『静修指導書』現代語訳の道 -21ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

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///P84///

   第十黙想 三種の人々

 

 二種の軍旗に就いての黙想で、我らは主イエス・キリストの旗下に留ることを決心した。聖イグナシウスは、此の決心が真摯であり、充分堅固であるか否かを試験するために、「我らがその中最上の者を選ぶため三種の人」に就いての心霊修業を課して居る。

 

 序想一 重病に臥す三人を想像する。何れも恢復を切望して居る。然し、第一の者は、苦痛を恐れて、治療も手術も受けぬ。第二の者は、余り大きくない程度に於て、治療を受ける。第三の者は、全然医師の手に任せて疾病全治のため必要な凡ての治療を受ける。

       キリストに従つて、其の旗下に戦はんとする者を、右三種の患者に擬へて区別することが出来る。

 序想二 我は、神とその諸天使の前にあり、如何なることが、至善なる神の最も嘉し給ふ事であるかを知らんとしているのである。

///P85///

 序想三 至尊なる神の御栄光と我が霊魂の救のため、最善を選び得るやう恩恵を願ひ求める。

 

     一 第一種の人々

 この種の人々は、欲しても決行せぬ人々である。

 是に属する凡ての人々は、キリスト教の諸真理を確信して居る。即ち、神が万民を統治して居給ふこと、罪は悪逆であること、天界と地獄のこと、彼らが霊魂救済の必要なること等を確信して居る。彼らは霊魂を救はれ、改心し、善生涯を送り、キリストに従い度いと思ふ。だが、彼らは其の点までゞ止まる。そして必要な方法をとらぬ。彼らは、何れ何時かは為ようと思ふが、其を何時も延引して居る。聖アウガスチンが改心前祈つて居た如く。「主よ、我に貞操の徳を与へ給へ。されど、今にあらずして――」と。罪から遁れんとして、しかも猶暫くの耽溺を追ひ、真実己が良心への召命に従ひ、恩恵に縋るのではない。かかる人は、治癒を望んでも、必要な方法を拒む病人の如きである。

///P86///

 我は此の種の人に属するのではないか。神前に自らを省察せねばならぬ。我は、罪を棄て、キリストに従ひ、善良な生活を送り、そして、救はれんと願ふ。然し、此れらは皆、我に於ても努力を要する。例へば、或る種の罪を棄てること、その機会を避けること、祈祷、一層度多く聖餐をうけ之を活かすこと、生活上の或る規律、或る種の犠牲などである。我は是等を、努めて、直ちに実行する心懸けありや。

 若し逡巡するならば、如何に危険な状態にあるかであらう。聖霊に対して逆らひ、恩恵を無にして居る。良心の痛みと聖霊の感動を覚えつゝある。採らねばならぬ方法を知つて居りながら……それを躊躇し、延引し、或は拒む。或る意味に於て望んでは居るが、その敢行を決意せぬのである。

 

     二 第二種の人々

 第二種は、何か為さんと志しているが、凡て必要な事を敢行しようと思はぬ人々を包括する。彼らは、改心と救霊を妨げるものを排するため数歩を進めるが、

///P87///

全力を尽して凡ての手段をとらぬ。多分、最も必要な真に事の根底に入るべき手段を執らぬ。彼らは、唯、かの或る種の治療を受けても真実に効験ある方法を避ける患者の如き者である。

 此處に、再び、我自身此の種類に属するか否かを省察せねばならぬ。我は、此の静修に於て、必要な事は何か、神の求め給ふ事は何かを知らうとして来たのである。然し乍ら、それは余り困難で力及ばずと思はれる。故に、唯その一部分、そして最も容易な、最も効果なき部分のみを実行しようと思ふ。我は良心の要求を示談で済さうとするのである。

 静修中にある大部分の人々は、暫時、彼らの裏に存在する高低の両気分に、霊肉の両性の間に、永遠と一時との喜悦の間に苦闘あるを覚える。永遠は遥か彼方に見え、現在生活は眼前に横はつて居る。世と肉は強く要求して居る。然し、驚くに足らぬ。

 凡ての聖徒達、凡て救はれた人々は皆等しく此の苦闘を経て行つたのである。我も亦同様の条件の下に、平安と救ひを見出すであらう。宜しんば、心戦激し

///P88///

く、遂に流血を見るに至るが如く感ずるとも、熱心に、忍耐して祈るべきである。神は我を助け、慰め、苦き心戦を変じて甘味とし給ふであらう。唯、我が霊魂を評価するとき、神が率直に尋ね給ふことを拒んではならぬ。

