

 二、主はマリアに勇気を与え、すぐにみ許に迎え入れた。そのとき、マリアは羞恥心や他人の評判、思惑を恐れなかった。主はわたしにこのような勇気――告悔による恥ずかしさと苦難を耐え忍ぶ勇気、決心して実行し、わたしの罪とそれが行われる機会を打ち砕く勇気をお与えくださるだろう。

 三、主はマリアに、信仰と希望と愛とをお与えくださった。主こそ罪のゆるしをお与えくださる唯一の御方であると信じる信仰心、主は決して拒まれないという希望、涙を流し、悔改めて主にお近づきできる愛。これらはすべて、わたしが願うときに主がお与えくださる。

 四、主はマリアに仰せになった。『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』 このゆるしのみ言葉に含まれている意味を想おう。

 (一) 罪に伴う刑罰の赦免。主は罪の赦免と同時に、それに伴う永遠の刑罰をもお赦しくださる。とはいえ、罪の結果はしばらくの間残ることになるが、それは却って自らへの戒め、浄き鍛錬としてわたしたちのために有益なものとなる。それはもはや刑罰ではなく、愛のための訓練であり、悔改めた魂は、罪に対する軽微な償いとしてこれを甘んじて忍ぶ。魂への永遠の刑罰、地獄での懲罰をも赦し給ふのである。されど罪の結果は暫時殘るのであるが、それは却つて懲戒、淨煉として我らの爲に益となる。もはや其は刑罰ではなく、愛の訓練であつて、悔改めた靈魂は、その罪に對する軽少な償ひとして、之を悦んで忍ぶのである。靈魂の永遠の刑罰、地獄での懲らしめは、赦罪によってて取り去られる。

 (二)浄化。 神がゆるしをお与えくださるとき、魂は罪の穢れから清められる。様々な罪の腫物に覆われていた霊魂は、この罪のゆるしによって降り注がれる尊い御血によって、まるで洗礼を受けた日のように清められる。

 (三)強健。主は、わたしたちの魂の罪を浄めてくださるだけでなく、その傷をいやし、魂に生命と力を注ぎ入れてくださる。わたしたちは、ゆるしを受けた以降も依然として弱いままであれば、再び倒れることになるが、ゆるしによって魂は新たに強靭なものとされる。以前には克服することが難しいと思われた罪に打ち勝つことができる力を与えてくださるのである。

 (四)平安。わたしたちの主は、ただ『あなたの罪は赦された』というだけでなく、『安心して行きなさい』と仰った。罪の淵にあった魂は、どれだけ身を低くしていることだろう。『神に逆らう者に平和はないと わたしの神は言われる。』≪イザ57:21≫ それなのに、主は悔悟の心を抱いて来るものを『平和をもって祝福』≪詩編29:11≫される。

 (五)愛。マリアは愛の心を抱いて主のもとに来た。主はその心中を察して、『この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。』とおっしゃられた。そして、赦された後、彼女の愛はさらに強くされた。このように、罪のゆるしによってわたしたちの愛は非常に強められる。わたしたちが抱いている不完全な罪の悲しみが、真実である愛から生ずる心からの痛悔に代わることは決して少なくない。わたしたちの真心からわき出る真摯な悔悟は、わたしの罪の結果であり、罪のゆるしの原因とは異なる。

 

    三 自己への置き換え

 自らに問いかける。なぜわたしはマリアのように祝福を受けることができないのか。なぜ許されない、なぜ多く赦されることがないのだろうか。なぜ清められ、主の平安が与えられないのだろうか。主よ。わたしもまたあなたの御許に行きます。恐怖、羞恥心、または種々入り混じったつまらない理由によって妨げられることがありませんように。マリアのようにわたしもまた主のもとに参ります。わたしは自分のいさおに頼らず、自分の決心や想いに頼らず、ただ一人の罪人としてあなたの御許に行きます。マリアのような信仰を持ち、決して主のみ力と愛を疑うことなく、おそばに参ります。主はマリアを愛されたように、わたしをも愛してくださいます。わたしの罪により、わたしの怠慢により、冷淡な不敬虔により、聖なる思慮をお痛めしてしまったことが幾度もあります。それでもまだ、聖なる愛に引き付けられ、聖なる愛を信頼し、そして聖なる愛を望んで主の御許に参ります。

