『静修指導書』現代語訳の道 -24ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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第一静修 第七黙想 キリストの御国と召命(2)

===P65===

     三 主イエスが我を召集し給ひし戦役

 

 思ふさへ偉である壮である。――神の御事業を遂行し、此の世に於ては、主の御働きと御苦難に与り、来世に於ては、主の御栄光に浴するのである。

 一、自己制服。 地上の国をではなく、我自身を征服し、真の目的を獲得するのである。可見界戦闘でなく、道徳界神霊界の戦闘であつて、一層困難であると共に、一層卓れて光栄あるものとである。挑戦すべき当面の敵は、悪魔と世と肉と

///P66///

である。就中、放逸な情熱を持つ我が堕落した肉体であつて、それは、我が内面の敵で、決して我を去らず、又抗争を休まぬ最も危険な敵である。それ故、第一の戦闘はわれ自身、我が肉欲、我が利己主義、傲慢、怠惰、享楽などである。是等に対して職を賭することが出来るならば、外面の敵、世と悪魔は物の数ではない。

 二、我が心中に神国建設。それは、キリストをして我が心に君臨せしめ奉ることである。我が凡ての思念、愛情、行為を率ゐて主に従はしめることである。如何なる道に我を用ゐ給ふとも、主の召しに従ひ奉ることである。

 三、主を輔け奉りて人々の心裡に御国建設。我らの主は聖業信仰のため我が微力をも要し給ふのである。「我は汝のため人となれり。我が世に来り、受難し、死し、而して復活したるは、汝をサタンと罪の暴虐より救ひ、暗黒界より出して、我が愛と光明の国に伴わんためなり。今、われ汝を招く。我が友として汝に訴ふ。我を輔弼して人々を我が国に属せしめよ。私は唯聖職、修士らのみならず、信徒らをも要す。彼らは聖職、修士らが及ばぬ處を成し遂ぐをこと屡々な

///P67///

り。家庭に於て、社会に於て、事務室に於て、工場に於て、神のために行はるべき要求極めて多きに、之を為す者甚だ少なし。汝は我を輔けざるか。」と、主は言ひ給ふのである。

 此の、キリストの御召命を聴くとき、誰か敢然主に従うの熱心が起らぬであらうか。我を引き止める凡てのものを捨てぬであらうか。先ず、第一に我自身に克ち、キリストを我が君として戴き、その鞍下に従ひ、そして人々をも御国に帰順させようと試みぬであらうか。

 ああ尊きイエス、救いの主将よ。神の栄光を望む主の熱誠と、人々の霊魂のために燃ゆる主の愛を、我が心に満たし給へ。我が心を自由になし給へ。さらば我も亦人々を、罪の束縛より解き放ちて、光明と愛の御国の輝かしき自由に導くを得ん。

 

      四 拝命の諸動機

 一、主は我に奉仕を命ずる権威を有し給ふ。即ち、主は我が造り主であり、贖

///P68///

ひ主であり給ふ。我は我自身のものでなく、主の尊き血の価を以て買はれた者である。<≪コリント前書六。ニ〇≫ 然るに、主は命じ又は強制し給はぬ。主は招き給ふのである。主は我が謝恩心、道義心、我が裡にある凡て最高の道念に訴へ給ふのである。主の望み給ふのは赤心の奉仕であつて、奴隷としての服役ではない。

 二、採るべき唯一の栄誉ある道。進出せぬは「一大拒絶」であつて、永久に卑怯者、変節者としての恥辱を蒙るのである。

 三、真実に自由の道。神か悪魔か、その何れかに属すべきである。それに中間の道はない。二君に侍することは出来ぬ。中立もならぬ。『我と偕ならぬ者は我に背き、』とある。≪マタイ伝一二。三〇≫ 唯、二つの一つを選び仕ふるのみである。是ら二つの中、何れが卓れて好ましく、且光栄あるであらう。キリストの軽き軛か、将た、罪の苦しい羈絆か。『すべて罪を犯す者は罪の奴隷なり。』≪ヨハネ伝八。三四≫ されど、キリストに奉仕することは即ち罪より解放されることである。我自身と、世と、悪魔とを征服し、凡ての事物に捕はれず、主イエス以外、何物をも主とせず、「主に事ふるは是れ全き自由なり」≪祈祷書六一頁≫となることである。

