この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
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第一静修 第九黙想 二種の軍旗
一は我らの大主将たり主たるキリストに属し、一つは我らが人性の大敵たるサタンに属す。
此の黙想の目的は、一つを選んでその旗下に奉仕しようと考へるのではない。我らはすでにキリストの旗下に編入されて居る。今や我らの知るべきことは、征戦の事、二個の軍将、その性質、その目的、又その目的のために使用される手段等である。
序想一 相互に挑戦する二個の軍将。相互に全人類をその旗下に率ゐんとして居る有様等を想ふ。
序想二 サタンの罠を識り、之を遁れ得るやう恩恵を祈る。他方、キリストに依つて啓示された真の生活を悟り、恩恵によつて、主に対して忠信であるやう祈る。
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一 二主将の考察
聖イグナシウスは、我らに先陣の光景を想像させる。一方、「全敵軍の主将は、バビロン大平原の中央、火煙立ち昇る威厳の王座に控えて居る。――見るも慄然たり、懼然たるものがある。」そして、他方、「我らの主キリストは、エルサレム付近の大平原の低地に陣地を敷き、仰げば優雅にして仁慈に満つ。」と。
此れらの光景は象徴的であつて、先づ、二個の主将の人格を如実に現はす。次に、その威風に打たれた人々の霊魂に及ぼす結果をあらはす。即ち、一度は輝かしい光の霊であつたが、今は暗黒の王サタンが「威厳の王座」を占めて居るとは、彼の、不敬な傲慢と暴虐を示すのである。「曠原」は破滅に導く広き道を意味し、「バビロン(紊乱の都)」は罪が世に招来した無秩序を指摘する。王座を構成する「火と煙」は、彼の周囲に従ふ攪乱と暗黒を思はしめる。此等の特質は各々、サタンが己に従属する者の霊魂に及ぼす感化であつて、欲情は熾烈となり、良心は晦乱し、心情は盲目となることを象徴するのである。
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他方、我らの主は陣地を平安の都「エルサレム」付近に置き給ふ。即ち主は『平和の君』≪イザヤ書九。六≫であつて、主の旗下に戦ふ凡ての者に『人の思にすぐる神の平安』≪ピリピ書四。七≫を与へ給ふのである。又、低地とは主のたゞならぬ御謙遜、我らのために天より降り人となり給うたこと、そして凡て主に従ふ者には『我は柔和にして心卑【ひく】ければ――我に学べ、されば霊魂【たましひ】に休息を得ん。』≪マタイ伝一一。二九≫と教へ給ふこと等を表現する。「視るも優雅にして仁慈に満つ」とは、主がナザレの会堂に立ち給うたとき、人々が『みなイエスを誉め、又その口より出づる恵の言を怪し』んだ≪ルカ伝四。二二≫ こと、又は彼の『幸福鳴る哉』と御垂訓の山で、霊の国の法律を布告された有様などを思ひ起さしめる。そして、此等凡ては心裡に賜ふ平和、甘味等の慰謝の描出であつて、主は、之を以て、聖旗の下に集合する人々の霊魂を屡々訪れ給ふのである。
二 サタンの罠
神と人との「大敵」として、サタンは常に我らがキリストへの忠節を奪ひ、そして我らの滅亡を計画して居る。絶えず、最も手中に陥り易いと思はれる罪を以
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て我らを誘惑して居る。彼は偏在者ではないが、彼に属する無数の悪霊があり、それに命じて「或る者を一の都会に、或る者を世界的に、或る者を何れの地方にも、何れの場所にも、如何なる生活状態に於ても、如何なる人にも」、残る隈なく派遣して居る。されば、如何なる場所に如何なる生活を営むとも、仮令、非凡の聖人であつて、至極安全と思はれる人でも、恒に警戒を怠ることができぬ。
サタンが其の目的を達する手段は、或る時は狂暴であるが、多くの場合、狡猾である。彼は、初めから我らを重大顕著な罪には誘はず、 寔に些細な誘惑で何も危険と思はれぬ事に誘ふ。然し、之に乗るとき、我らが忠節の念は涸渇し、徐々に、キリストの聖旗からサタンの旗下へと曳き去られて行くのである。
聖イグナシウスは、此等の誘惑を、「罠と鎖」と言ふ。「罠」を用ゐて餌とし、「鎖」を用ゐて陥る者を捕縛する。全く真実である。外見は取るに足らず、無害であると思はれる一小誘惑も、実は、危機千万の事。等閑にされる小罪も、此が習慣となつては、鉄鎖の如く我らを縛し搦める。――初めは小罪であつても、漸次大罪へと導くのである。
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サタンは、我らを誘惑するとき、幸福や一時の浮楽を約束するが、彼は『虚偽者』であり、『最初より人殺』≪ヨハネ伝八。四四≫であつて、アダムとエバをも誘惑して曰く、『汝等かならず死ねる事あらじ、――汝等神の如くならん』≪創世記三。四、五≫と。斯く彼は二人を網に導き、罪と不幸を世に引き入れた。
