この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
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第八默想 キリストの御國と召命
靜修進んで此處に到れば、我らは淨練道から光明道の修業に入るものとして、聖イグナシウスは、キリストの御國とそれへの召命を默想せしめる。
序想一 キリスト、我らの主、救ひの主将は凡ての人を招き、主に從つて罪と世と惡魔とに戰はしめんとし給ふ。≪ヘブル書二。一〇≫
序想二 召命に耳を掩はず、直ちに、熱誠を以て從ひ得るやう祈る。
一 キリストの召命
一、イエス・キリスト、神の御子は、我らの永遠の君主に在すのである。主は惡魔を殲滅し、堕落した世界を再び神へと引き返へさんため、世に降り給うた。主によらねば誰も御父に到ることが出来ぬ。主は『道なり、眞理【まこと】なり、生命【いのち】なり』≪ヨハネ傳一四。六≫
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と言ひ給ふ。主は御親ら我らの性をとり、試嘗、勞苦、苦難など、人間界一切の経験を受け給うた。『我は活ける者なり。われ曾て死にたりしが、視よ世々限りなく生く。また死と陰府【よみ】との鍵を有てり。』≪默示録一。一八≫ 今や主は、天の玉座より凡ての人を招き給ふ。各々特殊の方面から、聖戰に参加し、そして、戰捷の後、凱旋に際しては、御國とその榮光に與らしめんとし給ふのである。『勝を得る者には我とともに我が座位【くらゐ】に坐することを許さん、我の勝を得しとき、我が父とともにその御座【みくら】に坐したるが如し。』≪默示録三。二一≫
二、主は我が前に立ち、そして言ひ給ふ。「我が欲する處は、凡ての者を我に來り屬せしめ、我が旗下に率ゐて、罪と世と惡魔とに對して戰ひ、來世にては我が王國とその榮光に與らせんことなり。汝は來りて我に與みし、此の戰役に於て我が援兵となるや」と。
三、主は何のため我を招き給ふかを考察せねばならぬ。一度國家に事あるときは、國と君との爲に奮起して、勇敢に身命を捧ぐる者、幾許であらう。然るに、キリストが我を招き給ふ處の軍事は、凡てに比較のならぬ偉大、高貴なものであ
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る。それは、我と人々の裡に蟠る罪と戰ひ、武器の威力に依つてでてなく、キリストの證言を携へ、主の生涯を我自身に再生し奉り、そして人々に主を顕し、おおくの靈魂を導き、キリストに捧げることである。キリストは御自身を我が爲に與へ給うた。そして、現に今與へ給うて居るのは、唯に我一人が救はれるのみならず、我も主の同勞者として、人々の救ひのために働く爲である。これ即ち、主が我を召集し給ふ戰役である。
四、然し乍ら、若し聖旨に從はんと欲するならば、先づ御國を自己の胸裡に建設せねばならぬ。我が慢心、我意、慾情、怠惰、更に我自身を征服せねばならぬ。恩惠の御助けにより、心中に潜んで靈魂を妨げ、主イエスの靈に逆はしめる凡ての邪情と邪慾を破壊し、そして、主イエスがわが心裡に宿り、我を支配し給ふやう努めねばならぬ。さもなくば、御國の拡張のために眞實畫した事にもならず、又、人々を率ゐて主に從はしめることも出來ぬ。主の御國は誠に自由の國――利己と我儘と罪から自由の國――である。それは歓喜と平安の國であるが、先づ我自身の經驗に依り、その眞理を知るのでなければ、人々を導くことは望外の
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企である。故に人々を獲る前に、先づ以て自己の心に神の國を建設せねばならぬ。主が我を人々の救靈のために用ゐ給ふに先立ち、キリストが我が裡に住み、我を統治し給はねばならぬ。
二 我 が 應 答
或る意味に於て、既に主に答へ奉つて以來久しく過ぎて居る。久しい以前に我はキリストの旗下に屬する兵卒と成つた。そして、主に從つて聖戰に参加する事を約した。聖洗式の時、額に記された十字の形は、以後キリストの十字架を恥辱とせず、勇しくその旗下にあつて、罪と世と惡魔と戰ひ、我が生涯の終りまで、キリストの兵卒として忠誠を顯すものであつた。信徒按手式の時には、之を更に堅實にした。故に我は既に聖戰に從軍することを誓約して居るのである。
我は、その時堅めた誓約を如何に履行して居るであらうか。告白せねばならぬ。事實は、それを思ふこと餘りにも少なく、幾度となく倦怠し、且、臆病であ
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つた。のみならず、あまつさへ、御前より逃亡して、敵方に赴いたことすらあるではないか。
