第一静修 第三黙想 被造物の目的とその正用(1)
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第三黙想 被造物の目的とその正用
聖イグナシウスは、人の究極目的を述べた後、進んで言ふ。「地上の万物は人のために造られたるものにして、人を助けその創造されし目的を成就せしめんがためなり。」
序想一 神は、無限の智と愛とを以て、御経倫の中に万物を置き、之を個人各々の霊魂の益となし給ふ。
序想二 万物は皆、神の栄光と、我が霊魂の聖化及び救ひのために用ゐらるゝやう祈る。
一 万物の造られし目的
聖イグナシウスの言ふ被造物、「地上に於ける人類以外の諸有」とは、唯、通
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常言はれる世の万物、即ち、生無生に拘らず、可見界のあらゆる物象を意味するのみでなく、夫と共に、世の凡ての出来事、事情、生活の状態と条件、神の凡ての御経倫、凡ての善悪苦楽等、我らの生活の環境を構成する一切であつて、実際上、人の個性及び神と区別すべき他のものを総称するのである。
神は一の苦悩をも造り給はなかつたが、罪によつて、人間の性質と社会とに侵入した混乱から、元来善であつた多くのものが、我らに対して悪となり、苦痛となつたのである。さりとて、猶、それらを神のものと言ふことが出来る。何となれば、それらは、神が世を経倫し給ふ新法則中に入れられ、神の御目的のために用ゐられて居るからである。それらは、我らの試練となり、訓練となる。それらは、我らを助けて、禁欲、服従、忍耐、信仰、その他幾多の徳を修業せしめるのである。
されば、斯く広く世を通観すれば、万物は人の為に造られ、人の必要、人の喜楽、人の教育、人の開発等に使役されて居る。更に、人を助けて、最後の目的への到達、即ち、神への愛と奉仕、霊魂の救ひ等に促進せしめて居るのである。
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この道理を引いて我自身を思ふ。我が生活上の一切の境遇、また、我が知ると知らざるとを問はず、我に関係して起る凡ての事件は、みな神の御計画中に存在して、我が造られた目的の成就のため、最善のものたり得るのである。凡ては、此の目的のために、神によつて設備され、支配されて居るのである。故に、若し賢明であつて忠順ならば、神が我がために案配し給ふところ――我が住居、生れた家庭と自分、我が務め来つた過去と現在の職業、技能、財産、朋友、その他神から授けられた我が特質、苦楽、困難、誘惑等――は皆神のもので、何れも聖意のまゝに我を助けて、神を愛し神に事へしめ、且、我が霊魂の救ひに至らしめるであらう。罪を除けば、我が心中と我が周囲に起ることは、一として、神の栄光と我が聖化のために用ゐられぬものはないのである。
若し、我さへ此の真理を信じて行ひ、万有を我が究極の目的に到達するための補助となるべき、神与の恩賜として受用するならば、それが我に与へる慰藉と満足、信頼と安全さは如何許りであらうか。我に選定の自由があつて、神以上になし得るならばなどゝ思ふは愚の極である。神の我に対する愛と、自分自身に対す
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る愛との相違は幾何であらう。我自身の完徳のために為し得る考案と、神が計画し給ふ完徳との相違は幾何であらうか。唯、神が定め給ふ訓練を信じて、自身を任せ献げ奉れば、神はその完徳へと必ず導き給ふのである。『神を愛する者、すなはち御旨【みむね】によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る』《ロマ書八。二八》のである。
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※慰藉=慰謝
==現代語訳案==(2020.09.29)
第三黙想 被造物の目的とその正しい用い方
聖イグナシウスは、人の究極の目的を述べた後、進んで言った。「地上にあるすべてのものは、人のために造られたものであって、人を助け、人が創造された目的を成就させるためのものである。」
序想一 神は無限の智と愛とをもって、その統治の中に全てのものを置き、これをそれぞれの人の魂の役に立つものとされた。
序想二 万物が皆、神の栄光のため、また、私の魂を聖なるものとし、救うために使われるよう祈る。
一 万物が造られた目的
聖イグナシウスが言う處の被造物、すなわち「地上における人類以外の様々なもの」とは、ただ、通常言われる世の万物、それは生きているいないにかかわらず、目に見える全てのものと現象を意味するだけでなく、それらを含めたこの世のすべての出来事、事情、生活の状態と境遇、神に依る全ての統治行為、すべての善悪・苦痛や快楽など、私たちの生活環境を形作る一切の物であり、実際には、人の個性や神と区別するべき他のものの総称である。
神は苦悩を一つたりともお造りにならなかったが、人が抱える罪のせいで人の性質と社会に混乱が生じてしまい、それによって、本来は善であった多くのものが、私たちに対して悪いものとなり、苦痛の原因となったのである。しかし、それでも、それらの苦悩は神のものということができる。なぜならば、それらは、神が世界を統治される新しい法則の中に組み込まれ、神の御目的のために用いられているからである。それらは私たちにとって試練となり、訓練のための機会となり、禁欲、服従、忍耐、信仰その他多くの徳目を修めるための一助となっている。
であれば、このように広く世界を見渡せば、全てのものは人のために造りだされ、人が必要とするから、人の喜びと楽しみのため、人を教え育むため、人の自発的な理解のために使われている。さらに言えば、人を助け、最後の目的へ到達するため、即ち、神への愛と奉仕、魂の救いを促しているのである。
この理論を引用して、私自身を考えたとき、私の生活を構成するすべての状況、私が知っていることも知らないことも含めた私に関係して起きているすべての事柄は、全て神の御計画の中に存在し、私が造られた目的を成就させるため、最善のものであると言える。全ては、この目的のために神によって備えられ、支配されている。神が私のために用意してくださるもの――住居、生れた家庭と私自身、これまでの務めと今の仕事、持っている技能、財産、友人関係、その他神から授けられた私の性質、また苦楽、困難、誘惑など――はすべて神のものであるから、もし神に対して賢明であり、忠順であるならば、それらはいずれもみ心のままに私を助けるための働きをし、私に神を愛させ、奉仕させ、かつ、私の魂の救いに到達させるだろう。罪を除けば、私の心の中と、私を取り巻く環境の中で発生する物事のうち、神の栄光のため、私が聖なるものになるための働きに用いられないものは何一つとしてないのである。
もし、私さえこの真理を信じて実践し、全ての物を私の究極の目的達成のための助けとなる、神から与えられた賜物として受け入れるならば、それが私に与える慰めと満足、信頼と安全はどれほどだろう。私には選ぶ自由があり、神以上のことをすることができると思うのは愚かさの極みである。神の私への愛と、私が持つ自分自身に対する愛の違いはなんだろうか。ただ、神が定めた訓練を信じて、自分自身を神に委ね、お捧げすれば、神は、人が目指すべき完全に必ず導いてくださる。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知ってい』《ロマ8:28》るからである。
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ローマの信徒への手紙(8:28) 新共同訳
28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
”完徳”は、辞書によるとローマカトリックの用語で、人がなるべき完全なものという意味らしい。
たびたび出てくる”訓練”という言葉がちょっと引っかかっている。
語義の通り行けば、慣れさせることで練習させることだが、
何かちょっとニュアンスが異なるような。
でも”練習”とも違うし、”実践”にしてしまうと育てるという語義が表現できないし。
ことばは難しい。
日本の100年も経っていない時代の言葉を現代の言葉にするにもこんなに悩むのであれば、
当時、ネットもなく、辞書の類も十分でなかったであろう、時代に英語の原著を取り寄せて、
頭を悩ませながら翻訳したのだろうとつくづく実感する。