第一静修 第二黙想 我が創造されし目的
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「人は、主なる神を崇め、また事へ奉るために創造されたのであつて、斯くして自己の霊魂も救はれるのである。」
序想一 我は聖主の御前にあるを想ひ、主を崇めまつる。
序想二 我が創造された目的を知り、常に之を心に置き、之に応じて生活し得るやう恩恵を乞ひ求む。
一 神は我が創造主
一、百年以前、我は何処に、そして如何にあつたか。 若し想像を往昔に遡れば、そこに人口増加しつゝある世界、我が郷土、我が生家などを幻出する。然し、我は何処に如何にして居たか。考へれば、我は無であった。一塊の石、一片の
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草葉よりも無であつた。彼らは少なくともありはあつたが、我は一切無であつた。
二、しかしながら今我は存在して居る。 住むに處あり、世の中の美事や快楽を味ひ、社会と種々の関係がある。此の存在たるや何処から来たか。我自身からか。否。我はどうすることも出来なかつた。自己の存否如何に就いての意見を尋ねられなかつた。さらば、偶然か。決してさうではない。わが両親か。否。彼らは、神が我が出生のために用い給うた仲介の器に過ぎない。結局、神こそが我が存在の本源である。我は神から出て来たのである。『爾【なんぢ】の手われをいとなみ我をことごとく作れり。』《ヨブ記一〇。八》主は虚無から我を呼び出し、我が在る如く造り給うたのである。
三、そして考へて見れば――
神は純愛から我を造り給うた。 神に於ては我を要し給はなかつた。神の無限な御喜悦、御満足のため、我を必要とし給はなかつたが、神の御寿楽に与らせんための御慈愛から、我を存在へと呼び出し給うたのである。故に、愛が我が被造の主なる原因である。
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我を創造し給うた聖意は、永遠の昔からあり給うた。 永遠の太古から、神は我を御心に置き、時到らば造り給はんとの思召しであつた。出生以前から、我は神の意図の中に存在して居たのである。
神は特殊の愛と御目的から我を創造し給うた。 神は我に、充たすべき特別の場所、為すべき特別の働き、果たすべき特別の愛の奉謝を予期し給ふのである。若し、それを斥けるか、又は受け得ないなら、神は我の代りに、充たすべき他の人を造り給ふに相違ない。
神は、我を被造物中高貴なものとして造り給うた。御姿に肖せて、天使よりも高くあるべきものとして造り給うたのである。
神は我を造り、且、時々刻々わが生命を支持し給うて居る。『我らは神のみに生き、動き、また在るなり』。《使徒行伝一七.二八》若し神が生命支持の御力を止め給ふならば、我は忽ち元来の虚無にかへらなばならぬ。
二 神はご自身のために我を創造し給うた
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一、神は霊智に在すから、或る御目的があつて、我を造り給ひ、その御目的は、ご自身之を認めて居給ふに相違ない。神は御自身のため――神を知り、愛し、此世では神に奉仕し、来世では神と偕に無限の幸福に到達するため――以外に我を造り給うたのではない。
二、我が内外の一切がそれを保証する。
我が信仰。神は万物を御自身のために造り給うたと信ずる。『万の物は――皆彼によりて造られ、彼のために造られたればなり。』《コロサイ書一。一六》故に第一の大いなる戒は恁うである。『なんぢ心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし。』《聖ルカ伝一〇。二七》
我が理性と我が心情。人間の諸才能と、それらの目的となるものの間には、何かの呼応があるべきだと思はれ、又さう感ぜられる。唯々人の心情が切望するのは、無限の完全と愛であつて、これら神が人身に植えつけ給うた欲求は、真、善美、神の愛等以外に、之を満足させるものがない。「神は御自身のために我を造り給へり。神よ。我が心は爾にありて息ふまでは悶ゆるなり。」《聖アウガスチン》
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森羅万象。我を囲む世上一切のものは、その不完全によってその有為転変によつて、その果敢ない有様によつて、我を満足させるには余りに貧弱であり、不確実であることを物語る。『世と世の欲とは過ぎ行く』。《ヨハネ第一書二。一七》空の空なるかなと、果敢ない万象の上に記されている。
我が経験。神を我が目的としたとき、神への愛と奉仕を求めたとき、我が心は平安に満たされた。他方、我意と罪にさ迷うたとき、我が心には不安と呵責の外何もなかつた。『悪者【あしきもの】はなみだつ海の如し、静かなること能はずして、その水つねに濁【にごり】と泥【ひじ】とをいだせり。わが神いひたまはく、悪しき者には平安【やすき】あることなしと。』《イザヤ書五七。二〇、二一》
三 愛神と神への奉仕
