この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
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第一静修 第八黙想 謙遜なる受肉御降誕
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第八黙想 謙遜なる受肉御降誕
序想一 聖ベルナルドは、真理と謙遜の徳とを質問する。真理は心意を啓発し、謙遜の徳は心情を燃やす。哲学は我らが虚無の真理を教へるであらうが、謙遜の徳はそれ以上に勝るものである。この徳は心情中に宿り、キリストに学ぶ。『我は柔和にして心卑しければ――我に学べ。』≪マタイ伝一二.二八≫主イエス・キリストは、謙遜及び他の諸徳の師である。
序想二 主イエスに在る如く、寔に謙遜を慕ひ、之を学び得るやう聖助を祈る。
一 謙遜の模範たる我らの主
受肉御降誕の奥義から、『言は肉体となりて我らの中に宿り給へり。』≪ヨハネ伝一。一四≫ 主は天使の性を採り給はなかつた。無限の御謙卑を以て、アブラハムの裔となり給うた。
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主は人となり給うた。更に、堕落の結果たる弱く卑しき我らの性を助け、虚弱、飢渇、誘惑、心身の苦悩、死などを体験し給うた。主は『罪ある肉の形』≪ロマ書八。三≫ を採り唯『罪を外にして――凡ての事において兄弟の如くなり』給うた≪ヘブル書四。一五 二。一七≫のである。
此の奥義に就て、聖パウロの言うを聴かう。『彼は神の貌【かたち】にして居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんと思はず、反つて己を空しうして僕の貌をとりて人の如くなれり。』と。主は『己を空しうし』給うても、神性を失ひ給ふ事は出来ぬ。主は地上肉身の御生涯中、『まだ世のあらぬ前に父と偕にもちたりし栄光』≪ヨハネ伝一七。五≫ の顕現を捨て給うたのである。若し、主が当然主に属すべき御栄光の状態を持続し給うたなら、我らが贖罪のために発する、神の義と愛の御目的は実現せられず、且、主は我らのため非常に大切な謙遜と、その他の諸徳の模範となり給ふことが不可能であつたであらう。主の御謙遜は更に進んで、人としても『十字架の死に至るまで順ひ』給ふに至つたのである。爰に二個の黙想がある。(一)受肉御降誕に於て 謙遜の典型となり給うた主イエス。(二)ベツレヘムに於ての御降誕から十字架の死に至るまで、地上の全御
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生涯を通じて、謙遜の典型となり給うた主イエスである。主が選び給うたのは、貧窶微賤の御誕生を初めとし、一貧者として三十年間の労働生活、軽蔑され、排斥され、唾され、鞭打たれ、最後に十字架に釘けられることであつた。そして、我らは、凡ての驚嘆極まりない主の御謙遜に倣ふべきである。『キリスト・イエスに在る汝も亦此の心を保て』と、教へられてゐる。
二 謙遜の完成
凡ての栄光の顕現を止め、『僕の貌』をとり給うたことは、神に一層の栄光を増し、一層我らの救ひのためとなつた。――主が、御自身を顕し給ふ御威光と御権能の、如何なる御有様よりも、更に我らの心迫る模範となり、更に豊かな恩恵の源泉となり給うたのである。
之を我自身に引き、「謙遜の徳とその能力」を黙想し、かつ学ばねばならぬ。如何なる事が神の御計画であつても、それが、謙遜に基かぬ限り、我が裡にせよ、我に依るにせよ、決して偉大、堅実、そして永続的のことを神が為し得給は
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ぬことは確実である。自身の称揚を求むるや否や、我は直ちに無為となる。反対に、真実に謙遜となるならば、我は神の御手に在り、凡てのことが出来るのである。若し、傲慢により、神に代へて我に頼み、或は、我が光栄、名声、満足のために用ふるならば、我が偉大な天分、学識、努力と雖も、決して真の実を結ぶことが出来ぬであらう。神は常に謙卑なる霊魂を選び、それに由つて大事業を成就し給ふ。卑しき処女は神子の御母に立てられ、貧しき漁夫らはキリストの使徒として世界伝道のために選ばれた。教会は先づ下層社会、貧者奴隷の間に拡張された。『肉によれる智【さと】き者おほからず、能力【ちから】ある者おほからず、貴き者多からず。されど神は智【さと】き者を辱めんとして弱き者を選び、有る者を亡さんとて世の卑しき者、軽んぜらるる者、すなはち無きが如き者を選び給へり。これ神の前に人の誇る事なからん為なり。』≪コリント前書一。ニ六ー二九≫
他方、神が傲慢自負の輩から恩恵を止め給ふため、外見偉業を成して居る如く見ゆるも、実は、異端又は罪過に陥つて居り、終には、全然信仰の破滅に陥る者
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が、如何に多数であらう。然り。確かに、真実の謙遜を心に抱かなければ、何人と雖も、恩恵の中に生活することを望み得ない。神は謙遜者に恩恵を与へ給ふが、不遜者からは之を撤回し給ふ。かくて早晩、悲惨な失敗が来るのである。
