第一静修 第五黙想 大罪による霊魂の死
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第五黙想 大罪による霊魂の死
序想一 此の黙想を行つてゐるこの瞬間に、多分、我よりも僅少な罪過のために滅び行く霊魂が随分あるであらう。その中には唯一度の大罪のために、断罪される魂もあるであらう。
斯かる悲惨な魂の事を想ふ。彼は我と時代も同じく、境遇も殆ど同じであつた。然し、今彼の霊魂は亡ぶる者の中にある。それは唯一度の大罪の結果である。
序想二 願はくは主よ。よしや熾烈なる誘惑に直面するとも、爾【なんじ】を愛すべき事を忘れざらしめ給へ。少くとも、地獄の恐怖によりて大罪を免れしめ給へ。
一 罪過以前の霊魂
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曾ては、清浄にして何らの罪の穢れに染まなかつた。それは、彼が洗礼を受けた日である。神と聖天使たちの眼に映じた、その美しい姿よ。主イエスの血に洗はれて、聖霊が内住し給うた。彼に対する神の広大な愛を思はねばならぬ。彼が聖い生活への可能性は、凡て此の神的生命の種子中に含まれて居り、清浄聖化の恩恵はその中に植えられたのであつた。若し、この幼児がその時死去したならば、今も永遠に神と偕にあつたであらう。或は、若し彼が神与の恩恵中に生活し、之に忠実であつたならば、一個の清浄な霊魂となつて、更に大きな功徳と報賞に与つたであらう。惜しいかな、彼は大罪に陥り、それを、臨終に際して悔改せず、今や一個の亡ぶる霊魂となつたのである。
その霊魂の経歴を回顧して見よう。多分、幼少時代に洗礼の恩恵が与へられたであらう。学校時代は大罪もなく過ぎて、或る時は真実神を愛したであらう。信徒按手式、始めてのの告悔、陪餐など、それらの時のことを明【あり】々と記憶する。しかし、月日が重なるに従つて無頓着になり、祈祷を怠り、罪の危険から遠ざからず、誘惑に抵抗せず、時には自ら進んで行き、恩寵は弱められ、良心は鈍らされ
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た。斯る際、或種の致命的大誘惑が現はれ、彼の可憐な霊魂は之に同意し、之に陥つて仕舞つた。そして、悔改めることの出来なかつたその罪科を伴うて、永遠の世界に入り、今や彼は失はれた者の中に在るのである。
或は、その霊魂は違つた経歴を持つて居たとして見ようか。彼は久しく致命的罪習の中に生き、度々深く罪の底に沈んで居た。然し乍ら、神は一度ならず彼が邪道に陥る度毎に、痛悔の恩寵を授け給うた。幾度となく赦罪によつて彼を挽回し給うた。されど恩寵は濫用され、最後に再び戻らぬ堕落に陥り、その罪の中に死に、そして亡ぶるものとなつたのである。何れの霊魂と雖も、悔ひ改めと救ひのための恵みの時が与へられることは確実である。それにも拘はらず、罪の生活を続けるならば、終にはその罪が固着して、悔悛不可能の處まで行つて仕舞ふであらう。
二 今や彼の霊魂の状態如何
宜しやそれが、彼の臨終の際であつても、神の愛に縋つて悔ひ改めたなら、救
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はれもしたであらう。今や、彼が最高の目的、唯一の善美である。神の御前に在つて、神に属することを、永遠に禁ぜられたのである。
彼は聖き死者の中に加へられて、浄めと平和の世界に在り、何時か天界に於て、聖徒天使たちと偕に在ることができるのであつたらう。しかし、今や彼は、永久に悪魔や滅亡者と運命を共にせねばならぬであらう。彼は栄光を以て装はさるべきであつたが、『外の暗【くらき】に逐ひ出され』≪マタイ伝八。一二≫『恥辱を蒙りて限りなく羞る者』≪ダニエル書一二。二≫とされて居るのである。
彼は、得も云はれぬ恩愛と歓喜に満ちて居たであらうに、今や『蛆しなず』≪イザヤ書六六。四≫とある無限の悔恨に呵責せられ、悲歎絶望の淵に悶えねばならぬ。彼は永遠に天界に住み、彼の作り主であり、父であり、救ひ主であり、聖め主である神を、愛し祝し奉つていたであらうに、唯、神に対する呪ひと反逆とを以て、世々永遠に及ぶのである。
若し、此の霊魂にして神の恩恵に呼応し奉つたならば、彼が多くの罪業に拘らず、救はれて居たのであらう。赦罪、或はその前の心底からの痛悔は、神との親