一、必要なる唯一のこと。 之に比較すれば、他は皆重大でない。富貴、名誉、財産、成功、社会的名誉、地位、一つとして欠くべからざるものでない。我が目的は斯かるものに依立して居らぬ。我は斯かるものなしにも、神を愛し、神に仕
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へ、我が霊魂を救ふことが出来る。現世生活に於てすら、是等は真実の平安と幸福の根本ではない。
二、生活を高尚にし、真実の自由を与ふる唯一のこと。若し我自身、又は何か他の被造物を我が目的とするならば、それは我が真価を落し、自己又は被造物の奴隷となることである。我を偉大ならしめるものは、被造物の中に発見されるのでなく、我と神及び永遠の事物との関係に於てゞある。神を我が目的として神に奉仕する――「主に事ふるは是れ全き自由なり」--茲に我が偉大さがあり、茲に真実の自由がある。
三、真実に幸福ならしむる唯一のこと。神を愛し、神に奉仕するとき、現世に於て真の幸福を味ふであらう。我が心は満ち足り、我が良心は息ふであらう。神は凡てのこと相働きて我が益とならしめ給ふであらう。《ロマ書八。二八》そして、我は神と偕に在り、今後永遠に幸福であらう。神は我の『甚大【はなはだおほひ】なる賚【たまもの】』となるであらう。《創世記十五。一》
四、我が選ぶべきもの。 一を採れば、今生に於て我が真の幸福があり、後、天に於て大歓喜がある。二を取れば、左右に動揺して定りなく、希望満たされず、
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良心悩み、そして、現世一切の不安不満は、失敗して永久その目的に到達出来ぬ我が霊魂の、無限苦の前兆となるでなるであらう。
かくて、我が創造された目的を思ふ。神は我が起源である。我は神に由来するのである。神は我が行くべき最後の目的である。我は神のために造られた。神を知り、神を愛し、神に仕へるために造られた。この神への愛と奉仕こそ、我に必要な唯一のものである。
思へ。如何に実行せば、我が創造された此の目的を成就し得るであらうか。神と離れまじとせば、何と離別すべきか。我に対する神の大愛に応答し奉らんとせば、何を愛すべきであらうか。
我が神よ。我は我がものならず、唯爾のものなり。御自らのために我を取り去り、我をして万事に於て主の聖意を為さしめ給へ。ああ我が神よ。我をこの儘主に献げ奉る。喜びにつけ悲しみにつけ。健康にまれ不健康にまれ。生に於ても死に於ても。寸時にも永遠にも。我を爾のものとなし給へ、而して永遠に保ち給へ。我らの主イエス・キリストに依りて冀ひ奉る アァメン
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聖範 第三巻 第九章。第十章。
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==現代語訳案==(2020.9.28)
「人は、主なる神を崇め、またお仕えするために創造されたのであり、そうすることによって魂も救われるのである。」
序想一 私は聖なる主の御前にあることを覚え、主を崇めます。
序想二 私は、私が創造された目的を知り、いつでもそれを心にとどめ、それに従って生活できるように神の恵みを乞い求める。
一 神は我が創造主
一、今から百年前、私はどこに、またどのようにして存在していたか。 もしそう問われて記憶を辿れば、そこには人口が増えていく世界、私のふるさと、私が生まれた家などが思い浮かぶ。しかし、私はどこに、どのようにして存在して居ただろうか。考えてみれば、私は無であった。石ころ一つ、あるいは草の葉一枚よりも無だった。石ころや草は少なくとも当時存在していただろう。しかし、私は全くの無であった。
二、しかし、今私は存在している。 住む場所があり、世の中にある美や快楽を手に入れ、社会の中にあるものと様々な関係を持っている。私という存在はどこからやってきたのか。私自身からか。そうではない。私は、自分の存在の是非について、何の意見も求められることはなかったため、どうすることもできなかった。
であれば、私は偶然生まれたのか。決してそうではない。私の両親が私を生んだのか。違う。彼らは、神が私を生み出すために用いた仲介の器に過ぎない。
結局のところ、神こそが私という存在の根源である。私は神から出てきたのだ。『あなたの手が私をかたどり、私を造られました。』《ヨブ10:8》主は虚無から私を呼び寄せ、私が存在できるようにお造りくださった。
三、そして、考えてみれば――
神は純粋な愛情によって私を造られた。 神は、必要に迫られて私を造ったのではない。神の限りない喜びと御満足のために私は必要ではなかったにもかかわらず、その慈悲の御心により、神による喜びと楽しみをお与えくださるために、私を存在する者へと呼び寄せてくださったのである。つまり、私が生み出された原因は、神の愛なのである。
他方、私を創造された聖なる御心は、永遠の昔から存在されていた。 永遠の太古の昔から存在していた神は、その時が来たらこの世に生み出そうと、私を心に留めてくださっていた。私はこの世に生まれる前から、ずっと神の御心の中に存在していたのだ。