斯く、謙遜の効果と、そして、如何なる事業に於ても、神が我に赦して聖業を成さしめ給ふには、必ず謙遜を保持すべきことを黙想せねばならぬ。
三 我自身に謙遜の必要
神子受肉御降誕の奥義に依つて、我は、御子イエス・キリストの肢とされ、神と密接な関係に導かれ、主に在つて『神の性質に与る者』≪ペテロ後書一。四≫ とせられた。我が高められたのは、主の御謙遜の結果である。
されば、当然、心からの謙遜を以て、我に賜うた斯る恩恵を感謝の印とせねばならぬ。謙遜を愛し、不断之を実践せねばならぬ。然し、我は如何に絶えず失敗して居るであらう。我らの主の御謙遜を思ふとき、その美しさ、その力強さに驚く。そして、我が心は、それに触れ、それに動かされる。然るに、之を模倣すべ
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きときが来るや、我が傲慢は之を裏切る。一の僅少な、それも予想のみである事。当然自身に帰すべき、少しく思慮を欠いたと思われる些事。人の愛好。それらへ向つて、直ちに我が傲慢が勃発する。之を憤然現はすか、或は之を抑へても、猶、胸中に驕り、苦痛と忿怨に欝勃として日を過すのである。
此が、我がために絶倫な御謙遜をせられた主に対しての報恩の仕方であらうか。ああ主イエスよ。主は御栄光を捨て、一介の下僕の姿をとり給ふを斥け給はなかつた。主は謙り、虚弱依立の一嬰児として生れ給うた。主は、赤貧に、微賤に此の世を過された。主が救はんとて来たり給ふた人々からの侮辱や排斥を忍び給うた。――然るに、我は猶、愚な高慢を撫育し、些々たる謙譲さへも排して居るではないか。然り主よ。我を教へて此の謙遜の徳を愛せしめ、之を求め学ばしめ給へ。而して、今、之を倣ひ始めしめ給へ。
一、人々を非難し、辛辣に判断することを避けよう。 これらは、往々我が虚栄傲慢から生ずる。親切な事、それが心中に実行し難く思はれても、努めて云ひ始めよう。温言の上に、能ふべくば親切な行ひを些少なりとも加へよう。それは必
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ず、親切な想ひを保つ助けとなるであらう。
二、忍耐を習ひ。 十字架、苦難、困惑、失望などを忍ぼう。之は、自己愛を征服するに大いなる益となるであらう。
三、主イエスへの愛のため、僅少なりとも屈辱を甘受しよう。 屈辱なしに謙遜は得られぬのである。
四、念祷の際、屡々主の御謙遜を黙想しよう。 そして、主が、我が心に、此の徳を愛慕する念を起し給はんことを祈らう。心柔和にして謙る主イエスよ。我が心を御心に肖させ給へ。
棕櫚の主日(復活前主日)特祷
聖範 第一巻 第七章
第三巻 第八章。第十三章。
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貧窶(ひんる)…とても貧しいこと。
微賤(びせん)…身分が低いこと。
===現代語訳案===2020.10.13
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第八黙想 謙遜である受肉と御降誕
序想一 聖ベルナルドは、真理と謙遜の徳目について問いかけている。真理は心を啓発するものであり、謙遜の徳は情熱の心を燃やす。哲学はわたしたちに虚無の真理を教えるものだが、謙遜という徳はそれに勝るものである。謙遜は感情の中に発生し、キリストに学ぶものである。『わたしは柔和で謙遜な者だから、――わたしに学びなさい。』≪マタ11:29≫ 主イエス・キリストは、謙遜とそのほかの様々な徳についての師である。
序想二 主イエスにあるように、謙遜であることを慕い、これ学ぶことが出来るように聖なる補助を祈る。
一 謙遜の模範であるわたしたちの主
主は、受肉と御降誕の奥義により、『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』≪ヨハ1:14≫ 主は天使という性質をとらず、限りなく謙って、アブラハムの子孫となられた。主は人になられた。更に、堕落の結果である弱く卑しいわたしたちの性質を助けた。人の虚弱さ、飢え渇き、誘惑への弱さ、心身の苦悩、死などを御体験された。主は『罪深い肉と同じ姿』≪ロマ8:3≫ をとり、『罪を犯されなかったが、――
すべての点で兄弟たちと同じようになら』れた≪ヘブ4:15, 2:17≫のです。
この奥義について、聖パウロは『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ』たと言う。≪フィリ2:6-7≫
主は、『自分を無に』されても、神性を失われることはできません。主は、地上において肉の体で過ごされた御生涯の中で、『世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光』≪ヨハ17:5≫ を現わされることを放棄された。もし、主がご自身に属する栄光の状態を維持されていれば、わたしたちを贖うために発せられる神の目的―義と愛ーは実現されず、非常に重要な謙遜の徳やそのほかの様々な徳目についての模範となられることは不可能であっただろう。主の御謙遜はさらに進み、人間として『十字架の死に至るまで従順』であられた。ここに二つの黙想がある。
