付録 二 決心に就て(2)
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静修を終る頃に至るならば、導かれ来つた道程を考査せよ。黙想中、念頭に宿つたものの多くは、必ず、自己の欠く處のものであり、又、決心を促すものである。
良心の声を聴け。神は良心に依つて語り給ふ。過ぎ来し歳月、又は、前の静修以来のことを回顧せよ。何れの点に最も失敗を重ねたか。神に対する義務に於てか。隣人に対してか。将た、自己に対してか。神が今為さしめ給ふと思ふこと、
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或は、之を促がし給ふと思ふことは何か。即刻、決心するが益であり、必要であると思はれる数個の事項を考察せねばならぬ。
一、常習の罪。それは何であるか。如何にせばそれを最も良く防ぎ得るか。それがため、如何なる機会を避くべきであるか。
二、祈祷。之がために充分な時間、考慮、崇敬、注意、等を用ゐて居るや。私祷、反省、代祷、聖餐前の準備と後の感謝、敬虔書の味読、黙想。--是らの中、注意を要するものは無いであらうか。
三、業務。そのために充分な時間を費して居るか。才能と機会とを最もよく使用して居るか。
四、家庭生活。矯正すべき事はないか。――我儘、笑顔の不足、助力、礼節、機嫌等は如何ん。
五、金銭。乱用、奢侈、勘定の不支払、為すべき寄進や施与に応ぜず。――等はないか。
六、使命。静修中、それが奈辺にあるかを想へ。既に神から示さたであらう。
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聖職にか。伝道者にか。修士にか。他の業務にか。決心した事の一つとして神がそれに就て一層導き給ふこと、又、神の召命に従いうること等のために、日々の祈りが含まれて居る筈である。
七、生活の規則。未だ持たぬならば、今それを定むべきである。或は、曾て定めたものを改正すべき時であらう。その何れをしても、最後の決定する前に聴悔聖職に計るが適当な方法である。
以上は、決心を固めんとする場合、諸方面から見た注意すべき箇条である。猶他に、神と良心とに示されることも種々あるであらう。
決行すべき事柄を確定し、聴悔聖職の賛成を得たならば、之を紙片に書き下し、忠実に守り得るやう神の御助を祈れ。毎日、朝の祈祷に之を思ひ起し、夕べに之を反省するは、良法の一である。斯くて一ケ月を経るならば、その条項は深く心中に根ざすに到るのであるが、その後と雖も、安然を期すためには、日々之を読み反へして、漸次の忘却を防がねばならぬ。特に、告悔準備の際はさうすべきである。
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猶、他の二点に就て数言を費やし度いと思ふ。
一、聖イグナシウスは、彼の所謂「選択」に就て説く處が多い。此の用語の意味は、生活状態の選択であつて、聖職を選ぶか、修士をとるかの如きを指す。此の種の選択は、よく熟考した後、始めて決すべきであつて、それと共に、聖イグナシウスによつて定められた規則と方法とに通じ、之を充分に正しく適用し得る経験ある聖職の指導を必要とするのである。
二、其の他に、決心せねばならぬと思はれる事があり、而かも、それに伴ふ犠牲又は心戦に委縮する場合には、聖イグナシウスに由つて遺されて居る数個の短かい方法が、少からず裨益すると思ふ。
(イ)わが創造された最後の目的、二方面なるも帰する處は一つ、を考察すること。即ち、神を愛し、神に奉事すること、然して、自己の霊魂を救ふこと。
(ロ)神と我が良心とが、静修の齎す結果として、心裡に強く要求することを識ること。神は我が真実の益となり幸福とならぬことを、決して求め給はず
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と悟らねばならぬ。
(ハ)仮定する。人あつての我と同一の実際問題、心霊問題に直面し、神の栄光と彼の霊魂の救ひのために、その最善の道を問はれたとするならば、その人に何う勧めようとするか。彼に与へようと欲する勧告、それは即ち、自己が踏むべき道である。
(ニ)今、臨終の床上にあるとするならば、此の事が如何に実行されて居つたならばと願ふであらうか。さふ願ふ如く、いま実行せねばならぬ。
(ホ)何れの日にか、必ず来るべき神の審判廷に現在臨んで居るものと想像し、その場合、この事柄に対する如何なる決心が、我に確信と喜びとを与へるであらうか。それが、今なすべき決心である。
非常に簡単ではあるが、而かも適用されることが確実である處の、この規定に従つて決心を固め、それを神の愛と御護りに任せて献げ奉り、その御嘉納と御祝福を祈るべきである。
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==現代語訳案==(2020.9.26)
静修を終る頃になったら、導かれ来た道のりを振り返り、考えなさい。黙想中に胸の内に宿ったものの多くは、必ず自分に足りないものであり、決心を促すものである。
良心の声を聴きなさい。神は常に良心に依って語られる。過ぎ来た歳月や前回の静修以来のことを思い返しなさい。どんなことで過ちを重ねたのか。神に対する義務についてか、隣人に対してか、あるいは自分自身に対してか。神が今私にさせようとしてくださっていること、または神から促されていると感じることは何か。すぐに決心することが有益ではあるが、必要と思われる数個の事項を考察しなければならない。