神は特別な愛と、目的により、私を創造してくださった。神は私が充足できる特別な場所を、行うべき特別な役割を、果たすべき特別な愛による感謝を予定されていたのである。もし、私がそれを拒むようであったり、それにふさわしくなかったりしていれば、神は私の代わりに、それらを満たすことのできる別の誰かを作ったに違いない。
神は、私を被造物の中でも高貴なものとして創造してくださった。神の尊いお姿と同じように、天使たちよりも高くあるべき存在としてお造りくださったのである。
神は私を造られただけでなく、今も絶えることなく私の生命を保ち続けてくださっている。『我らは神の中に生き、動き、存在する』《使徒17:28》もし、神が私の命を支えてくださっている御力をお止めになられれば、私はすぐに本来そうであったように虚無に還らなくてはならない。
二 神はご自身のために私をお造りになられた
一、神は深遠なる智そのものであられるため、ある目的をもって私をお造りになられた。その目的については、神御自身がおわかりであることは間違いない。神はご自身のため――神を知り、愛し、この世にあっては神に仕え、来世には神と共に無限の幸福に至らせるため――以外に私を造られたのではない。
二、私を形作る内面・外見のすべてがそれを証明している
私の信仰では、神は万物を御自分のために造られたと信じている。『万物は御子によって、御子のために造られました。』《1コロ1:16》そのため、一番大切な戒めはこうです。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』《ルカ10:27》
私の理性と私の感情。人間のさまざまな才能と、それらの目的になるものの間には、何らかの対応があるべきだと考えられるし、感覚的にもそれはもっともなことだと思う。人の心が唯一切望するのは、限りない完全と愛である。これらの欲求は神が人の心に植え付けたものであり、真実、美しい善なるもの、神の愛などでしか満足させることが出来ない。「神は御自身のために私をお造りになられた。神よ、私の心はあなたとともに憩うときまで悶える。」《聖アウグスティヌス》
森羅万象、私を取り巻く世間のすべての物は、不完全で移ろいやすく、儚く、私を満足させるには余りに貧弱であり、不確実であると伝えている。『世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。』《1ヨハ2:17》 空虚の中の空虚であると、儚いあらゆるもののに記されている。
私の経験。神を私が存在する目的としたとき、神への愛と奉仕をしようとすれば、私の心は平安に満たされた。一方で、自分の考えと罪にさ迷ったとき、私の心は不安と呵責以外に何もなかった。『神に逆らう者は巻き上がる海のようで 静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。神に逆らう者に平和はないと わたしの神は言われる。』《イザ57:20-21》
三 神を愛することと神への奉仕
一、必要な唯一のこと。 これに比べれば、他のことはみな重大なことではない。富貴、名誉、財産、成功、社会的名誉、地位、どれをとっても、必須のものではない。私の目的はこのようなものに依存してはいない。私はこのようなものがなくても、神を愛し、神にお仕えし、私の魂を救うことが出来る。現世での生活においても、これらのことは真実の安らぎや幸福の根本的な部分にはあたらない。
二、私の生活を高尚なものとし、真実の自由を与える唯一のこととは何か。もし、私が自分自身やほかの被造物を私の生きる目的とするならば、それにより私はその真価を落し、自分自身や被造物の奴隷となるだろう。私を優れたものとしている理由は被造物の中から見つかるものでなく、私と神、そして永遠である事柄の関係にある。神を私が生きる目的とし、神に奉仕する。--「主にお仕えするのは、すべて私の自由意思によることである」--ここが、私が優れている点であり、ここに本当の意味での自由がある。
三、私が真実に幸福になるための唯一のこと。神を愛し、神に奉仕するとき、この世における真の幸福を味わうことができるだろう。私の心は満ち足り、私の良心は憩いのときを過ごすだろう。神は全てのことがうまく機能し、私の役に立つようにしてくださるだろう。《ロマ8:28》そして、私は神と共にあり、今後永遠に幸福な時を過ごす。神は私の「非常に大きな報い」《創15:1》となるだろう。
四、私が選ぶべきもの。一方をとれば、現在の人生の中で、私に真の幸福が与えられ、その後も天国において大きな喜びがある。しかしもう一方をとれば、心は揺れ動いて定まらず、希望は満たされることなく、良心は悩みの中にあって、この世のすべての不安と不満、失敗にして永久にその目的に到達することが出来ない私の魂が受ける無限の苦悩の前兆になるだろう。
そうして私は、私が神によって創造された目的を思う。私という存在は元来に神によるものだったのだ。神は私のはじまりとすべての源であり、同時に私が向かうべき最後の目的でもある。私は神により造られた。神を知り、神を愛し、神にお仕えするために造られた。この神への愛と奉仕こそ、私に必要な唯一つのものではないか。
