第一静修 第六黙想 神の御寛容と御憐み
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第六黙想 神の御寛容と御憐み
序想一 神の至聖、至高、権能及び罪に対する御嫌悪を想ふ。そして、神が我に対する長き御忍耐を驚嘆すべきである。天使は唯一度罪を犯したのであつたが、忽ちその瞬間に、彼らの刑罰は来り、それが永遠となつた。抑々、我は幾度罪を犯したであらう。而も神はそれを忍び、今も猶耐えて居給うのである。
序想二 神が我に対する寛容と忍耐を感謝し、進んでこれを無為にせぬやう祈る。
一 神の御忍耐と御寛容
一、此の聖徳のみは、推量することが出来る。我が内面の経歴を知るものは、我の外誰もない。――積る恩恵と。それと反対に重なる罪。屡々繰り返へされる赦
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罪と、それに拘らず度々の重犯と反逆。細やかな神の愛と、それに引かへて我が冷淡なる奉仕。而かも猶、神は我を忍び給ひ、実を結ばぬ果実を伐り倒さずに居給うたのである。
二、更に考へて見る。我はまだ此の地上に居る。未だ教会に属して居る。未だ恩恵の方法と、天の希望が残されてある。然るに他方、或は我よりも罪過少ない多くの者が、既に地獄に陥つて居るのである。神は未だ余命を与へ、我が心情に、良心に、尊き霊感を以て触れ給ひ、現在、此處に、此の静修の機会を授け給うたのである。
三、全体、此は如何なる理由であらうか。惟ふに、神が視給ふ處は、唯、現在有のままの我ではなく、上達し得る我としてである。我が奥底にある、多分我乍ら知らぬ、洗礼の際与へられたキリストの生命を視給うて居るのであらう。それは全く忘れられてゐた。多くの罪で傷つけられた。然し猶、我に対する神の御経倫により、成長発達の希望が残つて居るのである。
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二 神の尋求的愛
第一の働きかけは神からであつて、御父の聖心から出る、普遍的愛から起るのである。『それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり』≪ヨハネ伝三。一六≫。 『愛といふは、我ら神を愛せしにあらず。神われらを愛し、その子を遣はして我らの罪のために宥【なだめ】の供【そなへ】物となし給ひし是なり。』≪ヨハネ第一書四。一〇≫ 『然【さ】れど我らがなほ罪人たりし時、キリストは我らのために死に給ひしに由りて、神は我らに対する愛をあらはし給へり。』≪ロマ書五。八≫
視よ、此の愛は主キリストにより、主の聖心の愛により現はされた。『それ人の子の来れるは、失せたる者を尋ねて救はん為なり。』≪ルカ伝一九。一〇≫
神は、一匹の迷へる羊をも『見出すまで』≪ルカ伝一五。四≫ 追求する。善き牧羊者であり給ふ。その羊は我自身である。我らは常に主イエスから離れ、罪悪の邪道に彷徨する。それは主知り給ふ。そして聖心は我が悲惨と危険とに動かされ給ふ。主は、一瞬の遅延もなく、我を尋ね求め給ふ。我らが心に生ずる呵責、後悔、悔改めと告解の念、是らは我を呼びかへさうとし給ふ神の御声である。
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『往きて失せたる者を見出だすまで……。』 此の『往きて』とは何を意味するか。天より降つて我らの性をとり給ひしこと、地上の御生涯中経給うた、あらゆる御働きと御悲しみ、十字架上の御受難と死、等がそれである『見出だすまで』 主は決して尋求を止め給はぬ。そして御苦難をも辞し給はぬ。『終りまで』 我らを愛し給ふ。
彷徨し、失はれた各霊魂に対する聖心の愛は、今も尚変らぬ。更に、若し各霊魂のため主が必要と認め給はば、再び天より降り、新たに十字架に懸り給ふであらう。
想へ。主は罪人の一人一人を尋ね給ふ。サマリアの女、税吏マタイ、ザアカイ、主を否み後のペテロ。我が記憶中に存在するのみでも、如何に多くの方面から、主は我を尋求し給うたであらう。――恩寵が惹く強き力。地上の凡ての幸福よりも、心を満足させる神愛中に閃く静寂の光。祈祷、陪餐の時に与へられる霊魂の甘味。更に、熱誠を以て主を求めさせんとて、自身を隠し給ふこと。或は他方、我が良心を刺し、恐怖を起し、神に安住せぬ心の、憐れ果敢なさを悟らせ
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んとし給ふ――など。