それ以来、幾百、幾千万の人々を欺瞞して俘囚としたであらう。驚嘆すべきは人の盲目さ、愚さである。人は、今猶、サタンの偽約に信頼し、果ては、欺かれて無限の滅亡に到るのみである。
三 キリストの御精神と御目的
主は、サタン即ち反逆者を滅して、我らを彼の羈絆から救ひ出すために世に来り給うた。主は、凡ての人を招き、『生命を得しめ』給はん≪ヨハネ伝一〇。一〇≫ とする。この真の生命は主御自身に在るのである。
主の御精神はサタンと正反対である。主に欺瞞は無い。主は真理【まこと】であり、我らにその真実【まこと】を教へんとて来り給うた。のみならず、我らを自由にならしめ、且、我
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らを防いで再び敵の手中に陥らざらしめ給ふ。
我らは、御許に近づいて、主が教へ給ふ真理【まこと】を聴かう。
一、主は先づ、富貴の危険を説き給ふ。『富める者の神の国に入るは如何に難いかな。』≪マルコ伝一〇。二三≫ 富貴そのものは悪ではないが、それに愛着し、それを求望するとき、多くの危険が伴ふ。富貴は、サタンが思はせようとする如く、真実の善ではないことを認めねばならぬ。若し富貴なくば、無いに満足し、清貧は更に祝福された生活であることを知らねばならなぬ。『幸福【さいはひ】なるかな、貧しき者よ、神の国は汝らの有【もの】なり』≪ルカ伝六。ニ〇≫。茲に、我らの霊的真理を観る眼を晦して、御父への愛を閉す、世と世にあるものへの欲求に対する解毒剤がある。我らは、少くとも、心が貧しくあるやう祈らねばならぬ。≪ヨハネ第一書二。一五≫
二、次に主は謙遜を教へ給ふ。『我は柔和にして心卑【ひく】ければ――我に学べ。さらば霊魂【たましひ】に休息【やすみ】を得ん』≪マタイ伝一一。二九≫ 茲に、特にサタンが我らの心中に起こさせんとする、傲慢自負の精神に対する防御法がある。サタンは、傲慢が我らをほかのすべての罪に誘導し得ることを知つて居る。
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三、次に主は自制と十字架を勧め給ふ。『人もし我に従ひ来らんと思はゞ、己をすて、己が十字架を負ひて、我に従へ。己が生命【いのち】を救はんと思ふ者はこれを失ひ、我がために己が生命【いのち】を失ふ者は之を得べし。』≪マタイ伝一六。ニ四、二五≫
以上は「聖なる教理」の意義を深く洞察し、清貧、謙遜十字架等を愛慕して、愈々我らの主に固く結ばれるやう祈らねばならぬ。また、唯これのみが「真の生活」であると云ふ不断の確信のため祈らねばならぬ。何となれば、この「真の生活」は、キリスト即ち永遠の真理が世に来り給うたとき、御自身のために選び給うたものである。主は彼の大敵と戦ひ、万民が安全に保護され得るところの聖旗の下に我らを召集し、主と偕に戦ひ勝つことを得させ給ふのである。
聖範 第三巻 第十八章第五十六節
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紊乱(ぶんらん)
==現代語訳案==(2020.10.15)
第一静修 第九黙想 二種の軍旗
一つ勢力は私たちの最高司令官であり、主であるキリストに属す者であり、もう一方は私たちの人性の大敵であるサタンに属する者である。この黙想の目的は、そのうち一つを選んでどちらかの旗の下にはせ参じるかを考えるのではない。私たちはすでにキリストの旗下に編成されているからである。今、私たちが知るべきことは、敵地へ赴いて戦いに参加すること、二つの軍の司令官とその性質や目的、目的のための手段などである。
序想一 お互いに対して戦いを挑みあう二つの司令官。双方が、すべての人類を自身の旗の下に率いろうとしている様子を想像する。
序想二 サタンの罠を理解し、それから逃れることが出来るように神の恵みを祈る。一方、キリストに依って示された真に正しい生活を知り、恵みによって、主に対して忠実な信仰をもつものであれるように祈る。
一 二つの司令官の考察
聖イグナシウスは、私たちに戦いの最前線での光景を想像させる。「敵軍の総大将は、バビロンの広原の中央、火煙が立ち上る中、威厳の王座に構えている。――それは見るだけで戦慄が走り、恐れを感じさせるものがある。」 その一方で、「私たちの主キリストは、エルサレムに近い大平原の低地に陣を構え、仰ぎ見れば優雅であり、仁愛と慈悲に満ちている。」と。
これらの光景は象徴的なものであり、二つの陣営の総大将の人格を如実に表現し、それぞれの司令官の威厳に心を打たれた人々の魂にどのような結果を与えるかを伝えている。かつては輝かしい光の霊であった暗黒の王となったサタンが「威厳の王座」に構えているとは、彼の不敬な傲慢さ、暴虐性を示す。「広原」は破滅に導く広い道を意味し、紊乱の都である「バビロン」は、罪が世に呼び寄せた無秩序な状態を示す。王座の「火と煙」は、サタンに従う騒乱と暗黒とを想起させる。これらの特性はサタンに従属する者の霊魂に与えらる感化であり、欲情は激しくなり、良心は乱れ、心は曇って何も見えなくなることを象徴する。
