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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 ※第九黙想は2020年12月に投稿済みのため、前回第八黙想から今回の第十黙想に飛んでいます。

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///P180///

  第十默想 主の御受難

 

 主イエス、救世の主將は、御受難に於て、凡ての勞役と苦難を厭わず、我らに先立ち、我らが直面すべき一切の試練誘惑の鋭鋒を一身に受け、それに由つて、我らが戰ひの際に助勢し給ふを得る恩惠の力を、御身に増し加え給うた。

 

 序想一 『キリストも汝らの爲に苦難【くるしみ】をうけ、汝らを其の足跡【あしあと】に随はしめんとて模範を遺し給へるなり。』≪ペテロ前書二。二一≫ 主がゲツセマネの園に於て捕縛され給うてより、十字架の死に到るまでに經給ひし凡ての御苦難を想ふ。

 序想二 此の默想に於て、主イエスの御受難が、日常生活にも、また異常の困難に際しても、我が煉達の祐けとなるやう祈る。

 

     一 日常生活に於て

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 御受難が、我らの日常生活に於ける困難と誘惑に如何なる祐助を與へるであらうか。

 試みに、我が生活を外側から眺め、我をそれに對する忠告者の位置に置いて見る。此の、我が如き性格と境遇にある者に取り、最も危險となり、誘惑となるものは何であらうか。次に、弱點を發見し、致命症の兆候を認め得たならば、仰いで、主イエスの御受難の中に含まれて居る神藥を求めねばならぬ。

 一、我は、餘りに他の評判を考へ過ぎる傾向があることを發見する。例へば、世間の人氣を買はうとする。キリストへの忠節のため、黒白の旗色を鮮明にすべき場合、之を曖昧にする。我が確信を現はして立つ勇氣が足りない。キリストを我が言行に現はすことを懼れるのである。

 キリストの御生涯--ナザレの村からカルヴアリの丘に到るまで、常に、十字架の蔭に生活し給うた御生涯い就て、發見される怯懦退散の靈藥は何か。

 視よ。少年に在して、人生の出發をかの大宣言を以てし給ふたではないか。『我はわが父の家に居るべきを知らぬか。』≪ルカ傳二。四九≫

///P182///

 長ぜられては、神意の示す道を更に進み、それと相容れぬ、人氣俗受けの方法を却け給うた。最後に、御受難に臨んでは、御弟子らに捨てられて一人眞理の證人として立ち、汚名、苦痛、死などの犠牲を惜み給はなかつた。

 凡そ人の世に言行された、かくも確固不抜、神意と眞理に忠實な主の御生涯を想見するとき、自然斯く祈らざるを得ない。「神よ我を祐け給へ。我は人々の稱讃非難のためならず、良心と神意に對して誠實に生きんことを冀ふ。我も亦わが父の業をなすべきなり」と。

 聖藥の靈能は顯著である。臆病と人氣病の毒消となり、直眼を以て、自己の責任と神の嘉し給ふ事を視、之を敢行し得る力強さを、主イエスの御受難の中に見出すのである。

 二、なお、ほかの誘惑は、贅澤、即ち安逸、慰樂を禮拝することある。慰樂去つて、始めて、我らが堕して女々しくなつて居ることを知る。

 更に、祈祷して主を偲ぶ。眼前に彷彿するは、縛せられ給うた主である。エルサレムの都路を曳かれて、アンナス邸へ、ピラト、ヘロデ邸へ、そして、再びピ

///P183///

ラト邸へ--絶食と不眠に--鞭打たれ、十字架を負はされてカルヴアリへ、そして磔殺。十二軍の天軍を呼び降して、身を救ひ給ふことも出來たまうたが、それは、御父の聖旨ではなかつた。主はその幼年以來、苦難の道場内に訓練を受け給うて居る。『受けし所の苦難【くるしみ】によりて從順を學び』≪ヘブル書五。八≫給うて居る。されば我ら、懶惰、柔弱、放逸などに魅せられるとき、御受難の主を心裡に描けば、直ちに我が要する良劑を見出し得るのである。

