第一静修 第三黙想 被造物の目的とその正用(2)
==P33==
二 万物の正用
万物は、唯、神の意志に従ひ、之を正用してこそ我が助けとなるが、之を逆用すれば我の滅亡となるのみである。聖イグナシウスはその正用法を教へる。「我が究極の目的に到達するため、輔益する限り万物を用ゐ、妨害とならば我自身之より避く」と。されば、万物に対して正当な態度は二つある。即ち之を用ひることと避けることである。
一、目的到達に益となる限り之を用ひること
或るものは我が生存のために必要である。即ち、食物、住居、衣服、睡眠等で
///P34///
ある。此らは、目的の達成に益となる程度に於て、用ゐねばならぬ。それを超えるならば、益となる代りに妨害となる。捕へられると、飲食欲は酔漢を生み、金銭は守銭奴を育むに至るのである。
或る事物は、多少自己の選定に任せられてある。即ち、生活状態、独身、妻帯、聖職、修士生活、諸種の職業等である。或は、財産、栄誉、成功等、自己の努力によつて得られるものもある。考慮すべきは此ら凡ての見方であつて、それは我が究極の目的としてゞなく、其への方法として用具とすべきであるといふことである。従つて、先ず其が我をして神を愛させしめ、我が霊魂の救ひに至らしめるため、如何なる程度まで補助となり或は妨害となるかを考慮してから、之を選定せねばならぬ。
二、我が妨害となる限り之を避けること。
自身の経験が教える。如何なる事物――友人、歓楽、場所、書物――も神への愛と奉仕とを妨害する。我は此らから避けねばならぬ。全然、もしくは或る程度まで、神と我との隔離となる場合には之を捨てねばならぬ。斯くするは、真実に之
///P35///
を我が目的到達のために用ゐるのである。且、それは神への愛と服従の行為となり、更に、それなくしてはイエス・キリストの弟子たること能わぬ自己放棄を実践する機会となるのである。
我は幾度此らの諸法則に無知であり、又は之を忘却して居たであらうか。万の事物を神への愛と奉仕、及び我が霊魂の救済に益する用具とせず、之を我が究極の目的と考へ、単に我が歓楽の為に之を求望し、『造物主【つくりぬし】を措きて造られたる物を排し』《ロマ書一。二五》たこと、抑も幾度であつたであらう。
三 捕はれぬこと
万物を正用し、専一に之を我が真目的への方法とするには、之に対して無執着とならねばならぬ。
然しながら、或る事物に対して求望を感ぜず、また委縮するといふのではない。事物に対して起る自然の感情を抑制し、支配して、常に神意如何を選定し、之を実行し得る自由を妨げられぬことである。無執着とは無感覚のことではな
///P36///
い。超脱と克己である。即ち、我が造られた目的は、最も重要なものであつて如何なる事物と雖も、みな之に従属すべきである。斯く行はれるとき、万物を我が目的達成の補益となる限りに於て用ゐ、有害となる場合は、自身之より避けるか、或は之を斥けるか、或は更に之なくしても満足出来るやうになる。何となれば、仮令事物が我が心を惹くとも、それ以上に高貴な或るもの――神の愛と我が霊魂の救ひと――が我が前にあるからである。
此の無執着または超脱が必要な理由は――
一、神の統治権のため。万有は神に属する。我は之を、我がためでなく、神の聖意又は御目的のために用ゐねばならぬ。我は此が主ではない。一介の番頭に過ぎぬ。何日かその清算をせねばならぬのである。
二、神の経倫のため。神は我の聖化を望み、且、之が進歩のための最善を我よりも更によく知り給ふ。《テサロニケ前書四。三》 神が我に遣はし給ふものを拒否し、我がために設け給ふ途を離れることは、神が我がために立て給ふ凡ての愛の御目的を空しからしめるのである。故に、我が意志は神の御意志と常に一致せねばならぬ。
///P37///
三、我が救ひのため。我が内外より、わが救ひを脅迫する凡てのものは、之を一つに要約することができる。即ち、夫は事物の悪用である。無私は之を正しく用ひさせるであらう。
されば、無私となり、諸物を我が欲するまゝに用ゐず、神意に従つて用ゐねばならぬ。之には相当の時間と自己鞭撻を要する。我が意志を、幾度となく、神意へと靡かせ、遂に神の欲し給ふところのみが我が欲るとすころとならねばならぬ。斯くして、我は万物を正用するを得、之を我が究極の目的――神への愛と奉仕と我が救霊――の用具とすることが出来るであらう。
第三巻 第二十六章。第二十七章。第二十八章。
=====
”我が欲るとすころ”は原文ママ。多分誤植。
==現代語訳案==(2020.9.28)
二 万物の正用
万物はただ神の意志に従って、それを正しく用いてこそ、私の助けとなるが、これを逆に用いることがあれば、私は滅亡するだけである。聖イグナシウスは、この正しい用い方について「私の究極の目的に到達するため、私を助け、益となるものであればそれを自分のために用い、妨害となるものであれば私から避ける」と教えている。それを踏まえれば、総てのものに対して、とるべき態度は2種類あるといえる。それは、これを自分のために用いること、もう一つは避けることである。
一、目的到達のために、自分の役に立つものである限りそれを使うこと
或るものは、私が生存するために必要である。それは、食べ物、住む場所、着るもの、睡眠などである。
これらのものは、目的の達成に利益がある程度において用いる必要がある。有用なレベルを超えてしまうと、その代わりに霊的な妨害となってしまう。それらに捕らわれると、飲食への欲望は酔っ払いを生み出し、金銭は守銭奴を育てることになる。
