付録 二 決心に就て(1)
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静修毎に、必ず何かの決心を起すべきである。静修を行ふのは、唯数日を黙想と祈祷とに消費するのみでなく、我等の生活に真実欠けて居るものは何か、又、我らの心霊生活に於て如何なる道を選び進むやう、神が招き命じ給ふか、等を知るためである。神の与へ給ふ御光は、我らが選び決心せねばならぬ事を示し給ふ
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であらう。
故に、決心は静修に於て最も重大な部分に属す。決心を見ずしては、静修の結果なしと云って差支えない。決心なくしては、神が我らに与へ給うた御光が消え失せて仕舞ふであらう。静修中、如何に明瞭に意識したことも記憶に残らなくなるであらう。神が我らの心中に起こし給うた殊勝な念願も、総ては冷却して行く。変化し幻滅するは、感情と気分の常である。神は、時に目的にあつて之を我らの心中に起させたまふ。即ち、我らを奮発せしめて新心気を起させ、助けて困難に当たらしめ、味はしめ給うた心霊の甘味により、我らをして神を慕ひ仰がしめる等がそれである。然し、これらの心情は長く続かず、次第に雲散霧消して行く。その時怏悩し、或は、自己に狂へる處ありと考へてはならぬ。感情は心霊生活の根底ではない。感情過ぎ去つて後、我らが起した決心こそ、静修の真の結実として保たれるのである。
決心を有効にし、永続せしめるには、之が実際的なると共に、確定的なるを要す。我らが決心する多くは、その目的とする處決して悪くはない。然し、余りに
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確定を欠き、漠然として居る。図星を指して居らぬ。例へば、謙遜であるやうに決心したとする。結構であるが、それを細目に適用して、云々【しかゞゝ※】の場合に、斯様々の方法に謙遜を実践すべしと決心するのでなければ、何の益する處もない。自問せねばならぬ。--如何なる場合に最も謙遜を欠くか。高慢か虚栄かが、我が心中に擡頭する工合は如何ん。われ自身に就て、我が行為に就て、我が所有に就て思考を恣にする時にか。自己に就て内心得意となり、又之を語る時か。社交又は談話に、我が優勢を求める時にか。或は、精神的傲慢であつて、我を他より優れて居ると思ふによつてか。自己満足、又は他を軽蔑するによつてか。--
故に決心は、方法が漠然とした目的でなく、実行すべきことが明瞭でなくてはならぬ。それに就て、深夜自己を糾明し得るもの、又之が実行の成否を識り得るものでなくてはならぬ。
更に、決心は、熱情激しく、心気昂奮する際でなく、冷静に、熟考した後定めねばならぬ。かゝる場合に於ては、その成就を予測し得ないことに、或は、それが自己の境遇に応はしからぬことに、着手するの危険を伴ふのである。
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他方面に於て、決心することのために労多く、持続するには真剣の努力を要するとも、決して辟易してはならぬ。勿論、それがため払ふべき代価を予測せねばならぬが、それがため決心を委縮させてはならぬ。心中に之が決行を促し給うた神は、之を持続し得る恩恵をも授け給ふであらう。
されば、如何なることを決心すべきか。その御示しを神に求めよ。静修中、屢々心に神を仰ぎ祈るがよい。「主よ。我に何を為さしめんとし給ふや。我が進むべき道を示し給へ。我が霊魂は主を仰げばなり」と。
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・怏悩(おうのう)・・・心の奥で悩みもだえること。Oh.No...