一方、私たちの主は陣地を平安の都「エルサレム」の近くに置かれた。主は『平和の君』≪イザ9:6≫であり、主の旗の下に戦うすべての人々に『あらゆる人知を超える神の平和』≪フィリ4:7≫をお与えくださるのである。また、低地とは、主の大いなる御謙遜である、私たちのために人となられたこと、そしてすべての主に従う人に『わたしは柔和で謙遜な者だから、――わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。』≪マタ11:29≫とお教えになられたことを表現する。
「仰ぎ見れば優雅であり、仁愛と慈悲に満ちている。」とは、主がナザレの会堂にお立ちになられたとき、人々が『皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い』た≪ルカ4:22≫ こと、又は彼が人々に『幸いである』≪マタ5:3≫とお教えになられた丘で、霊の国の法律をお告げになられた様子を思い起こさせる。そして、これらの全ては心の中に賜る平和、心で感じる甘味などのいたわりの表現であり、主はこれらをもって、聖なる御旗の下に集う人々の魂をたびたび訪れてくださるのである。
二 サタンの罠
神と人にとっての大敵であるサタンは、常に私たちからキリストへの忠節を奪い、私たちの滅亡を計画している。絶えることなく、私たちが最も彼の手中に陥り易いと思われるような罪を使って私たちを誘惑する。彼一人がどこにでも存在するわけではないが、彼に属する数多の悪霊に命じてて、「或る者は都会に、別のある者は世界中に、ある者はどこの地方にも、どのような場所にも、どのような生活状態においても、相手が誰であっても」 隙間なく悪霊を派遣している。そのため、どこにいても、どのような生活をしていても、たとえ聖人君子と呼ばれ、悪魔の誘惑など全く寄せ付けなさそうな人であっても、常に警戒を怠ることはできない。
サタンが、自らの目的を達成しようとするとき、狂暴な手段を用いることもあるが、多くの場合は狡猾に行われる。サタンは、私たちに対して最初から重大で誰の目にも明らかな罪に誘うことはしない。まずは、些細な誘惑、何の危険もないだろうと思われるようなことに誘う。しかし、この誘いに乗ってしまうと、私たちの神への忠誠心は次第に枯れてゆき、徐々にキリストの聖なる旗の下から、サタンの旗の下へと引き去られていくことになる。
聖イグナシウスは、これらの誘惑を「罠と鎖」と呼んでいる。「罠」を餌に使い、「鎖」を使って罠に陥ったものを縛り上げる。これは全く正しい。一見、取るに足らない無害に見えるような小さな誘惑も、実は多くの危険をはらんでいる。軽い気持ちで見過ごしている小さな罪であっても、これが習慣となっていくに従って、鉄の鎖のように私たちを縛り付け、からめとっていく。――はじめは小さな罪であっても、徐々に大罪へと導かれて行くのである。
サタンは私たちを誘惑するときに、幸福や一時的な快楽を約束するが、彼は『偽り者』であり、『最初から人殺し』である≪ヨハ8:44≫。アダムとエバには『決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』と言って誘惑し、二人を罠にいざない、罪と不幸を世に引き入れた。
それ以来、何百、何千万の人々を欺き、その捕虜としてきたことだろう。驚嘆すべきは人の盲目さ、愚かさである。人は今もなおサタンの偽の約束を信じては欺かれることを繰り返し、無限の滅亡に向かっている。
三 キリストの御精神と御目的
主は、サタン=反逆者を滅ぼし、私たちを彼の足かせから救い出すために世に来られた。主はすべての人を招いて、彼らが『命を受け』るようにしてくださる。≪ヨハ10:10≫ この真の命は、主ご自身の中にある。
主のご精神は、サタンとは正反対である。主には欺瞞がない。主は真理であり、私たちにその真理を教えられるために来られた。それだけでなく、私たちを自由にし、再び敵の手に落ちることのないように守ってくださる。
私たちは、主の御許に近づき、お教えくださる真理を聴こう。
一、主ははじめに、裕福であることの危険を説いている。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』≪マコ10:23≫ 裕福であることそのものは悪ではないが、富を愛し、それを求めるようになると多くの危険を伴う。サタンは裕福であることが善であると思わせようとするが、必ずしもそうではないことを認識しなくてはならない。もし財産がなければ、ないことに満足する。清貧な生活は、更なる祝福を受けた生活である。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。』≪ルカ6:20≫ これこそが、私たちが霊的な真理を観るための目をくらまし、御父への愛を閉じさせる、世と世にあるものへの欲求に対する解毒剤である。私たちは、少なくとも霊において貧しい者であるよう祈らなくてはならない。≪1ヨハ2:15≫