全ての事物の中で、多少のものについては、自身による選定が認めらえている。それは、生活の状態や独身・妻帯の別、聖職か修道者の別、様々な職業などである。それ以外にも、財産、栄誉、成功など、自分の努力で手に入れられるものもある。考えなくてはならないのは、これらすべてに対してどのような見方をするかであり、それは、私の究極の目的としてでなく、そのための方法・道具として使うべきだという点である。そのため、まずそれらが、私が神を愛するようにさせ、私の霊的な救いについて、どの程度役に立ち、あるいは妨げになるかを考え、それらの中から選び取らなくてはならない。
二、私にとって妨げとなるのであれば、それを避けること
自らの経験に基けば、どのようなもの――例えば友人、楽しみ、場所、書物――であっても、神への愛と奉仕の妨げとなり得る。私たちはそれら妨げとなる事象を避けるようにしなくてはならない。神と私とを隔てさせる要因となる場合には、ある程度または完全にそれを捨てなければならない。そのようにするのは、真に、それらの自称を私の目的達成のために用いるためである。
妨げとなるものを避けることは、神への愛と服従の行為であり、更には、それなくしてはイエス・キリストの弟子であることが出来ない自分から脱却する機会になる。
私はこれまでどれだけ、これらの法則を知らずに過ごし、または忘れていたのだろうか。全てのものを神への愛と奉仕、そして私の魂の救済に役立てるための手段として認識できず、それを目的と取り違え、単なる自身の歓楽のために求めてきた。『神の真理を偽りに替え』《ロマ1:25》たことは何度もあっただろう。
三 とらわれないこと
全ての物を正しく用いて、一心にそれを自分の真の目的のための方法とするには、それらに対して執着しないようにならなくてはならない。
しかしながら、それはある事柄を望んだり、求めたりせず、または何もしないようにと委縮することとは異なる。物事に対して湧き上がる自然な感情を抑え、コントロールしながら、常に神の御意思が何であるかを選び取り、それを実行するという自由を妨げられないようにすることである。無執着とは、無感覚のことではない。執着心を超えてそれを脱することであり、克己、自らの感情を制御することである。それは、私が造られた目的は、最重要点であり、どのような事物といっても、すべてはその目的に沿っている必要がある。このように実践されるとき、全ての物を我が目的達成を助け、役に立つのであれば用いる。有害である場合は、自らそれを避けたり、退けたりするか、あるいはそれらがなくても満足ができるようになることだ。そのようになれば、たとえ物事が自分の心をひきつけたとしても、それ以上に高貴なもの――神の愛と自身の魂の救済――が自分の目の前にあるようになるからである。
この無執着または超脱が必要となる理由は、次の3点にある。
一、神の統治権のため 全ての形あるものは神に属している。私はこれらのものを、自分の為でなく、神のみ心又は御目的のために用いなくてはならない。私はそれらの物の所有者ではない。一介の管理人に過ぎない。いつの日か、管理していたものの清算をする日が来る。
二、神の御統治のため。神は、私が聖なるものとなることを望み、且つ、それが進歩するための最善の方法を、私よりもさらによく知っている。《1テサ4:3》神が私に乙川氏になるものを拒み、私のために設けてくださった道を離れることは、神が私のために立ててくださった愛の目的のすべてを空虚なものにしてしまう。そのため、私の意思は、神の御意思と常に一致させなくてはならない。
三、私の救いのため。私の内外にある私への救いを脅かす全てのものは、それを一つに要約することができる。つまり、それは物事の悪用である。私心を取り払うことで、それを正しく用いることができるようになるだろう。
そのためには、私は無私の存在となり、様々な物事を自分の欲の赴くままに用いることをせず、神のみ心に従って持ち要らなくてはならない。これには相当の時間と自己鞭撻が必要となる。私の意思を何度も神のみ心に向かわせ、最後には神の御望みになられることだけが、私が求めるものとさせなくてはならない。このようにして、私は万物を正用することが出来るようになり、それらのを私の究極の目的――神への愛と奉仕、そして私の霊的な救済――のための道具とすることができるだろう。
霊範 第三巻 第二十六章。第二十七章。第二十八章。
=====
繰り返し、私たちが生まれ出た目的「神への愛と奉仕、そして自身の魂の救済」が述べられている。
これを達成することで、永遠の命などへの道が開かれるため、地上の何をおいても優先すべき、
という趣旨である。
ペトロ兄弟ら4名が、イエス様に誘われるがままに船や家族をそのままにして従った場面、
弟子になりたいが、その前に家族の葬式が…、畑のことが…といった人の逸話が思い浮かぶ。
●テサロニケの信徒への手紙一(4:3)新共同訳
2盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。 3人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。 4しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
上記部分は何かが引用されているが、ずばりな文言がない。
●ローマの信徒への手紙(1:25)
新共同訳:24そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 25神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 26それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 27同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。