然し乍ら、今主は最う一度招き給ふ。默想中、主は我に語り給ふ。「我が子よ。我は汝が過去の凡ての罪咎、凡ての不忠反逆を赦さん。今、再び汝を招く。汝若し我言を受け、誠心をも以つて我に從はば、凡ての敵に對する勝利を與へん。我を望み視よ。即ち斯く我を望み視ることにより、汝の心は我に傾き、而して、汝は我に來り屬することを願ふに到るべし。視よ。我は汝の性を我にとりし故に、汝の虚弱と汝の必要とを知る。我は心戰の唯ならざるを知る。我は誘惑と苦難の如何なるかをも知る。凡ての事に於て、我は汝に先立ち、敵の鋭鋒を身に忍びたり。而して今、我は汝と偕に在り、汝を勵ます。即ち、我は救ひの全能力を有す。『汝らを護りて躓かしめず、瑕なくして榮光の御前に歓喜【よろこび】をもて立つことを得しむる者』≪ユダ書二四≫なり。
此の如く、キリストは我を招き從はしめんとし給ふ。唯に主に從ふのみならず、主を輔弼し奉り、人々を主に仕へ奉らせんためである。主が我に言ひ給ふ
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は、唯「我に從へ」とのみでなく、「來りて我を補けよ」と、併せて仰せられるのである。主と偕に靈戰に從軍させんとて、我を招き給ふ主の愛を思はねばならぬ。それは單に主が我を欲し給ふのみでなく、主が我を愛し給ふ故である。今迄、主の浩大な愛に對しての貧弱な應答を回想し、自己を價値なき一抹の芥塵に等しと思ふまで、謙遜せねばならぬ。若し、我がために死し、御國の擴張のための主の同勞者として、我を招き給ふ主イエスの愛を斥けるならば、天使たちの驚きは如何許りであらう。
我は、主の召命に對して何と答へようか。今ここで、赦ひの大将軍たるキリストへの忠誠を一新する意志はないか。再び、自身を主に献げ、以前に増して忠實に從ひ、更に身を惜しまず、勇厲堅忍であるやう決心出來ぬであらうか。
若し、之が我が心願であるならば、先づ聖前に跪き、そして唱へねばならぬ。「然り主よ。我は從ひ奉る。主を補け奉らん。身を惜まず、殘らず主に献げ奉る。我が心中に在つて、妨害となる凡ての罪と邪情を破壊し給へ。我を捕留する一切のものを取り除き給へ。主が我を招き給ふより生ずる犠牲は、欣然之を拂ひ
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奉る。我は唯一事を願ふ。そは、全く、永遠に主のものとなり、人々を獲て、主を愛し主に奉仕せしめ、主を補け奉りて人々の心裡に御國を建設し、又之を擴張することなり。」
聖範 第二巻 第一章
第三巻 第五十六章
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===現代語訳案===(2021.1.26)
第八黙想 キリストのみ国と召命
聖イグナシウスは、静修が進み、ここまで到達することができれば、わたしたちは浄練道の段階から、光明道の修業に入るとしており、キリストのみ国とそこへの召命を黙想させる。
序想一 キリストよ、わたしたちの主、救いの司令官はすべての人を招き、主に従って罪と世と悪魔とと戦わせようとされる。≪ヘブ2:10≫
序想二 召命に照明に耳をおおうことなく、直ちに、熱誠をもってそれに従うことができるように祈る。
一 キリストの召命
一、神の御子であるイエス・キリストは、わたしたちの永遠の君主であられる。主は悪魔を滅ぼし、堕落した世界を再び神のもとに引き返すためにこの世にお降りになられた。主によらなければ誰も御父に到ることはできない。主は『道であり、真理であり、命である。』≪ヨハ14:6≫と仰られた。主は自らわたしたちと同じ人間の姿となって、試み、労苦、苦難など人間の世界における一切を経験された。『(わたしは、)また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。 』≪黙1:18≫ 今や主は、天の玉座からすべての人をお招きになっている。それぞれの特別な場所から、聖なる戦いに加わり、戦いを終えて凱旋するときには、み国とその栄光にをお与えくださろうとしているのである。『勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。』≪黙3:21≫
二、主はわたしの前にお立ちになり、こう言われる。「わたしが求めることは、すべての人がわたしに来てわたしに属するものとし、わたしの旗の下に彼らを率いて、ともに罪と世と悪魔と戦い、来世においてわたしの王国とその栄光に浴させるためである。あなたはわたしのもとにきてわたしの援軍の兵となるか。」と。