一、常習的な罪。それは何か。どうすればそれを最も効果的に防ぐことができるか。そのためにはどのような状況を避けるべきか。
二、祈り。このために充分な時間、考慮、崇敬、注意などを行っているだろうか。個人的な祈り、反省、自分以外のものを覚える祈り、聖餐を受ける前の準備と受けた後の感謝、信仰に関する本をよく味わって読むこと、黙想――これらの中に、注意すべきものはないだろうか。
三、業務。そのために充分な時間を使っているか。自身の才能と与えられた機会を充分に活かせているか。
四、家庭生活。直すべきことはないか。――わがままを言ったり、笑顔が不足していたり、助け合いうことを忘れてはないか。家族だからと言って礼儀を欠いたり、機嫌を悪くしていないだろうか。
五、金銭。無駄遣い、過度な贅沢、支払うべきお金の不払い、行うべき献金や施しに応じていない、ということはないか。
六、使命。静修中、それがどこにあるのかを思いなさい。それは既に神から示されているであろう。聖職としてか、伝道者としてか、修士としてか、それ以外の仕事が自分に与えられていることだろうか。決心した事の一つとして、神が自分の使命について一層お導きくださること、自分が神の召命に従うことが出来るように、日々の生活に祈りが含まれているのではないか。
七、生活の規則。まだそれを持っていないのであれば、今定めるべきだ。すでにそれを持っている場合は、今、見直し、改めるべき時だろう。どちらにしても、最終的な決定をする前に、聴悔聖職に相談することが適切である。
以上は、決心を固めようとする場合に、様々な視点から見た場合に注意すべき点である。なお、このほかに神と良心とによって示されることも多くあるだろう。
決行すべきことが定まり、聴悔聖職の賛同を得たら、その内容を紙に書き、忠実に守ることができるように神の御助けを祈りなさい。毎日、朝の祈りのときに思い起こし、夕に反省を行うことは、継続のためのよい方法の一つである。そのようにして1か月守ることが出来れば、その決心の内容は心の深くに根差すことになるが、その後も日々これを読み返して、日々の中で忘れて行ってしまうことを防がなくてはならない。特に個人懺悔の準備を行う際はそうすべきである。
また、ほかの2つの点についていくつか述べたいと思う。
一、聖イグナシウスは、彼のいわゆる「選択」について説くことが多い。この用語の意味は、生活状態の選択であり、聖職の道を選ぶか、修士となる道を選ぶか、というようなことを指す。この種の選択は、よく考えた上で決定すべきものだが、それに加えて、聖イグナシウスが定めた規則と方法をよく知り、正しく適用することが出来る聖職の指導を必要とする。
二、そのほかに、決心しなくてはならないと思えることがあるが、それによる犠牲や葛藤により心が委縮してしまう時は、聖イグナシウスが残したいくつかの方法が、役に立つだろう。
(イ)私が創造された究極の目的は何だったか。また、どのような二面性を持つものであっても帰結するべき一つの点がある、ということから考える。それは、神を愛し、神に仕えること。そして、自分の魂を救うことである。
(ロ)静修のもたらす結果として、神と自分自身の良心が、自分の心に対して強く求めることがあることを知る。神は私にとって本当に為になること、幸福につながること以外は決してお求めにならないと理解しなくてはならない。
(ハ)自分と同じ現実生活の問題、霊的な問題に直面する人がいたと仮定して、神の栄光とその人の魂の救済のために、最も良い道を尋ねられたとしたら、その人に何をどのように勧めるだろうか。その人に勧める道こそ、すなわち自分が進むべき道である。
(二)今、死の間際にあるとしたら、このことがきちんと実行されていれば、と思うことがあるのではないか。そう思うことを今、しなくてはならない。
(ホ)いつの日か、必ず来る神の審判廷に、今臨んでいると想像する。その上で、今目の前にある事柄についてどのような決心をすれば、審判廷に立つ私に確信と喜びを与えることが出来るだろうか。それが今すべき決心である。
以上、とても簡単だが、確実に適用できるこれらの規定に従って決心を固め、それを神の愛と御護りに任せて捧げ、神がそれをお受入れくださり、祝福してくださるように祈るべきである。
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・聴悔聖職…ローマカトリックで言う”ゆるしの秘跡”いわゆる告解室で格子戸を挟んで、懺悔をしたい信者が罪を告白し、聖職者がそれに対して赦しを与えるものがイメージされる。当時のイギリスではそのようなことが行える環境だったのだろうが、今の日本の聖公会ではあまり一般的ではない。
なお、聖公会では、洗礼と聖餐を聖奠(サクラメント)とし、その他5つの”聖奠的諸式”(堅信、聖職按手、聖婚、個人懺悔、病人の按手と塗油)として個人懺悔があるので、聖職に言えば話を聞いてくれるものと思う。リトリートを行う時には指導教役者がつくのが一般的だと思うので、その指導教役者に伝えればよいのではないか。
・後半の(イ)からのくだりは、黙想のためだけでなく、日常生活を送る上でもとても役に立つ考え方ではないだろうか。
・未来の自分が、あの時ああしていれば、と思うことをする。今の自分と同じ苦難を抱えている人に会ったら、なんと伝えるか。自分のことであれば「周囲に迷惑をかけないよう、これくらい自分の力でなんとか乗り切ろう」と思うかもしれないが、大切な人が同じ苦しみのうちに在ったら「一人で抱えず、みんなに相談して協力を求めよう。みんなでやればすぐ終わるよ」ということもあるのではないだろうか。