想像してみなさい。どのような行いによれば、私が生み出されたこの目的を成就させることが出来るだろうか。神と離れないようにするのであれば、私は何から離れるべきなのか。私に向けてくださる神の大いなる愛にお応えしようとするならば、私は何を愛すればよいのだろか。
私の神よ。私は私の物ではありません。ただ一人、あなたのものです。あなたのために私を取り去り、私がすべてのことについて、あなたの御心の通り行うことが出来るようにしてください。ああ私の神よ、ありのままの私を主にお捧げいたします。うれしいときも、悲しいときも、健康なときも、病のときであっても、生きるているときも、死に臨んでも、少しの時間も永遠の時も、私をあなたのものとし、私を永遠にあなたとともにいさせてください。私たちの主、イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
聖範 第三巻 第九章。第十章。
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極めて長かったけれども、この章は熱い。
先の第一黙想のテンションの低さに比べて、急にどうした、と思うくらい。
最後の怒涛の如きあたりはだいぶ熱がこもってしまった。
第一静修の第2黙想にして、神への愛全開である。
もし生きることに希望を失いつつあるような人がいるなら、ぜひ読んでもらいたい。
「なんで自分なんかが生きているんだ。自分なんか生まれてこなければよかった」と思うとき、
「何言ってんの、神様があんたに生まれてほしいと思わなきゃ、あんたはこの世にいなかった。
神は全能だから、別に人を造らなくてもいいし、作るにしても誰でも良いなら、別の人を作っていた。
でも、あなたは生まれて、ここまで育ち、生きてこれた。
それは神様が、ほかならぬ、あなたに生きてほしいと思っているからだよ。
あなたじゃなきゃダメだった、あなただから必要とされているんだ。」
と言ってもらえたらどれほど救いになるだろうか。
《ヨブ10:8》
新改訳の方がおさまりが良いので、そちらを用いた。
新改訳『あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに私を滅ぼし尽そうとされます。』
共同訳『御手をもってわたしを形づくってくださったのに あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも わたしをも、呑み込んでしまわれる。』
KJV『 Thine hands have made me and fashioned me together round about; yet thou dost destroy me.』
NKJV『Your hands have made me and fashioned me, An intricate unity; Yet You would destroy me.』
●使徒言行録17:28 新共同訳
26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 28皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
●コロサイの信徒への手紙一1:16 新共同訳
16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
●ルカ10:27 新共同訳
26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
●ヨハネの第一の手紙2:17 新共同訳
15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 16なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
●イザヤ書 57:20-21 新共同訳
20神に逆らう者は巻き上がる海のようで 静めることはできない。 その水は泥や土を巻き上げる。
21神に逆らう者に平和はないと わたしの神は言われる。
●ローマの信徒への手紙8:28 新共同訳
28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
●創世記15:1
新共同訳 1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
●”息ふ”は何かと思ったが、”憩う”の語源のようである。
”息う”(一息つく、休憩する)から派生して、寛ぐ、のような意味が生まれ、
口に係る舌が加わって”憩ふ”という言葉が生まれた。奈良時代の万葉集にすでに用例がある。
万葉集1巻79 大王のために宮を作った人、川を船で行く際に、寒い夜でも休まずに通って…というくだり。
磐床等 川之<水>凝 冷夜乎 息言無久 通乍(磐床と川の氷凝り、寒き夜 をいこふことなく通ひつつ)