///P69///

 四、最早や疑問の余地なし。我は、すでに洗礼と信徒按手式の際の制約を以て、此の戦争に参加することを約束してある。拒絶し、退去することは自己を欺き、凡てキリストに於て我が持つ権益から離れ、我が魂を失ひ、無限にキリストの敵と運命を偕にすることになるのである。

 斯く、キリストの御国と主の召命とを黙想する。我が主将たり指揮官たる者、その召し給ふ戦闘、それを拝命しようとする我が動機などを熟考せねばならぬ。

 キリストへの忠誠を新たにしよう。雄々しく罪と世と悪魔とに対して戦ひ、キリストの御国を我が心中に建設し、更に人々を御国に導くため、何事かなし得るやう恩寵を祈らう。

 

   現異邦後第六主日特祷

   聖範 第一巻 第一章

 

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現異邦後 ・・・ 「顕現後」の誤植か。

 

===現代語訳案===(2020.10.12)

   三 主イエスが私を召集された戦い

 想像するだけで偉大であり、血気盛んなことのように思える。――神の御計画を遂行し、この世においては主の御働きと御苦難の賜物を受け、来世においては主の栄光をこの身に受けるのである。

 一、自身の征服 その戦いは、この世にある地上のどこかを征服するのではなく、私自身を征服し、真の目的を得るためのものである。また、それは目に見える戦闘ではなく、道徳の世界・霊的な世界における戦闘であり、この世のものと比べてより困難であるが、一方でより優れて、光栄なものである。私たちが戦いを挑むべき当面の敵は、悪魔と世間と肉による欲である。とりわけ、私の内面的な敵としては奔放な情熱を持つ私の堕落した身体がある。それは、絶えず私の下にいて、休むことなく抗争を仕掛けてくる最も危険な相手でもある。そのため、まず第一の戦闘は私自身、私の肉欲、私の持つ利己主義、傲慢さ、怠惰、享楽などに対するものである。これらのものに対して、職を賭けて戦うことが出来るのであれば、外面の敵である世界や悪魔は数えるに足りない。

 二、自分の心に神の国を建てる それは、キリストを自身の心の中に君臨させることである。私のすべての感情、愛情、行為を率いて、主に従わせることだ。主がどのような目的で私をお使いになろうとしていたとしても、私は主のお召しに従う。

 三、主をお助けして、人々の心のうちに神の国を建てる 私たちの主は、聖なる御業である信仰のために、私の持つ微力をも必要とされて居る。「私はあなたのために人となった。私がこの世に来て、受難ののち死に、そして復活したことは、サタンと罪による暴虐からあなた救うためであり、あなたを暗黒の世界から助け出し、私の愛と光の国に連れてゆくためだ。今こそ、私はあなたを招く。私の友としてあなたに訴える。私を助けて、人々を私の国に属するものとさせなさい。私は、聖職や修士たちだけでなく、信徒たちも必要としている。彼らは、聖職や修士ができないことをしばしばやってのける。家庭で、社会で、職場の事務室で、工場で、神のために行われるべき求めは極めて多いが、これをおこなっているものはとても少ない。あなたは私を助けないのか。」と主はおっしゃる。

 このキリストからの召命を聴くとき、主に従う熱い心が敢然と湧き上がらない人がいるだろうか。私を引き止めている全てのものを捨てずにいられるだろうか。まずは、第一に自分自身を克服し、キリストを私たちの王としていただき、その旗の下に集い、他の人々をも主の御国に従わせることを試さないことがあるだろうか。