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交を快復したであらう。マグダラのマリヤや聖ァウガスチン、其他多くの聖徒達の如く、彼の罪は之を赦し給うた神の至善と併せて、一個の生命が熱愛倦まず、神に奉仕するものと変化した處の、その動機の思出となつたであらう。惜しい哉、神の恩寵は無為にされた。そして、彼の霊魂は神の愛に対して頑固となり、今や永遠に失はれる者となつたのである。
三 転じて我自身を顧みる
始めて大罪を犯したときのことを思ひ起す。何故、神はその時直ちに我を切り捨て給はなかつたであらうか。何故神は、その後多くの重罪を犯したに拘らず、今まで忍び居給ふのであらうか。全体何の理由があつて、神は我に対し斯かる慈悲と忍耐とを示し給ふのであらうか。我が生涯中、罪に罪を重ねる外何ものがあらうか。我が生涯中何處に罪の記憶の伴はぬことがあるか。試みに回顧して見る――幼年時代家庭に於て――通学した学校に於て勉強と娯楽の有らゆる場合――その後住居下凡ての場所に於て――(大学に於て――聖職按手の準備のために
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静修した處においてすら)――我自身でか、或は他の者とか――昼にか夜にか――。凡そ神の戒律中我が犯さぬものがあらうか。若し我が五体の諸感覚を精査するならば――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。手、足、舌、理性、情緒、意志――その何れかにか罪を犯さなかつたものがあらうか。その一つ一つを以て、幾度の罪を犯したであらう。
それにも拘らず、神は凡てを通じて忍び給うたのである。若しも死が、我を罪の中に生活していたとき捕へたとすれば、我は今、失はれたる者と處を共にして居たであらう。大方、我が罪はその中の或る者らよりも更に多く、更に深刻であらう。若し、我が犯す次の罪過が我が不義の量を満たし、最早や悔悛の余裕も恩恵もなしとせば、如何にしよう。
有難い哉、今日、神は我に恩寵を給うて居られる。今日、悔改めて告悔し、そして赦罪を受けねばならぬ。ああ、神の善と憐みの深甚なる、『たゞ一人の亡ぶるをも望み給はず。凡ての人の悔改めに至らんことを望みて――永く忍び給ふ』≪ペテロ後者三。九≫のである。
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斯く、大罪による霊魂の死を黙想し、省みて、現在までの我に対する神の御寛恕を思へば、当然、此上とも罪に罪を重ねることを恐れねばならぬ。祈祷中、地獄に対する聖き恐怖。過去に対する真の悔悟。そして、再び大罪を犯して神に背き奉るまじとの、確き決心のために聖助を願ひ求めよう。
聖範 第一巻 第二十四章
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===現代語訳案===(2020.10.6)
第五黙想 大罪による霊魂の死
序想一 この黙想を行っているこの瞬間にも、おそらく私よりも小さな罪のために滅びゆく魂がかなりの数あるだろう。その中には、たった一度だけ犯した大罪のために、断罪される魂もあるに違いない。
そのような悲惨な魂のことを想う。彼は、私と同じ時代を生き、境遇もほとんど同じようなものだったはずだ。それなのに、今、彼の魂は滅びゆく者の中にある。それがたった一度の大罪の結果である。
序想二 願わくば主よ、もし激しい誘惑に直面しても、あなたを愛することを忘れないでください。少なくとも、地獄を恐れることにより、大罪を犯さないようにさせてください。
一 罪を犯す前の霊魂
かつては、その魂は清浄で何ら罪の穢れに染まっていなかった。彼が洗礼を受けた日のことである。神と聖なる天使たちの眼に映ったその美しい姿よ。主イエスの血で洗われて、聖霊が心の中に住まわれた。そのときの彼に対する神の広大な愛を想わなくてはならない。彼が持っていた聖い生活への可能性は、凡て神による生命の種の中に含まれていて、清浄で聖いものとなるべき恵みは、その心の中に植えられたのだ。もし、この幼児がその時死んでいたとすれば、今も、永遠に神と共にいることができただろう。あるいは、もし彼が神から与えられた恵みの中で生活し、それに忠実であったなら、一つの清浄な霊魂となって、更に大きな恵みと利益、報いを受けたことだろう。しかし、残念なことに彼は大罪に陥り、それを死の間際にあっても悔改めようとせず、滅びゆく魂の一つになってしまった。