(1)受肉とご降誕により、謙遜の典型となられた主イエス。
(2)ベツレヘムでのご降誕から十字架の死に至るまで地上での御生涯を通じて、謙遜の徳をもっともよく表すものとなられた主イエス。
主がお選びになられたのは、貧しく低い身分でのご誕生にはじまり、一人の貧しい者として30年の間労働の生活を送り、排斥され、つばを吐きかけられ、鞭で打たれて、最後には十字架に磔にされることだった。そして、わたしたちはその驚くべき主の御謙遜にならうべきではないか。『キリスト・イエスにあるわたしたちもまた、この心を保たなくてはならない』と教えられている。
二 謙遜の完成
全ての栄光を現わすことを止めて、「僕の身分」をとられたことは、神に更なる栄光を増し加え、一層わたしたちの救いのためになった。――主がご自身を顕された御威光と御権能を持つどのようなお姿よりも、更にわたしたちの心に迫る模範となられ、より豊かな恵みの源泉となられたのである。
これをわたし自身に照らし合わせれば、「謙遜の徳とその能力」を黙想し、かつ学ばなくてはならない。どのようなことが神の御計画であろうと、それが謙遜に基いていなければ、それがわたしの内心の問題であろうと、わたし自身によるものであろうと、神が偉大、堅実、永続的なことを行うことがおできにならないのは間違いない。自分が多くの人からほめたたえられることを求めるかどうか。それをすればわたしはすぐに無為な者となる。しかし、反対に真に謙遜な対応をすれば、わたしは神の御手のなかにあって、どのようなことでも成し遂げることが出来る。もし、傲慢さによって、神ではなく自分自身により頼み、または自分が栄誉や名声を受け、満足するために行動するのであれば、わたしがどれほど偉大な天からの才能、学識、努力をもったとしても、決して真の意味で実を結ぶことはできないだろう。低い身分のおとめが神の子の母となり、貧しき漁師たちがキリストの使徒として世界伝道のために選ばれたように、教会はまず社会の中の低い人々、貧者や奴隷の間で広がった。『人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。』≪1コリ1:26-29≫
一方、神が高慢な連中に対する恩恵をお止めになるため、傍から見れば偉業をなしているように見えていたとしても、実際には異端や罪に陥っていて、最後には信仰の全くの破滅に陥ることになる者がどれほど多いだろう。そう、真実の謙遜を心に持っていなければ、誰であろうと神の恩恵の中で生活することを望むことは出来ない。神は謙遜する者に恵みをお与えくださるが、不遜な者からはそれを撤回される。そして、そのようなものは遠くない将来、悲惨な失敗をすることになる。
このように、謙遜の効果と、そしてどのようなことであっても、神がわたしに御許しになっている聖なる役割を達成させるには、必ず謙遜の心を持たなくてはならないことを黙想しなくてはならない。
三 わたし自身にも謙遜が必要
神の子の受肉とご降誕の奥義により、わたしは御子イエス・キリストの体の枝とされ、神と密接な関係に導かれ、主にあって『神の本性にあずからせていただくよう』な者≪2ペト1:4≫とされた。このようにわたしが高められたのは、主が御謙遜された結果である。
それであれば、わたしたちも当然、心からの謙遜をもって、わたしが受けたこの恵みへの感謝の印としなくてはならない。謙遜を愛し、たゆまずこれを実践しなくてはならない。しかし、わたしはどれほど絶えず失敗をしているだろう。わたしたちの主の御謙遜を思うとき、その美しさ、力強さに驚く。そして、わたしの心はそれに触れ、それに動かされる。しかし、それを模倣しなくてはならないときが来ると、わたしは傲慢さによってそれを裏切ってしまう。一つの、ごくわずかなこと。それも予想に過ぎないことで、当然わたし自身に由来する、多少の思慮を欠いたと思われる些末な事。人の好き嫌い。それらに向かって、すぐにわたしの傲慢な心が湧き上がってしまう。これによって、怒りをあらわにするか、またはそれを抑えたとしても、それでも胸中には驕りや、恨みが浮かび、陰鬱に火を過すことになる。
これが、わたしのためにとびぬけた御謙遜をされた主に対して、わたしたちが恩に報いるやり方だろうか。ああ主イエスよ。主は御栄光を捨てて、一介のしもべの姿になられることを避けなかった。主はへりくだり、か弱い一人の赤ん坊としてお生まれになった。主は真心から、卑しいこの世でお過ごしになられた。主は、自らがお救いになろうとした人々から侮辱され、排斥されたことをお忍びになった。――それなのに、わたしはなお愚かな高慢心を後生大事に育て、ほんの少しの謙譲ささえも退けているではないか。そうです、主よ。わたしが謙遜の徳を愛し、それを求め学ぶことができるように教えてください。そして今、あなたに倣うことをはじめさせてください。
一、人々を非難すること、辛辣な判断を避けよう。 これらのことは、往々にしてわたしがもつ虚栄心や傲慢さから生まれる。親切な事をしよう。たとえそれをすることに抵抗があっても、努めて親切で温かい言葉を使う用にしよう。できるかぎりの親切な行いを少しでも良いので加えよう。それが親切な心を持ち続ける助けになるだろう。
二、忍耐を教わり、十字架、苦難、困惑、失望を耐え忍ぼう。これは、自惚れを征服するために大きな利益がある。