三、主は何のためにわたしをお招きくださるかを考えなくてはならない。ひとたび国家に有事が起これば、国と君主のためにふるいたち、勇敢に身命を捧げようという国民がどれほどいることだろう。しかしながら、キリストがわたしをお招きくださったこの軍事は、すべてのものと比較にならないほど偉大で高貴なものである。それは、わたしと人々のうちに宿る罪と戦うことであり、武器ではなく、キリストの証言を手に取り、主の生涯を自分自身に映しだし、人々に主を伝え、多くの魂を導き、キリストに捧げることである。キリストはご自身をわたしのためにお与えくださった。そして、現に今お与えくださっているのは、単にわたし一人が救われることに留まらず、わたしもまた主の協働者として、他の人々の救いのために働くためである。これこそが、主が私をお召しになられた戦役である。
四、しかしながら、もしこの聖なるご意思に従おうとするのであれば、まずは主のみ国を自分の心の中に建設しなくてはならない。わたし自身の慢心、我儘、欲情、怠惰、そして自分自身を征服しなくてはならない。み恵みと御助けによって、わたしの心の中に潜んで主イエスの靈に逆らわせようとするすべてのよこしまな思い、邪悪な欲望を打ち砕き、その上で主イエスが自身の心に宿り、わたしを支配してくださるように努めなくてはならない。そうでなければ、み国の拡張のために本当に参画したとはいえず、人々を率いて主に従わせることもできない。主のみ国は本当に自由の国――利己、我儘、罪からの自由の国――である。それは、歓喜と平安の国と言えるが、まず自分自身の経験によって、その真理を知らなくては人々を導くことなど望外の企てでしかない。そのため、人々をすなどろうとする前に、まずは自分の心に神の国を作り上げなくてはならない。主がわたしを人々の靈を救うために用いてくださる前に、キリストがわたしの内に住み、わたしを治めてくださるようにしなくてはならない。
二 わたしの返答
ある意味では、すでに主にお答えを差し上げてから長い時が過ぎた。遠い昔において、わたしはキリストの旗下に属する兵士となった。そして、主に従って聖戦に参加することを約束している。洗礼式のとき、額に記された十字の形は、以後キリストの十字架を恥じることなく、勇ましくそのみ旗の下で罪と世と悪魔と戦い、生涯の終わりまでキリストの兵士として忠誠を明らかにするものであった。堅信式のときには、これをさらに堅固なものとした。このように、わたしはすでに聖なる戦いに従軍することを誓約している。
わたしは、そのときの堅い誓いをどのように履行しているだろうか。告白しなくてはならない。事実、わたしはその誓約を思い返すことあまりにも少なく、幾度となく怠り、そして臆病であった。それだけでなく、神の御前から逃げて敵方に向かったことすらあるではないか。
それでも主は、今またたわたしをお招きくださっている。黙想の間、主はわたしに語りかけてくださる。「我が子よ。わたしは、あなたの過去のすべての罪、すべての不忠と反逆を許す。そして、今またあなたを招く。もしあなたがわたしの言葉を受け入れ、真心をもってわたしに従うのであれば、すべての敵に対する勝利を与えよう。わたしを望み、視なさい。それは、そのようにわたしを見ることによって、あなたの心がわたしに傾き、あなたは私のもとに来て、わたしに属するものとなることを願うだろう。見よ、わたしはあなたと同じ人間の姿を取ったことで、あなたの弱さを知り、あなたが必要とすることを知っている。わたしは心の中の戦いに打ち勝つことが、並大抵のことではないことも知っている。すべてのことについて、わたしはあなたに先立って、敵の先鋒とこの身に受けても耐え忍んでいる。そして今、わたしはあなたと共にあり、あなたを励ます。そう、わたしは救いのためのすべての力を持っている。わたしは、『あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる』 者である。≪ユダ1:24≫
このように、キリストはわたしを招き、従わせようとされる。ただ主に従うだけではなく、主をお助けし、人々を主に仕えさせるようにさせるためである。主がわたしに「わたしに従え」とだけ言うのではなく、「こちらに来て、わたしを助けよ」と言われる。主とともに霊なる戦いに従軍させようとして、わたしをお招きくださる主の愛を思わなくてはならない。それは單に主がわたしを欲しておられるだけでなく、主がわたしを愛してくださっているからである。これまでのわたしがしてきた、主の広大な愛に対する貧弱な応答を回想し、自分が価値のない一抹の塵に等しいものと思うまで、謙遜しなくてはならない。わたしのために死に、み国の拡張のための主の協働者として、わたしをお招きくださっている主イエスの愛を斥けるのであれば、天使たちはどれほど驚くことだろう。