 主よ。あなたはわたしを拒まれません。わずかではありますが、まだわたしの中には愛が流れき切ることなく残っています。もしそれがなければ、もはやおそばに行くことを望まないでしょう。主が、わたしの心の内を貫いて愛の痛みを与え、湧き上がるような悔恨の涙をたまわるまで、わたしはあなたの足元に身を投じて待ち続けます。主は、かつてそうであったように、罪人のなかにおられます。主はお変わりになっていません。主は今、天におられても、そのみ心は、かつて地上におられたときのように愛と慈悲に充ち、常につみのゆるしをお与えくださいます。一介の罪人にして、今も昔と変わらず、感謝することに薄く、マリアのように弱く、寄る辺のないわたしは、ただ確固たる信仰と希望に満ちて、主に寄り頼み、往きます。主はお清めくださいます。主はわたしをいやし、強めてくださいます。主はわたしの魂に尊い愛を注ぎ、おおくのゆるしをお与えくださいます。そうであるなら、わたしもまた深く主を愛し申し上げます。

 

 聖範 第一巻 第二十一章

 

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なんか、これはたまに出てくる熱い人が翻訳したところですね。

主への信頼、愛、信仰心のとても強い人の強い祈りを感じられます。

その中でも、次のことばが心に残りました。

 

>微かなれど、未だ我が裡に愛の流れ殘る。若しそれなくば、御許に行くことを望むまじ。

 

後悔してもまた同じ罪を重ねてしまうのが人の常とはいえ、

本当に愛が失われてしまっていれば、反省も後悔もしなくなる。

そうなってしまえれば、死後の世界は別にしてこの世では楽になるのかも知れません。

でも、多くの人は罪を重ねながら、うしろめたさ、良心の呵責、自責の念、

よくなりたい、ゆるしてほしい、と思いながら生きていく。

でもそれが心に神への愛が残っている証拠なのだとしたら、これほど励まされることもない。

良いことおっしゃる。

 

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赦すという言葉の漢字の使い方に揺れが出てしまっている。

原文では「赦す」(時々「ゆるす」)、今時の言葉では「許し」)が使われているようだけど、

罪やとがを免除するのは「赦し」かなと思う。「許し」だとダメな事を許可します、的な感じだし。

「わたし」もそうだけど、聖公会の祈祷書に倣うと妙にひらがな書きが多くなって分が散らばった感じになってしまうので、

その辺もなんともなあ。

 

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■聖ルカによる福音書(7:36-50)

36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

■聖マタイによる福音書(11:28-30)

28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

■ローマの信徒への手紙(6:19)

 17しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 18罪から解放され、義に仕えるようになりました。 19あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。 20あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 21では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。 22あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。 23罪が支払う報酬は死です。

 

■イザヤ書(57:21)

18わたしは彼の道を見た。

わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをもって彼を回復させよう。 民のうちの嘆く人々のために

19わたしは唇の実りを創造し、与えよう。

平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。 わたしは彼をいやす、と主は言われる。

20神に逆らう者は巻き上がる海のようで 静めることはできない。 その水は泥や土を巻き上げる。

21神に逆らう者に平和はないと わたしの神は言われる。

 

□詩編第29編(日本聖公会祈祷書1990) 本文中では29:11となっているが、参照している聖書では下記の1節の前にある注を1節目と数えているため。下記の1節は2節、2節は3節とひとつづつずれる。

1 神の子らよ、主をほめよ|| 栄えと力は主のもの

2 神の名をほめたたえよ|| 聖なる装いをもって主を拝め

3 主の声は水の上に|| 主は大水の上に雷鳴をとどろかせる

4 主の声には力があり|| その響きには威厳がある

5 主の声は杉の木を撃ち|| 主はレバノンの杉を引き裂く

6 神の声はレバノンを子牛のように|| 尻音を野牛のように躍らせる

7 主の声は稲妻を放ち|| 荒れ野を震わせ、カデシの荒れ野をおびえさせる

8 主の声はかしの木をねじり倒し、森の木々を裸にする|| すべてのものは神の住まいでその栄光をたたえる

9 主は大水の上に座り|| 主はとこしえに王座に着かれる

10 主はその民に力を与え|| 平和をもって祝福される