此の静修に於て、主は如何に我を尋ね求めて居給ふかを熟考せねばならぬ。我は罪の中に流浪する者ではないか。主は我を悔悟へひきかへさんとて尋ね給うて居るのではないか。或は、その時代は最早や過ぎて、主は我を更に密接な愛の抱擁へ、更に親しい生命の結合に、招かうとし給ふのではないか。かく、神の追求的愛を黙想して次に進む――
三 主は喜びて悔恨者を迎へ給ふ
聖ルカ伝十五章に記載されてある、最初二個の比喩は、神の尋求的愛を顕し、その第三、放蕩児のものは、神の愛に応答して、ひとの心中に生起する悔恨の有様を示すものである。先づ、第一に現はされるのは、神の尋求的愛である。即ち、我らが神を尋ね始めるに先立ち、神が我らを尋求し居給ふに相違ない。我は今、該比喩の全体を考える必要はない。唯その後半、神が立ちかへる悔恨者を喜び迎へ給ふ部分のみで足りる。『我にかへりて……起ちて其の父のもとに
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往く。』 これ、我が改心であり、痛悔である。彼は来つて告悔し、彼の貧弱羞恥の凡てを示した。然し、彼が予期したことゝ事の実際との隔たりは幾許であらう。彼は一体どの様に迎へられるか知らなかつた。よしんば長く待たされたとしても、全体、再び家の敷居が跨げるかどうか。彼に対する父の慈顔は、昔日の如くあるかどうか、を知らなかつた。
恟々として、案じて居たと打つて変る彼の受け容れられ方。彼が未だ遥か遠くあるに、父は彼を見つけて走り来り、首を擁して接吻する。放蕩児は、頭を父の胸中に沈めて、告悔する。『父よ、我は天に対し又なんぢの前に罪を犯したり。今より汝の子と称へらるゝに相応【ふさわ】しからず。』 続けて言ふ、『雇人の一人の如く為し給へ』と。しかし、それは父の彼を遇する道ではない。父は直ちに僕婢に命ずる。『最上の衣を持来りて之を着せ、その手に指輪をはめ、其の足に靴をはかせよ。また肥えたる㸿を牽ききたりて屠れ、我ら食して楽しまん。この我が子、死にて復【また】生き、失せて復【また】得られたり。』 と。
斯く神は我が悔悟を温情を以て迎へ、忘却された宝物を再び明るみへ取り出し
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給ふ。最上又は第一の衣、洗礼の際与へられ、罪に由つて失ひ、赦罪に由つて快復された清浄と恩恵の白衣。指輪、それはキリストの新婦として結ばれた改心者の象徴。靴、それは何時たりとも神に奉仕出来る用意。『汝わが心を自由にし給はん。されば我なんぢの戒めの道をはしるべし。』 ≪詩編一一九。三二≫ 祝宴、それは聖餐の聖奠。凡て父の家にある者との会合、それは最早や呪はれた流浪者でなく、『聖徒と同じ国人また神の家族』とされたことを意味する。そして彼らは『我ら食して楽しまん』と歓喜する。之は他の二個の比喩の中に示されてある處の、天使を招来して歓喜を偕にすることに通ずる。『我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり。』 斯く我が悔恨は大なる意味があり、天に於て神と天使らの歓喜となるのである。
想へ。神の御寛容と御慈愛は斯くの如くである。感謝すべきではないか。有難い哉、我は今地獄に居らぬ。幾度も当然そこへ行くべきであつた。神は、猶、我が悔改めと恵の時を備へ給ふことを感謝せねばならぬ。亦、神の尋求的愛を感謝せねばならぬ。主は我が過去の生涯を通して尋ね給ひ、且、今も尚尋ね居給ふのである。
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斯くて、神は、悔悟して立かへる何人をも歓び迎へ給ふことを思ふ。確かに神は我が復帰を歓び迎へ給ふ。そして如何に聖慮を和げ給ふであらう。如何に喜び給ふであらう。如何に天に於て諸聖徒と天使たちが歓喜するであらう。
聖範 第二巻 第六章
第三巻 第八章
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==現代語訳案==(2020.10.7)
第六黙想 神の御寛容と御憐み
序想一 神が至聖・至高の存在であり、罪を嫌われることを想う。神が私にしてくださっている長い間のご忍耐は驚くべきものである。天使はただ一度罪を犯したその瞬間から永遠に及ぶ罰を受けた。一方、私は一度ならずどれほど罪を重ねているだろう。それでも神は堪え、今もなお耐えてくださっている。
序想二 私に対する神の寛容と忍耐に感謝し、これを無為にしないように祈る。
一 神の御忍耐と御寛容