 三、或は我が誘惑は、癇癪強く、氣質鋭く、高慢であつて、如何なる些事にも毀損にも憤怒を發する。御受難に於ける人々の惨忍と暴行を凝視しよう。僞證、打擲、放唾、嘲弄、理不盡の鞭撻。それに引代へて我らの主の忍耐と沈默の御有様が眼前に彷彿する。『彼はくるしめらるれどもみづから謙だりて口をひらかず。』≪イザヤ書五三。七≫斯く、主の御受難には、我憤怒、怨恨を唆る凡ての試誘に對して、之を緩和する靈能が含まれている事を發見する。

     二 苦 難 の 時

///P184///

 早かれ遅かれ、凡ての者に苦難--苦痛、衰退、心配、失望、家庭不和、精神的試練、等--が来る。如何にして、主の御受難から御力が與へられるであらうか。前にもあつた如く、「苦難に際しての我が危險、我が誘惑は何か。如何なる治療を御受難から見出し得るであらうか。」

 一、一の危險は、『主の懲戒【こらしめ】を輕ん』≪ヘブル書一二。五≫じ之を認めず、却つて之を、世に人として爲すに價する企業の、障碍をなすものであると思ふことである。從つて、その中に隠されて居る、神の御手、神の御計畫を識らず、不愉快な邪魔が去るとき、世常の生活と事業に戻つて、一切を忘却するのである。

 然し乍ら、病氣、試練、その他如何なるものであつても、それは皆神から来るのである。それは、我らの益となり、我らの改心又は聖化のためとなる。神が、それに依つて我らに何事かを告げ給はんとする特に重要なものである。されば、我らに取つて誘惑となることは、神を忘れ、その苦難又は試練を、神から切り離して考へることである。

 その治療法は如何ん。我らは、翻つて再び主にかへり、主を偲ぶ。主はかの

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思ひも及ばぬ多くの御苦難の中にあつても、決して御父の御意向と御目的を見失ひ給はなかつた。『父の我に賜ひたる酒杯【さかづき】は、われ飲まざらんや。』≪ヨハネ傳一八。一一≫『なんぢ上より賜はらずば、我に對して何の権威もなし。』≪同一九。一一≫ 斯く、主イエスの御受難により、我らは、苦難を神の慈父心から發するものとして受ける事を學び、それに依つて、教へたまはんとする聖意を悟らねばならぬ。

 二、次の危險は、苦難に際して「氣を失ひ、」落膽へと沈み、果ては不平反抗となることである。傷ついた心、又は苦しむ身を持つとき、我らは獨り退いて、人々から要求される助けと同情を斥ける。かく獨善的精神が我らの生活を毒する。神の恩惠から離れるとき、苦難は自然の結果として我らの心中に、我儘、不平、反抗心を醸すのである。

 その解毒劑は何か。それは我が「悲しみの人」の愛他的御生涯、氣を失はぬ同情等を想ふことである。確かに、主は御身に餘る苦痛と悲哀を持ち給うた。而かも、如何に御自身を忘れ給うたか。如何に、常に他を祐け慰め給うたこか。--主を否み奉つたペテロ、御側に並んで十字架に懸けられた彼の盗賊、主の御

///P186///

母、聖ヨハネ--などを、決して忘れ給はなかつた。

 我ら主を想ふとき、御十字架に存する一大能力を感受する。それは、聖靈が我らの必要に應じて之を傳達し給う。そして疲勞のとき、苦痛のとき、悲嘆のときに、他に對する忍耐、思慮、注意を呼び起すのである。

 されば、我ら悲嘆或は苦難に際し、心を失はんとするときは、靈肉何れにあつても、御受難の主を仰ぎ望まねばならぬ。確かに、主は人としての御恩情を持ち、我らが凡ての心事に入り給ふのである。主の御同情、それは、凡そ人の味ひ得る一切の苦難以上を經驗し給うたに依つて、充實されて居る。且、主は神に在す故に、我らに主の神的能力を注ぎ降し給ひ、我らを『凡て患難【なやみ】の中にも喜悦【よろこび】あふるる』を得しめ、又『キリストの能力【ちから】の我を庇【おほ】はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱【よわき】を誇ら』≪コリント後書七。四、一二。九≫しめ給ふのである。