二、次に主は謙遜をお教えくださる。『わたしは柔和で謙遜な者だから――わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。』≪マタ11:29≫ ここに、サタンが私たちの心の中に起こそうとする傲慢さと自負心に対する身の守り方がある。サタンは傲慢さが私たちをほかの罪に誘導となることを知っている。
三、次に主は、自制と十字架を勧めておられる。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』≪マタ16:24-25≫
異常が、「聖なる教理」の意義を深く洞察し、清貧、謙遜、十字架を慕い、それによって私たちの主と固く結ばれるように祈らなくてはならない。また、これだけが「真の生活」であるという、耐えることのない確信のために祈らなくてはならない。なぜなら、この「真の生活」は、キリスト即ち永遠の真理が、世に来られたときに、御自身のためにお選びになったものだからである。主は、サタンという大敵と戦い、万民が安全に保護されることが出来るよう聖なる旗の下に私たちを召集し、主と偕に戦い、勝利することができるようにしてくださったのである。
聖範 第三巻 第18章第56節
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イグナシオの言葉は霊操からの引用だと思われるが、手元に原著がないので確認できず。
どこかで手に入れられれば良いのだけど。
曠原 ・・・ 広原
■マタイによる福音書(7:13)
13狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
■イザヤ書(9:6)
5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。 王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
■フィリピの信徒への手紙(4:7)
6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
■マタイによる福音書(11:29)
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
■ルカによる福音書(4:22)
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
■ヨハネによる福音書(8:44)
(「私たちはアブラハム子孫で、姦淫によって生まれた者でもなく、奴隷になったこともない」という人々に対して)
42イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。 43わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 44あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。 45しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。 46あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。 47神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」
■創世記(3:4)
4蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。 5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
■ヨハネによる福音書(10:10)
9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
■マルコによる福音書(10:23)
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
■ルカによる福音書(6:20)
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
(中略)
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
■ヨハネの手紙一(2:15)
15世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 16なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 17世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
■マタイによる福音書(16:24-25)
(イエスが自身の死を予告し、それをたしなめたペトロに「さがれ、サタン」と言ったあとのシーン)
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。