『静修指導書』現代語訳の道 -36ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

付録 三 静修を終るとき

==P371==

     三 静修を終るとき

   以下の勧告は、主として聖イグナシウスの「修業指導書」第十一章から摘録したものであるが、益する處少くないと思ふ。

 

 人が、温暖の場所から冷寒の外気中に出ていくとき、身体の保温に就て注意せぬと、冷却して悪寒を感ずることがが早い。その如く、修業を終り普通の生活と交際に還る人も、感得した光と熱情を忽ち忘れて仕舞ふのである。之が特に危険となる理由は、既得した如何なる善果も、未だ固定した習性となつて居らず、情操の性質として移り易く、時としては全然失はれることすらある。斯くては、凡て修業のため費やされた労力もその結果も、水泡に帰するのである。

 故に、静修を了へた人に与ふべき第一の勧告は斯うである。静修中に、神の恩恵に依り置かれた心霊生活の発端と基礎とを、極めて尊重し、之を神与の一大恩賜、否、恩賜中最大のものとして拝受せねばならぬ。又、静修中感得した凡て

///P372///

の霊光と霊智とは、神が特に自己を慈しみ許し給うたものであるから、益々深く尋究し、心中に之を秘蔵し、保護して行かねばならぬ。もし以後の生活が、斯くあるべしと知りつゝ実践されぬときは、神に対する忘恩として厳罰を蒙るであらう。恐るべきことである。善と知り、猶之を行はぬ者は、大なる責罰を以て問はれること当然である。

 第二に、今だ神から善き種子を我が霊魂中に蒔かれたのみであつて、之を愛撫して成長させ、時に至つて果を結ばしめぬならば、その儘では、始んど無意義に等しいと悟らねばならぬ。故に先ず注意して、此の良種を仇し禽鳥、即ち悪霊に攫はれるか、或は荊棘、即ち世俗の悪念、又は野望に塞がれぬやうすべきである。従つて、単に罪を避けるのみでなく、罪に誘はれる機会、別けても静修前にその傾向のあつた機会は、特に警戒する必要がある。それは、再び引き反へされ易いからである。

 第三に、敬虔なそして心霊的修業によつて、此の度味得した宗教心を永続させ、胸裏に納めて行くやう心懸けねばならぬ。以下の如きは特に推薦したいと思

///P373///

ふ。(一)成るべく、毎日三十分づゝ黙想を継続して行くこと。(二)毎日、言行について良心の糺明をなすこと。(三)告解と陪餐とを規則的に行ふこと。(四)誰か適当な聴悔聖職を選んで自己の指導者とし、霊魂の問題に就ては、何事によらず相談すること。(五)毎日、聖書の一部分、又は何か霊的の読物、例えば聖範、サールの聖フランシスに由る信心生活、ローレンス・スクボリの霊戦、等を味読すること。(六)適当な生活規則を設け、正しく之を守るやう心懸けること。(七)日々諸種の徳行、殊に謙遜、忍耐、愛他、等の諸徳に進むやう努めること。(八)自己の守るべき生活と境遇に於て、神の恩恵の量に従ひ、此の世に於て遂し得る限りの霊的完成を目標として、孜々精進すること等である。

 以上聖イグナシウスの「指導書」に記載されてある外、心得としての序でにもう少し加へ度い。

 静修は霊的訓練の時となるのであつて、之を去るに臨んで、その反動が起ると云ふ危険がある。故に静修者は、宜しく之に対して警戒し、心霊の落着と考想を

///P374///

持続するやう努めねばならぬ。静修中、温められ高められた感情は、次第に冷却する。それは永続的でなく、一時的であるが、特別の目的があつて神から起されたのである。即ち、それが助けて一新心機を生じ、何かしらの難事を成就せしめるのであつて、その使命が果たされるとき、影を没するものである。然し乍ら、静修が遺す永続的の果実は、既に誓つた決心の中に見出すべきものであり、実行の中にその生命を保つべきものである。故に、之を記録して置いて、度々読み反して忘却を防ぎ、時日を延ばさず、之を実行し始めねばならぬ。

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==現代語訳案==(2020.9.27)

     三 静修を終えるとき

   以下の勧めは、主に聖イグナシウスの「修業指導書」第11章から抜粋したものだが、役に立つものだろう。

 人が、温かい場所から寒い外気の中に出ていくとき、防寒対策をしなければ、早々に体が冷えて悪寒を生じることになる。それと同じように、修業を終えて、日常生活に戻る人も、感得した光と熱い思いをたちまち忘れてしまう。なぜそれが危険なことかといえば、修業中に得たどのような善い結果も、まだ自身の中では固定された習慣になっていないため、移ろいやすい人の感情・情緒のせいで、時として修業の成果をすべて失ってしまうこともある。そうなれば、修業のために費やした労力、その結果もすべて水泡に帰してしまう。