では、その魂の経歴を思い返してみよう。おそらく、彼は幼少期に洗礼の恵みを与えられたはずだ。学校時代は大きな罪を犯すこともなく過ぎ、その中で神を心から愛したときもあっただろう。堅信、はじめての告解、陪餐など神と共にあったときの記憶がありあり残っている。しかし、年月の経過とともに、様々なことに無頓着になり、祈ることを怠り、罪の危険から遠ざかることも、誘惑に抵抗しようとすることもせず、ときには自分からそれに向かっていくような生活を送るうちに、神からの恩寵は弱まり、良心は鈍ってしまった。その中で、ある意味で彼にとって致命的となる大きな誘惑を受けて、憐れむべき彼の魂はその誘惑を拒めず、それにはまり込んでしまった。そして、悔改めることもできないままその罪を負って、永遠の世界に入り、今や彼は失われた者たちの中にいる。
あるいは、その魂が別の経歴を持っていたとしよう。彼は長い間、常習的な罪の中で生き、たびたび罪の底に沈みこんでいた。しかしながら、それでも神は彼がなんども邪道に逸れるたびに、恵みを与えて彼が心から罪を悔いる機会を与え、繰り返される罪を何度もお赦しになり、彼を元の道に引き戻してくださった。しかし、神の恩寵が濫用されてもなお、最後にはもう戻ることのできない堕落に陥り、その罪を負ったまま死に、滅びゆく者となってしまった。どのような魂にも、悔改めの機会と、救いのための恵みの時は必ず与えられる。それにも関わらず、罪ある生活を続けるのであれば、最後にはその罪が固着し、悔悛することも出来ないところに至ってしまうだろう。
二 今、彼の魂はどのような状態にあるか
たとえそれが死の間際であっても、彼が神の愛にすがり、悔改めたのであれば救われることもあっただろう。しかし、今となっては、彼は最高の目的、唯一つの善なる美である神のみ前にあり、神に属することを永遠に禁止されてしまった。
彼は、正しい生き方をしていれば、聖なる死者の中に加えられ、清浄と平和の世界のなかで、いつの日か天界で、聖徒や天使たちとともにあることができた。それなのに、今は永久に悪魔や滅びゆく者たちと運命を共にしなくてはならない。彼は栄光で飾られるはずだったが、『
外の暗闇に追い出され』≪マタ8:12≫、『永久に続く恥と憎悪の的』≪ダニ12:2≫にされるのである。
彼は、言葉にできないほど素晴らしい神の愛と喜びに満ちていたのに、今や『蛆は絶え』ない≪イザヤ66:24≫とあるような無限の後悔と呵責の中で、悲嘆にくれ、絶望のふちで身もだえなくてはならない。彼は永遠に天界に住み、彼をお造りになった私たちの主であり、父であり、救い主であり、私たちを聖くしてくださる神を愛し、喜び称えていたはずが、これから先は唯々神を呪い、恨みながら永遠に過ごすことになった。
もし、この魂が神の恵みの呼びかけにお応えしていたら、彼は多くの罪に関わることなく、救われていたのだろう。罪の赦し、あるいはその前の心からの悔改めは、神との親交を取り戻すためのものになったはずだ。マグダラのマリヤや、聖オーガスチン、その他多くの聖徒たちのように、彼が犯した罪は、それをお赦しくださった神の最高の善と併せて、一つの命が熱愛をもって神に奉仕する者に変化したきっかけとしての思い出となっただろう。しかし、残念なことに神の恩寵は無為なものとされてしまった。そして、彼の魂は神の愛に頑なになり、永遠に失われるものとなった。
三 転じて私自身を顧みる
私が、はじめて大罪を犯したときのことを思い起こすと、なぜ神はその時即座に私を切り捨てにならなかったのだろうと思わずにはいられない。なぜ神はその後多くの重罪を犯し続けたにも関わらず、これまでこらえておられるのだろうか。一体、どのような理由から、神は私に対してこのような慈悲と忍耐をお示しくださっているのだろうか。私の生涯の中で、罪に罪を重ねた他に何があっただろうか。人生の中で、罪の記憶が伴わない場面があるだろうか。試みに思い起こしてみよう――子供の頃、家庭において――通学していた学校において、勉強と遊びとあらゆる場合――その後に住んだすべての場所(大学、聖職按手の準備のための静養においてすら)――、私自身であっても、他の者であっても――昼も夜も――。神が定めた戒律の中で、私が犯さなかったものがあるだろうか。もし私の五体の諸感覚によるもの――見るもの、聴くこと、さわるもの、味わうこと、臭いを感じることについて、私の罪を調べたらどうなるだろうか。私の手、足、舌、言葉、理性、感情、意志――そのどれかに罪を犯さなかったものがあるだろうか。それら一つ一つを使って、私はどれだけ罪を重ねただろう。