 ああ、尊いイエス。救いの司令官よ。神の栄光を望む主の熱い誠意と、人々の魂のために燃える主の愛を、私の心に満たしてください。私の心を自由にさせてください。そうすれば、私もまた人々を罪の束縛から解き放ち、光と愛に満ちた御国で輝かしい事由に導くことが出来ます。

     四 拝命の様々な動機

 一、主は私に奉仕を命じる権威をお持ちである。 それはつまり、主が我が造り主であり、贖い主であられる。私は私自身のものでなく、主の尊い血を代価として、買われた者である。≪1コリ6:20≫ にもかかわらず、主は命令したり、強要されたりはしない。主はお招きくださっている。主は、私の主に対する謝恩の心、道義の心、私の内面にあるすべての最高の信念に訴えられる。主がお望みなのは、私たちが真心から奉仕することであり、奴隷として服役させることを望んではおられない。

 二、私たちがとるべき、唯一の栄誉ある道 もしその道に踏み出さないのであれば、それは神に対する大きな「拒絶」であり、永久に卑怯者、変節漢としての恥をうけることになる。

 三、真実に自由である道  私たちは、神と悪魔のどちらに属することになり、間をとったり、両方に属したりすることはできない。どちらにもつかない中立の立場もあり得ない。『わたしに味方しない者はわたしに敵対し』とある。≪マタ12:30≫ ただその二つからどちらかを選び、それに仕えるだけだ。その二つのうち、どちらが優れていて好ましく、光栄なものだろうか。キリストによる軽い縛りを選ぶか、それとも罪に由来する苦しい足かせを選ぶか。『罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。』≪ヨハ8:34≫ しかし、キリストに奉仕することは、罪から解放されることと等しい。私自身が世界と、悪魔を征服し、すべての物事にとらわれることなく、主イエス以外の何物をも主とすることなく「主に仕ふるは是全き自由なり≪祈祷書61ページ≫となることである。

 四、もはや疑問の余地はない わたしは、すでに洗礼と堅信の制約をもって、主が私をお召しになっているこの戦争に参加することを約束している。今になってそれを拒否し、撤退することは自分を欺き、キリストにおいて私が持っている全ての権利を放棄することであり、それによって私は魂を失い、キリストの敵と無限の運命を共にすることになる。

 このように、キリストの御国と主の召命を黙想する。私の司令官であり、指揮官である方、その方が私に加わるようにとお召しになられた戦闘、それを謹んでお受けしようとするために私はその動機を熟考する必要がある。

 キリストへの忠誠を新たにしようではないか。雄々しく罪、世界、悪魔と戦い、キリストの御国を私の心に建設し、更には人々を御国に満ち引くために、何かを成し遂げられるように恩寵を祈ろう。

 

   現異邦後第六主日特祷 

   聖範 第一巻 第一章

 

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2020.10.23追記

□日本聖公会祈祷書 顕現後第6主日特祷

 永遠にいます全能の神よ、み子イエス・キリストは病気の人をいやし、健やかな命を回復されました。

憐みをもってこの世の悩みを顧み、いやしのみ力によって、人びとと国々とを健全なものとしてください。

主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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職を賭して戦う、とあるがこの職は何なんだろう。

 

羈絆(きはん) ・・・軛が複数(多くは2頭)の牛をつないで、牛車を引く際などに役立てるものだが、 羈絆は単に牛馬を拘束するためのもので、束縛することで邪魔になるものとして使われる言葉。現代語にするとちょうどいいものがないのだが、似たような機能のものとして足枷とした。

 

祈祷書61ページも昔の祈祷書だろうか。英国教会のものなのかは不明。古い祈祷書を参照して見たい。

 

■コリントの信徒への手紙1(6:20)

19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 

■マタイによる福音書(12:30)

ベルゼブル論争(イエスが悪霊を追い出しているのは悪霊の王ベルゼブルの力によるものではないか、という論争)について、イエスが「悪霊の力で悪霊を攻撃するようなことをすれば、内輪もめになるし、悪霊だってそんなことはしないだろ。」と言った流れ。

 30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

 

■ヨハネによる福音書(8:34)

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。