三、主イエスへの愛のため、少しであっても甘んじて屈辱を受けよう。屈辱を受けることなく謙遜を得ることは出来ない。
四、祈るときに、折に触れて主の御謙遜をもくそうしよう。そして、わたしの心に謙遜の徳を慕う気持ちを起してくださることを祈ろう。心穏やかでへりくだる主イエス、わたしの心をあなたの心に似たものとならせてください。
棕櫚の主日(復活前主日)特祷
聖範 第一巻 第七章
第三巻 第八章。第十三章。
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2020.10.23 追記
□日本聖公会 祈祷書
復活前主日特祷
人類を深く愛し、救い主、み子イエス・キリストをこの世に遣わされた全能の神よ、み子はわたしたちと同じ体をとり、
己を低くして死に至るまで、十字架の死に至るまであなたに従われました。どうかわたしたちに恵みを与えて、
み子の苦しみの模範に従わせ、またそのよみがえりにあずからせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
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とても長く感じる章だった。筆が進まないと言うか、書いていると邪魔が入ったり、落ち着かなくて進まなかったり。
前半は、よくあるお説教という印象を受けたが、後半の前向きな様子で調子をとり戻した。
ここまで前書きからはじまって読みながら書きながらをしているが、身につまされることが多い。
言うは易し、行うは難し、というのそのものよな。
洗礼のときや、聖餐式や、折に触れて祈りの中で口にしているのだけど、
それをお題目にするだけでなく、実践することこそ教義の趣旨にあうことなのだろうけど、
この本を書いた人も、ここまで確信して神を信じることが出来るのはうらやましくもある。
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〇聖ベルナルド…クレルヴォーのベルナルドゥス(1090-1153)。フランスの神学者。聖書注釈や説教に秀いで、教会博士の称号を受けている。シトー会の修道院の修道士として隠遁生活を目指したが、神学的・政治的な能力が高く、1130年に教皇インノケンチウス2世と対立教皇アナクレトゥス2世が両立したときに、当初劣勢であったインノケンチウス2世を助ける立場に立つ。神聖ローマ帝国や東ローマ帝国の皇帝を説得し、政治的圧力によりアナクレトゥス2世を破門・蟄居に追い込むと、アナクレトゥス2世は1138年に死去。対立教皇の後継者としてウィクトル4世が立つも、結局寄り切られてインノケンチウス2世の治世が確立される。
その後も著名な神学者として活躍し、神学所の執筆、修道会活動、十字軍の勧誘活動など積極的に行うが、十字軍遠征自体のの失敗により影響力を落しながら、修道院で生涯を終える。
■マタイによる福音書(11:29) ※本文中には12:28とあるが、誤植。
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
■ヨハネによる福音書(1:14)
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
■ローマの信徒への手紙(8:1)
1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
■ヘブライ人への手紙(4:14)
14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
■ヘブライ人への手紙(2:17)
14ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 16確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。 17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
■フィリピの信徒への手紙(2:6) ※本文中には参照元はないが、「聖パウロの言葉」とあるので、この部分と思われる。
6節からはそのものずばりだが、『キリスト・イエスに在る汝も亦此の心を保て』についてはぴったりの該当箇所はないが、趣旨としては前段部分にそういう
1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
■ヨハネによる福音書(17:5)
ユダに裏切られ、逮捕される直前、イエスが、弟子たちに自分が近いうちにこの世を去り、父のもとに行くことを伝えているシーン。
4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
■コリントの信徒への手紙1(1:26~)
26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
■ペテロの手紙2(1:4)
3主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。 4この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。