 斯くの如く、御受難の主を、我らの模範、我らの助けとして默想せねばならぬ。御生涯中の凡ての言行、御受難に際しての一切の苦痛の中に、我らの必要のため、御能力と恩惠とを聖心中に増し蓄へ給うたのである。故に、祈祷を以て

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主を仰ぎ奉れば、御受難の靈能と恩惠は我らに注ぎ降されるのである。

 

 ああ我らの主イエスよ。願はくは誘惑に際しての如何なる心戰にも、身に負ふべき如何なる苦難に逢ふとも、主を仰がしめ給へ。また唯に、我が模範たるのみならず、救靈の將として、主の勝ち給へる御能力を弱き我に注ぎ、如何なる難事に際しても、主の榮光のために活き行くことを得させ給へ。

 

   聖範 第二巻 第十一章。第十二章。

 

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===現代語訳案(2020.2.10)===

  第十黙想 主の御受難

 救いの主将である主イエスは、ご受難において、すべての労苦を厭うことなく、私たちに先立って私たちが直面する一切の試練、誘惑の先鋒を一身に引き受け、それにより主はその身に、わたしたちの戦いのとき、わたしたちに助勢してくださることができる恵みの力を増し加えられた。

 序想一 『キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。』 ≪2ペテ2:21≫ 主がゲッセマネの園において捕縛されてから、十字架の死に到までご経験されたすべてのご苦難を思う。

 序想二 この黙想において,主イエスのご受難が、日常生活においても、また非常の困難の時にあっても、わたしの練達の助けとなってくださるように祈る。

 

     一 日常生活において

 主のご受難は、わたしたちの日常生活における困難や誘惑にどのような佑助を与えてくださるだろうか。試みに、自身を客観的な忠告者として、自分の生活を外から眺めてみよう。この私のような性格と境遇にある者にとって、最も危険であり、誘惑なるのはどのようなものだろうか。また、私の弱点を発見し、致命的な病の兆候を見つけたのであれば、主イエスのご受難を仰ぎ、そこに内包される神による薬を求めなくてはならない。

 一、わたしはあまりにも他人からの評判を考えすぎているのではないか。例えば、世間からの人気を得ようとする。キリストへの忠節を示すために旗幟鮮明にすべき場面でそれを曖昧にする。自分の確信を明らかにして、立ち上がる勇気が足りない。このように、わたしたちはキリストを自分の言動の中で明らかにすることを恐れているのである。

 キリストのご生涯、ナザレの村からカルヴァリの丘に至るまで、常に十字架の陰にあった主のご生活。そこから見出される恐怖に打ち勝つための霊薬はなにか。

 見よ、主は少年であられた頃、『わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』≪ルカ2:49≫という大宣言をして人としての生涯への出発をされた。成長されてからは神のみ心の示す道を更に進み、それと相容れないような人気取りをしようとはされなかった。最後には、ご受難に臨んで自らの弟子たちにも見捨てられて、ただ一人、真理の証人として立ち、汚名、苦痛、死などの犠牲を惜しまれることはなかった。人の世での主の言葉と行い、確固として神のみ心と真理に忠実であられた主のご生涯を思うとき、自然とこのように祈らざるを得ない。「神よ、わたしを助けてください。わたしが人々からの賞賛を求めたり、けなされることを恐れたりすることなく、良心と神のみ心に対して誠実に生きることを願います。わたしもまた、父のみ業をこの身になさなくてはなりません。」と。

 聖薬の霊能は顕著である。臆病と人気への執着という病気への毒消しとなり、飲んだものは、自らの責任と神がお喜びになられることを自ら直視し、これを敢行することができる力強さを、主イエスのご受難の中から見出すことができる。