一、神のなされることは人には到底はかり知ることができないが、この聖なる徳についてだけは、推し量ることができる。なぜなら、私が自分自身の中でしてきたことは、私の外に誰もいないからだ。――神からの恵は積っていくのに、一方で私は罪を重ねている。何度も神からの赦しを受けながら、それにも関わらず再び罪を犯し、反逆を繰り返している。細やかな神からの愛を受けながら、それに引き換え私がしているのは冷淡な奉仕でしかない。それでもなお、神は私について耐えてくださり、私という実を結ばない果樹を伐採せずにいてくださった。
二、更に考えれば、私はまだこの地上に存在できている。まだ教会に属している。私には、今も恵みを受ける方法と、天への希望が残されている。その一方で、私よりも少ない罪を負った多くの者が、すでに地獄に陥っている。神は私を延命させ、私の感情や良心に、尊い霊感をもって触れてくださり、今、この場所で、この静修の機会をお授けくださった。
三、これにはどのような理由があるというのだろう。私が思うに、神は、今のありのままの私だけでなく、将来向上することができる私をご覧になられているのではないだろうか。私の奥底にある、おそらく自分自身ですら気づいていない、洗礼のときにお与えくださったキリストの命をご覧になっているのだろう。それは、私にとって、すっかり忘れていたものであり、多くの罪によって傷つけられたものだが、それでも神による統治の御業により、私が成長・発達できるという希望が残っているのである。
二 神の尋求的愛
最初の働きかけは神から私たちへのものであり、父なる神のみ心から、普遍的な愛から発生している。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。』≪ヨハ3:16≫。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。』≪1ヨハ4:10≫ 『しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。』≪ロマ5:8≫
この愛は主であるキリストによって、主の聖心の愛により現実となった。『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』≪ルカ19:10≫
神は、一匹の迷える羊をも『見つけ出すまで』≪ルカ15:4≫ 追い求める。善き羊飼いであられる。主が探してくださっているその羊とは私自身である。私たちはいつでも主イエスから離れ、不正な罪悪の道にさ迷っており、主はそれを知っておられる。そして、私が悲惨な目に遭い、危険にさらされていることに心を動かされている。主は、ほんのわずかな時も遅れることなく、私を探し、求めてくださる。私たちが感じる呵責の念、後悔、悔改めと告悔の想い、それらは、私を御許に呼び戻そうとされている神の御声である。
『行って、見失った一匹を見つけ出すまで……』とあるが、この『行って』とは何を意味するのだろうか。それは、キリストが天から地上に下り、私たちと同じ人間の姿になられたこと、地上で過ごされた御生涯の中で果たされたあらゆる役割と、それによる御悲しみ、十字架上の御受難と死などである。『見つけ出すまで』主は決して探し求めることをおやめにならない。たとえそのために困難を伴うことになろうと投げ出すことなく、『最後まで』 私たちを愛してくださる。
放浪し、失われてしまったそれぞれの魂に対する神のみ心からの愛は、今も変わっていない。もし、主が必要と御認めになれば、それぞれの魂のために再び天から下り来て、新たに十字架にかけられることだろう。
思えば、主は罪人一人一人をお訪ねになられた。サマリアの女、徴税人マタイ、ザアカイ、主がご受難の中にあったときに、否認したペテロ。私が記憶するだけでも、どれほど多くの中から、主は私を探し求めてくださっていたことだろう。
――恩寵による強い力や地上にある全ての幸福よりも、私たちの心を満足させてくださる神の愛、その中に輝く静寂の光が勝る。主は祈りや陪餐によって魂の甘味を私たちに与え、人々が熱い真心をもって、主を求められるように、御自身の死に向かわれた。その一方で、私の良心を刺激し、罪への恐怖を引き起こし、神とともに安住しようとしない心がいかに哀れで儚いかを悟らせようとしてくださった――。
この静修の間、主はどのように私を尋ね、求めてくださっているかを熟考しなくてはならない。私は罪の中に流浪するものではないか。主は私を悔い改めの道へ引き返させようとして、そのような境遇においてくださっているのではないだろうか。あるいは、その段階はすでに過ぎ去り、主は私を更なる親密な愛の抱擁へ、更に親しい命としての結びつきにお招きくださっているのではないだろうか。そのように神の追求的愛を黙想しながら、次に進もう――