わたしは主の召命に対してなんと答えればよいか。今ここで救いの大元帥であるキリストへの忠誠を一新する意志はあるか。再び自身を主に捧げ、以前にもまして忠実に従い、更にこの身を惜しまず、勇敢で我慢強くなるように決心することはできないだろうか。
もし、これがわたしの心からの願いであるなら、まず聖なる方のみ前に跪き、そして主の問いかけに次のように応えなくてはならない。「主よ、そうです。わたしはあなたに従います。この身を惜しむことなく、残らず主にお捧げいたします。わたしの心の中にあり、それを妨害するすべての罪とよこしまな思いを打ち砕いてください。わたしを捕らえるすべてのものを取り除いてください。主のお招きに伴う犠牲があるならば、わたしは喜んでそれをお払いいたします。わたしは、ただ一つのことを願います。それは完全に、永遠に主のものとなって、人々をすなどり、主を愛して主に奉仕させ、主をお助けして人々の心の中に主のみ国を建設し、それを大きく広げることです。」
聖範 第二巻 第一章
第三巻 第五十六章
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とても希望に満ちたというか、前向きな人の文章という印象を持った。
単にそばにおいて眺めるためだけの存在でなく、同勞者=協働者として招いてくださっている、
というところは、宣教の動機にもなるようなことなんだろう。
教会員が減ると教会が維持できない、年寄りばっかりだから若い人にもっと来てもらわなくちゃ、
とかそういう現世的な理由でない信徒の獲得。
そして、この章はとりかかってからだいぶ時間がかかってしまった。
文章の長さとは別に、すっと数時間で終わるときと、邪魔が入ってなかなか進まなくなる時がある。
やっと全体の半分弱くらいまできたので、引き続き取り組まなくては。
■ヨハネによる福音書(14:6)
5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
■ヨハネの黙示録(1:18)
17わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 18また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。 19さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。 20あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
■ヨハネの黙示録(3:20)
19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 22耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。
■ヘブライ人への手紙
5神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。 6ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。 また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 7あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、8すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 9ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
10というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。 11事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、12「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します」 と言い、 13また、 「わたしは神に信頼します」 と言い、更にまた、 「ここに、わたしと、 神がわたしに与えてくださった子らがいます」 と言われます。
■ユダの手紙(1:24)
24あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、 25わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。