 二、なお、このほかの誘惑には贅沢であったり、何も考えずにのんきに過ごすこと、快楽のための楽しみを礼拝することがある。わたしたちは、快楽が過ぎ去ったとき、自らが堕落して女々しくなっていることを認識する。更に祈り、主を偲ぼう。

 目の前にありありと見えるのは、捕らわれ、縄で縛られた主である。エルサレムの都の大通りを通って大祭司アンナスの邸宅へ、提督ポンテオ・ピラトの元からヘロデ王の邸宅へ送られ、再びピラトの邸宅にと、絶食と不眠のうちに引き回された。鞭打たれ、十字架を担わされてカルヴァリの丘へ、そして十字架にかけられ、殺された。天にある十二の軍勢を呼び、その身を助けさせることもおできになったが、それは御父のみ旨に叶うことではなかったのでされなかった。主は、幼い頃から、苦難の道場の中で訓練を受けておられた。『多くの苦しみによって従順を学ばれ』た。≪ヘブ5:8≫ わたしたちは、怠け心、優柔さ、自堕落な生活に魅せられるとき、御受難の主を心のうちに描くことで、わたしたちが必要とする良い薬を見出すことができる。

 三、また、わたしは気性が荒く、尖った気質であり、高慢であって、どのようなつまらないことや自身に対する非難にも激怒してしまう。ご受難のときの人々の惨忍さと暴力的な行為を見つめよう。偽証、暴行、唾を吐きかける、あざけり嘲笑する、理不尽な鞭打ち。それに対するわたしたちの主の忍耐と沈黙の様子を目の前に思い浮かべる。『苦役を課されて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。』≪イザ53:7≫ このように、主のご受難には、わたしに怒りや怨恨を起こさせようとする全ての試練と誘惑に対して、それを和らげる霊能が含まれていることを見つける。

 

     二 苦難のとき

 遅かれ早かれ、誰にでも苦痛、衰退、心配、失望、家庭不和、精神的試練などを伴う苦難のときがくる。どのようにして主のご受難から力が与えられるだろう。前述のように、苦難の時にわたしに訪れる危険、誘惑はどのようなものか。主のご受難からどのような治療方法を見出すことができるだろうかと考える。

 一、はじめの危険は「主の鍛錬を軽んじ」てこれを認めず≪ヘブ12:5≫、むしろそれが、この世で人としてなすべき行いの障害になることだと考えることである。苦難の中に隠されている、神の御手の業、神のご計画を認識せず、不愉快な邪魔が去ると、また日常生活に戻ってすべてを忘れてしまう。

 しかし、病気や試練、その他どのようなものであっても、すべて神からのものであることを忘れてはならない。それはわたしたちの改心や聖化のためになる有益なものだ。神がそれを用いて、わたしたちに何かをお告げになられようとしている、きわめて重要なものである。わたしたちにとって、神を忘れること、苦難や試練を神と切り離して考えようとすることこそが誘惑となる。

 その誘惑に対する治療法はどのようなものだろうか。わたしたちは身をひるがえして主に立ち返り、主を偲ぶ。主はわたしたちには思いもよらぬ多くのご苦難の中にあっても、決して御父のご意向と目的を見失われることはなかった。『父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』≪ヨハ18:11≫、『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。』≪ヨハ19:11≫ 主イエスのご受難により、わたしたちは苦難を神の慈悲の父としての心から生まれているものとして受け入れることを学び、それによって神がわたしたちにお教えくださろうとしているみ心を悟らなくてはならない。

 二、次の危険は、苦難に際して「心を失い」、落胆し、挙句の果てに不平・反抗的になることである。心が傷ついたり、その身が苦しいとき、わたしたちはひとりで一歩引いて、人々から求められる助けと同情について、斥けようとする。このような独善的な心持ちが私たちの生活の毒となる。神の恵みから離れるとき、苦難は当然の結果としてわたしたちの心の中に、我儘、不平、反抗心を育てる。