三 主は喜んで悔恨者をお迎えくださる
聖ルカによる福音書第15章に記されている3つの比喩のうち、最初の二つ(見失った羊、失くした銀貨のたとえ)は、神が私たちを尋ね求めてくださる愛についてのことであり、三番目の放蕩息子のたとえは、神の愛に応え、人の心の中に生れ出る悔恨の有様を示しているものだ。
まず最初に現れるのは、神による尋ね求める愛である。それは、私たちが神を探し求めるよりも先に、神が私たちをお求めになっているに違いない。今、その例え話の全体について考察する必要はない。その前半部のみ、神が立ち返る悔恨者を喜んでお迎えくださる部分だけで充分だ。『彼は我に返って言った…ここを立って父のところに行』こう、と。これが改心であり、痛悔である。彼は父のもとに来て、罪を告白し、彼自身が貧弱であり、恥ずべき存在であることを包み隠さず告白した。それが生み出した結果と、彼が予期していたこととの隔たりは一体どれほどだったろう。彼は、自分が一体どのように受け止められるかを知らなかった。うまくいったとしても、長く待たされ、家の敷居を再び跨ぐことはできないかもしれない。その昔、彼に向けてくれた父の優しい顔は、あの頃のままあるのだろうか、彼は知らなかった。
恐れ怯えながら心配していたのと全く異なる形で彼は受け入れられた。彼の父は、彼がまだ遠くにいたのにも関わらずそれを見つけ、走って行き、頭を抱いて接吻をした。放蕩息子は、頭を父の胸に沈めて、罪を告白した。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』 そして続けて言う『雇い人の一人にしてください』と。しかし、彼の父はそうはしなかった。
父は即座にしもべたちに『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と命じる。
これは、神が私の悔改めを温情をもって迎え、忘れていた宝物を再び日のあたる場所へ取り出してくださったということである。
"いちばん良い服"は、洗礼の時に与えられ、罪に由って失われていた清浄と恩恵の白衣を表す。赦罪によってそれが再びもたらされたのである。指輪は、私たちがキリストの花嫁として結ばれた、キリストへの回心者の象徴である。靴は、いつでも神に奉仕することが出来る用意を指す。『あなたはわたしの心を広くされた わたしはあなたの勧めの道を走る』≪詩編119:32≫ 祝いの宴とは聖餐の聖奠であり、父の家にある人々との会合に加わることは、この放蕩息子が、もはや呪われた流浪者ではなく『聖なる民に属する者、神の家族であ』る≪エフェ2:19≫ことを意味する。そして彼らは、『食べて祝おう』と歓喜する。これは、他の比喩の中にもみられる、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』のような天使を招き、喜びを共にすることにも通じる。このように、私が悔恨することは、天におられる神と天使らにとって大きな喜びとなるのである。
想像してみよう。神のご寛容とご慈愛とはこのようなものだ。私たちは感謝をすべきではないだろうか。ありがたいことに、私は今地獄にはいない。何度もそこに行かされても仕方のないようなことをした。それでも神が私に悔改めの機会と恵みの時を供えてくださっていることに感謝しなくてはならない。また、神の尋ね求める愛に感謝をしなくてはならない。主はわたしのこれまでの生涯を通じて私を探し求めてくださり、今もなお、私をお求めになってくださっている。
そして、神が悔悟して種に立ち返る全ての人を喜んでお迎えくださることを想う。確かに、神はわたしの改心を喜び迎えてくださる。そして、それによりどれだけお心を和らげられることだろう。どれほど喜んでくれるであろう。どれほど、天におられる諸聖徒、天使たちが喜んでくれることだろう。
聖範 第二巻 第六章
第三巻 第八章
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〇見失った羊や放蕩息子の例えは聖書の中の逸話としてもとても有名なものと思うが、何の気なしに読み飛ばしている箇所のようにも思う。このようにしっかりと受け止めると、大変読み応えのある箇所なのだなあと思う。
〇羊のくだりについて、筆者が強調している『行って』の部分については、日本語訳の聖書ではあまり強調されていない。『and go』がそれにあたるのだろうけど。或は、残りの1匹を見つけるまで”探し回る”や”探し歩く”と訳されている部分が 『after the one which is lost until he finds it』なので、この辺で表現しているのだろう、と思うが、原文をそのまま現代語にするにとどめた。