それにもかかわらず、神はすべてのことを堪えてくださったのだ。もしも、私が罪の中で生活をしていたときに、死が私をとらえていたとすれば、私は今ごろ、失われた者たちと同じ場所にいただろう。おそらく、私の罪はその中にあっても更に多く、深刻なものだ。もし、私が犯してしまう次の罪が、神が堪えてくださっている私の不義を判断する量を満たしてしまい、悔悛する猶予も、恵みも与えられないとしたらどうすればよいだろうか。
ありがたいことに、今日も神は私に恩寵をお与えくださっている。今日悔改めて罪を告白し、赦しを受けなくてはならない。神の善と憐みの深甚なることは、『ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる』≪2ペト3:9≫のである。
このように、大罪による魂の死を黙想し、自らを省みて、今までの私に対する神の寛大さを想えば、当然、これ以上罪を重ねることを恐れなくてはならない。祈りの中で、地獄に対する聖い恐怖を持ち、過去の行いについての心からの悔い、そしてもう二度と大罪を犯して神に背くことがないように、という確かな決心のために聖なる助けを願い求めよう。
聖範 第一巻 第二十四章
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大変重い話題が続くが、日常生活で「まあこのくらい」としてしまうことを改めなくては何も変わらない、
というのはその通りだと思う。
本当は”知らずに犯した罪”なんかより、”知っていたけど見過ごした罪”の方が圧倒的に多いんだよね。
気づかないふりをしても、それこそ自分と神様しか知らないようなこと、子供の頃にしたことなんかもそうだけど、
大人になって、”正しいこと”を分かった上で、めんどくさいからと、なかったことにしたことも含め。
〇マタイによる福音書(8:12)新共同訳 100人隊長のしもべを癒すシーン
10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
〇ダニエル書(12:2)新共同訳
1その時、大天使長ミカエルが立つ。 彼はお前の民の子らを守護する。 その時まで、苦難が続く 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。 しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。
2多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
3目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。
〇イザヤ書(66:4)新共同訳
24外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。
蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。
すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。
●最後のペテロの手紙2の3章9節は新共同訳と新改訳でだいぶ趣が異なる。
〇ペテロの手紙2(3:9)
新共同訳
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も亡びないで皆が悔改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
新改訳
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
大正改訳(原著で参照している聖書)
9主その約束を果すに遲きは、或人の遲しと思ふが如きにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望み給はず、凡ての人の悔改に至らんことを望みて汝らを永く忍び給ふなり。
NKJV
9 The Lord is not slack concerning His promise, as some count slackness, but is longsuffering toward us, not willing that any should perish but that all should come to repentance.