 その解毒剤となるものは何か。それは、わたしたちの「悲しみの人」の愛他的なご生涯、心を失わない同情などを思うことである。確かに、主はご自身の身にあまる苦痛と悲しみをお持ちになられた。そのうえ、どれほど自信を顧みず、常に他を助け、慰められたことだろう。主を否認したペテロ、主と並んで十字架にかけられた盗賊、主の御母マリア、聖ヨハネなどを決してお忘れにはならなかった。

 私たちが主を思うとき、十字架に内包された大きな力に感じ入る。それは、聖霊がわたしたちの必要に応じてそれをお授けくださる。そして、疲れきったとき、苦痛のとき、悲嘆にくれるとき、それらに対する忍耐と思慮、注意を呼び起こす。

 それならば、わたしたちは悲嘆にくれ、苦難に直面して、心を失いそうなときは、その苦難が魂・肉体のどちらに対してのものであっても、ご受難の主を仰ぎ見なくてはならない。たしかに、主は人としての慈しみの心を持ち、わたしたちのすべての内面にお入りになられる。人が味わい得るすべての苦難以上のご経験をされたことによって、主の慈しみは充たされたものとなっている。それだけでなく、主は神であられるがゆえに、私たちに主の神としてのお力を注ぎ降してくださり、わたしたちを『どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれ』、『キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇』るようにしてくださるのです。≪2コリ7:4、12:9≫

このように、ご受難の主を、わたしたちの模範、助けとして黙想しなくてはならない。そのご生涯の中のすべての言葉と行い、ご受難のときのすべての苦痛の中で、わたしたちが必要とするもののため、力と恵みをご自身の聖な心の中に増し加えられた。そのため、わたしたちは祈りをもって主をお仰ぎしたとき、ご受難の霊能と恵みはわたしたちに注ぎ、降されるのである。

 

 ああ、わたしたちの主イエスよ。願わくは、わたしたちが誘惑を受けているときのどのような心の中の戦いにおいても、この身にどのような苦難を負うことがあっても、主を仰ぎ見ることができるようにしてください。また、それは単なるわたしの模範としてだけでなく、弱いわたしに、魂を救うための司令官としての主の勝利の力を注ぎ、どのような難事にあっても、主の栄光のためにいきることができるようにしてください。

 

   聖範 第二巻 第十一章。第十二章。

 

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重そうなタイトルの割には、とても前向きな内容だった。

ここしばらく、仕事で行き詰っていて、もう全部投げ出してしまおうと思ったけど一日仕事をさぼって、

この作業をしようと取り組むことにしたのが今日である。

 

原文を打ちながら、それを今の言葉に書き換えながら、今の自分に向けて言われているように感じた。

同じくして、会社でとてもお世話になってきた人の抜擢人事の発表もあり、

何の気なしに連絡をしたところ、とても心配してくれていたらしく、なんとか職場を支えていってくれよ、と言われてしまった。
 

とりあえずもう少し投げ出さずに取り組んでみながら、

少なくとも上司と話し合って、自分が考えていることを伝え、その上で判断をしようと思う。

 

おそらく今後もこの職場はうまくいかないのかもしれないけど、

解決しなければそれもまた神様の意志なんだろうから受け入れればよし、

ここ数日よなよな鬱々と考えていたように今週末に一方的に最後通告をして、

荷物まとめて出ていくよりは後悔せずに済むのではないかと思う。

 

こういうめぐり合わせがあると、神様は居て、見てるんだなあと感じる。

 

主に感謝である。

 

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■ペテロの手紙2(2:21)

 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

■ルカによる福音書(2:49)

42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。 48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

■ヘブライ人への手紙(5:8)

7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

■イザヤ書(53:7)

3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

4彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

5彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

6わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

7苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。

屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

 

■ヘブライ人への手紙(12:5)

4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。

6なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」

7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。

 

■ヨハネによる福音書(18:11) ※ゲッセマネの園で兵士たちに囲まれたイエスたちの場面。

 10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。 11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

■ヨハネによる福音書(19:11)

10そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」 11イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

■コリントの信徒への手紙二(7:4)

2わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。 3あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。 4わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

■コリントの信徒への手紙二(12:9)

2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 3わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。