○続く『終わりまで』は、出展がどこか記載されていないが、『』で挟まれているので聖書からの引用だと思われる。
〇”サマリヤの女”は、ヨハネ福音書4章でイエスがサマリアのシカルという町で水を求めた6人目の夫を持つ女のことと思われる。善きサマリア人の例えにもあるように、当時のユダヤ世界では蛇蝎のごとく嫌われ、蔑まれていたらしいサマリア人だが、その中でも何人もの夫を持っていた彼女は、その経歴から、身内からも蔑まれていた様子。
イエスが「水をくれ」といったことに対して「なんでユダヤ人であるあなたが、私にそんなことをいうのよ」とは言ったものの、イエスが「私は乾くことない水である」などと話している途中で、その人がすごい人物であると確信し、「その水をください」といってイエスを偉大な人物であると周囲に伝えた。
〇”徴税人マタイ”は使徒聖マタイのことで、こちらも聖書内でたびたび出てくるローマの手先になった民衆の嫌われ者である徴税人の出身。ザアカイも同じく徴税人。(下記のルカ19章に出てくる)
■ ヨハネによる福音書(3:16)新共同訳
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
■ ヨハネの手紙1(4:10)新共同訳
9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
■ ローマの信徒への手紙(5:8)新共同訳
7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
■ ルカによる福音書(19:10)
8ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
■ ルカによる福音書(15:4)
新共同訳
1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
新改訳
4「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
Luke 15:4 NKJV
4 “What man of you, having a hundred sheep, if he loses one of them, does not leave the ninety-nine in the wilderness, and go after the one which is lost until he finds it?
■詩編(119:32)
文中は聖公会祈祷書の詩編による。
25 神よ、わたしの魂は塵に伏している|| み言葉のとおり、命を新たにしてください
26 わたしは歩んだ道を告げ、あなたは答えられた|| あなたのおきてを教えてください
27 あなたの定めの道を悟らせてください|| あなたの不思議なみ業を私は思い巡らす
28 わたしの魂は悲しみに打ちひしがれている|| み言葉のとおり、立ち会がらせてください
29 偽りの道を私から遠ざけ|| 教えを授けてください
30 わたしは真実の道を志し|| あなたの審きを心に収める
31 主よ、わたしを辱めないでください|| あなたの諭しをわたしは堅く守る
32 あなたはわたしの心を広くされた|| わたしはあなたの勧めの道を走る
新共同訳
25わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。
26わたしの道を申し述べます。わたしに答え、あなたの掟を教えてください。
27あなたの命令に従う道を見分けさせてください。わたしは驚くべき御業を歌います。
28わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。
29偽りの道をわたしから遠ざけ憐れんで、あなたの律法をお与えください。
30信仰の道をわたしは選び取りました あなたの裁きにかなうものとなりますように。
31主よ、あなたの定めにすがりつきます。 わたしを恥に落とさないでください。
32あなたによって心は広くされ わたしは戒めに従う道を走ります。
〇「それは最早や呪はれた流浪者でなく、『聖徒と同じ国人また神の家族』とされたことを意味する。」は、本文中ではどこからの引用とは書いてないが、下記からの引用と思われる。
■エフェソの信徒への手紙(2:19)
17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20使徒や預言者という土台の上に建てられています。