・擡頭(たいとう)=台頭
・恣に(ほしいまま)
・屢々(しばしば)一文字でもしばしばと読む。
※”云々”に”しかじか”を表す縦書き用のくの字点がルビとしてふってある。
云し
か
々〴
〵
==現代語訳案==(2020.9.26)
静修を行うたびに、必ず何かしらの決心を起こすべきである。静修を行うのは、ただ黙想と祈りのために数日を消費するだけでない。私たちの生活に本当に欠けているものは何か、また、私たちが霊的生活において、どのような道を選び、進むように神が招き、お命じになっているかなどを知るためである。神が与えてくださる御光は、私たちが選び、決心しなくてはならないことを示してくださっているだろう。
それゆえに、決心は静修において最も重要な部分に含まれる。決心をしないようでは、静修の成果はないといっても過言ではない。決心がなくては、神が私たちに与えてくださった御光が消え失せてしまうだろう。静修の間、どれほど明瞭に意識したことであっても、記憶に残らなくなってしまうだろう。神が私たちの心の中に起こしてくださった殊勝な望みも、すべては冷めていく。どのような感情とも気分も変化し、幻滅してしまう。神は、時々に応じて私たちの心の中に感情を起させる。それは、私たちを発奮させることで新たな気持ちを芽生えさせ、み助けの中で困難に立ち向かわせ、霊的な心地よさを味わわせててくださることで、私たちが神を慕い仰ぐようにしてくださることなどがそれである。しかし、これらの心情は長く続かず、次第に雲散霧消していく。その時、悩み苦しみ、自分ががおかしくなってしまったのではないかと考えてはならない。感情は、霊的生活の根底ではない。感情が過ぎ去った後で、私たちが起こす決心こそ、静修の真の成果として保たれるのである。
決心を有効なものとし、永続させるには、これが実際的であると同時に、確定的であることが必要である。私たちが決心することの多くは、その目的は決して悪いものではない。しかし、余りにも確実でなく、漠然としていることが多い。例えば、謙遜であるようにしよう、と決心したとする。それ自体はとても結構なことであるが、それを日常生活の細かな部分にあてはめ、このときにはこういう風に謙遜を実践しよう、と決心しなければ、何の役にも立たない。自分自身に問いかけなくてはならない。――私はどのようなときに謙虚でなくなるだろうか。うぬぼれておごり高ぶったり、見栄をはってうわべを取り繕おうとする思いが心の中で勢いを増すときだろうか。自分自身やその行い、持っている様々なものについて自分勝手に考えるときかだろう。自分について得意になったり、それを人に語ったりするときか。他者との交流や会話の中で、相手に対して優位に立ちたいと思うときか。あるいは、精神的な傲慢さにより、自分が他よりも優れていると思うことによってか。自己満足や他を軽蔑することによってだろうか。--
そのため、決心は漠然とした方法を目的にしてはならず、実行することが明瞭になっていなければならない。それについて、就寝前に自身の行いを振り返り、自ら糾明することができるようなもの、また、それによって実行の成否が判断できるようなものでなくてはならない。
更に、決心は、情熱にあふれ、興奮状態になっている時ではなく、冷静に熟考したのちに定めなくてはならない。感情が高ぶっているときに決心を定めようとすると、どうすればきちんと達成できるか予測できないことや、自分の境遇にとってふさわしくないことに着手してしまう危険がある。
別の面から見るとき、決心をするということは、多くの労力がかかり、持続させるには真剣な努力を必要とするが、決してためらったりうんざりしてはならない。もちろん、相応の代償はあるかもしれないが、そのために決心を委縮させてはならない。私たちが決行をすることを促してくださったのは神である。それを持続させるための恵みも授けてくださっているだろう。
それであれば、どのようなことを決心すべきか、それを示してくださるよう神に求めよう。静修中は、折に触れて心の中で神を仰ぎ、祈ることが望ましい。「主よ、私に何をお望みですか。私の魂はあなたを仰ぎ祈っています。私が進むべき道をお示しください。」
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・まだ付録に過ぎないが、内容が濃くなってきている。確かに、この辺の内容をしっかり読まずに、
形だけ本編の黙想題に従って観想をするのは危ないことかもしれない。
・瞑想や座禅などで、脳内麻薬であるドーパミンがドバドバ生成されて、いわゆる「魔境」の境地に入るということがあるが、その辺も気を付けないと、黙想・静修に飲まれてしまうことになりかねない。
・あくまでも静修は、日常生活と自身の霊的進歩により、自分をよりよいもの、それは神様の意志に沿った生き方を実践できる存在にしていくための、ツールの一つ、というところか。
・付録1に比べて、だいぶ「神様への絶対的な寄り頼み」という考え方を感じる文章になっているように思う。同じ人が書いたのか、はたまたパート分けで執筆したのかはわからないけど。