 そのため、静修を修了した人に与えるべき第一の勧めは次の点である。静修中に、神の恵みによっておかれた霊的生活のはじまりと基礎部分を、限りなく尊重し、これを神が与えてくださった大きな賜物、いや、最大の賜物として謹んで受け取らなくてはならない。また、静修の間に感得したすべての霊的な光明、はかり知ることの出来ない深い知恵とは、神が特に自分を慈しみ、お許しくださったものであるから、それを更に深く、どこまでも探し求め、心の中にこれを大切に持ち続け、守っていかなくてはならない。もし、今後の生活において、このようにあるべきだ、ということを知りながら実践しないときは、それは神からの恩を忘れ、ないがしろにする行為であり、厳罰を蒙るだろう。それは恐るべきことである。善いことと知り、それでもそれを行わない者は、大きな責任を問われ、罰を受けるのは当然のことだ。

 第二に、今はまだ神からの良い種子を自分の魂に蒔かれただけであり、これから先、これを心を込めて成長させ、いずれはそこに実を結ばせなければならない。今のままではほぼ無意義に等しいことを理解しなくてはならない。そのため、まず注意してこの良い種を悪魔という鳥に奪われてしまったり、世俗の悪念や野望といった荊の棘に塞がれてしまわないようにすべきである。そのためには、単に罪を避けるのではなく、罪に誘われること、特に静修前からその傾向があったような誘いは、再び引き戻されやすく、特に警戒する必要がある。

 第三に、敬虔な霊的修業によって、味得した信仰心を長く保ち、胸中にとどめ置き続けるように心がけなくてはならない。次のようなことは特に推薦したい。

(一)なるべく、毎日三十分づつの黙想を継続すること。(二)毎日、自分の言葉と行いについて、良心に従って糺すこと。(三)懴悔と陪餐を定期的に行うこと。(四)誰か適当な聖職者を指導者とし、霊的生活での問題については、どんなことであっても相談すること。(五)毎日、聖書の一部分または霊的な著作を用いた聖なる読書を行うこと。例えば、『聖範』、サールの聖フランシスの『信心生活』、ローレンス・スクボリの『霊戦』などである。(六)適切な生活規則を設け、正しくそれを守るよう心がけること。(七)日々、様々な徳を積むこと。特に謙虚であること、我慢すること、他者に愛をもって接することなどの徳を重ねるように努める。(八)自分が守るべき生活と境遇の中で、与えられる神の恵みに従って、この世においてできる限りの霊的な完成を目標に、日々精進すること、などである。

 以上は、聖イグナシウスの『指導書』に掲載されているものだが、そのほかに心得としてもう少し付け加えたいと思う。

 静修は、霊的訓練の時間であり、その場から離れるときに、反動が起きる危険性がある。そのため、静修者は、その反動に警戒し、魂と心の落ち着きと考想を持続させるように努めなくてはならない。静修の間、温められ、高められた感情は、次第に冷めていく。しかし、その熱い感情は一時的ではあるが、特別な目的をもって神が起こしてくださったものである。即ち、それによって新鮮な気持ちを得て、何かしらの困難を解決させるためのものであり、その使命が果たされるときに役割を終えるのである。とはいえ、静修から得る永続的な成果は、既に誓った決心の中から見出すべきものであり、実行する中で生かし、保ち続けるべきものである。そのため、これを記録しておき、たびたび読み返しをして忘れることなく、先延ばしにすることなく、取り組み始めなくてはならない。

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◆種と禽鳥、荊の話部分は、聖書の種を蒔く話のことだろう。共観福音書すべてに記載されているイエスのたとえ話。そこでは種は神の言葉だとされている。

◆聖範…現在、この名称で発行されている書籍は見当たらない。
 →トマス・ア・ケンピスの著書か?
・1895年に漢文から翻訳された”和語遵守聖範”という本が発行されている。
 国会図書館のアーカイブの表紙では、”大司教伯多録瑪利亜准”とある。伯多録はペテロ、瑪利亜准はマリアージュと読むのだろうか。フランス語のmariage(結婚)?
・ともかく、”北緯聖会”という組織の大司教だった人物。
 現在のローマカトリックの東京大司教区の前身の一つに”日本北緯使徒座代理区”があるため、その関係か。イエズス会関係かも。日本の近代のローマカトリックの組織”日本使徒座代理区”が発足した当初はパリ外国宣教会が受け持っていたというから先ほどのマリアージュもフランス語な気もする。
・明治32年に英国聖公会布教会社から”世範”という本が発行されている。
 

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824785/1

・ほかの2冊には著者名がついているのをみると、単に”聖なる規範となる本”を指している言葉である可能性もある。

 

◆『信心生活』サールの聖フランシス。
 →聖フランシスコ・サレジオの『信心生活入門』のことと思われる。サールはフランスの地名Salesのことで、イタリア語読みをするとサレジオ。同書は、戸塚文卿の訳で日本カトリック刊行会から1931年に発行されているほか、日本語版が何冊か出ているようだが、アマゾンでは偉い値段で中古品が売られている。品薄ではあるのだろう。目次だけ見ても相当なボリュームの様子。
◆『霊戦』ローレンス・スクボリ
 同名の本、ローレンス・スクボリ(Lawrence Scboli?)がどのような人であるかも調べられなかった。
 
影を没する…の意味が判然としない。将来言葉を検討する。
 
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これで附録は終わり。次からは本編を第一から作業に取り掛かる。