 それを拒否することがいかに危険なるかを思ふ。

 一、それは此の静修の主なる結果を失ふ。 或は此の静修中神意に従ひ奉つて居たにせよ、凡て神が我がために準備し給うた恩恵、又既に与へ給うた恩恵に逆ふこととなる。

 二、それは我が救霊を危険ならしめる。 即ち、神は召命に応じ奉らぬ者から恩恵を取り去り給ふ。さすれば、我は、神の恩恵なく、虚弱な身を以て誘惑と戦はねばならぬ。

 三、回避することも危険を増す。我が情欲は、之に対抗せねば愈々募り、狂暴になるであらう。

 

     三 第三種の人々

///P89///

 第三種は、残る處なく、全然自己を神に献げ奉る人々である。彼らは、改心と救霊のためには、如何なる代償をも払ふ決心で居る。彼らは、必要あらば、如何なる方法もとり、如何なる犠牲も辞さぬ。

 斯かる霊魂は、如何なる事をも忍んで治療を受けようとする患者の如きで、自己を全然医師の手に任せ、種類を問はず、凡ての治療を受けようとする。彼らこそ自己の救ひを誠心誠意に望み、その成就を期するものである。

 此の第三種に、加らんと熱望する我が諸動機を熟考せねばならぬ。

 一、それは、此の世に於て、我を幸福に導く。 幸福は我ら凡ての者が望むものであるが、彼此道を異にするのが常である。然し乍ら、神意を成就する以外決して真の幸福を見出し得るものではない。

 二、神が自己を奉献する霊魂に降し給ふ恩恵と祝福は無限である。 即ち、心の平安、誘惑に対する強さ、犠牲に於ける喜び……此れらは、全心神に向かふとき、皆我に与へられるのである。

 三、我に救霊の保証が与へられる。 天に、多くの財宝と、望外な永遠の栄光が

///P90///

蓄積されるのである。

 されば、従来凡て不誠実や半端に済ませて来たことを、茲に新たに決心して言はねばならぬ。『我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れるために、凡ての物を損なりと思ふ』と。≪ピリピ書三。八≫

 此の黙想の最後に、聖イグナシウスは、我らに必要な一の注意を与へて居る。神が我らの良心に要求し給ふ事に対して、少なからず躊躇するときは、仮令、我らの低劣な性が祈祷の結果を疑ふとも、熱心に繰返して祈り、神の求め給ふ犠牲を捧げ、聖意のままに従ひ奉らんと御前に断言し得るやう祈るべきである。其は主イエスが、ゲツセマネの園に於て祈り給うた如くである。『されど我意【こゝろ】のままを成さんとにあらず、御心のままを成し給へ。』

 

 聖範 第一巻 第十一章

     第三巻 第二十七章

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===現代語訳案===(2020.10.19)

   第十黙想 三種類の人々

 二種類の軍旗についての黙想で、私たちは主イエス・キリストの旗の下に留まることを決心した。聖イグナシウスは、この決心が真摯なものであり、十分に堅固であるかどうかを試すために、「私たちがその中から最も善いものを選ぶために、3種類の人」についての霊的な修業を課している。

 

 序想一 重病の床にある三人の患者を想像する。いずれも心から快復を望んでいるが、最初の患者は、苦痛をおそれて治療も手術も受けようとしない。2番目の患者は、それ程大掛かりでないものであれば治療を受ける。3番目の患者は、自分を完全に医師に任せ、必要とされる治療を全て受け入れる。キリストに従ってその旗の下に戦おうとするものは、この3種類の患者に例えて区別することが出来る。

 序想二 わたしは、神と天使たちの前にいて、完全に善である神にとって、最もお喜びいただけることはどのようなことであるかを知ろうとしている。

 序想三 最も尊い神の御栄光と、私の魂の救いのため、最も善い道を選ぶことができるよう恩恵を願い求める。

 

     一 第一種の人々

 この種の人たちは、やりたいと思ってはいるがそれを実行に移さない人々である。

 このグループに属する全ての人々は、キリスト教における様々な真理――神が万民を統治しておられること、罪が悪逆な行為であること、天の世界と地獄のこと、彼らにとって、霊魂の救済が必要なことなど――が正しいことだと認識はしている。その上で彼らは自分たちの魂が救われ、心を改め、よい生涯を送り、キリストに従いたいと思っている。しかし、彼らはそこで止まってしまっており、それ以上の必要なことをしようとしない。

 彼らは、そのうち、いつの日かはそれを実行しようと思っているが、いつでもそれを先延ばしにしている。ヒッポの聖アウグスティヌスが改心する前に「主よ、私に貞操の徳をお与えください。しかし、今ではなく――。」と祈っていたように。罪から逃れようとしながら、それでもなおしばらくの間は罪におぼれようとし、自分の良心や神の恩恵に縋ろうとしない。そのような人は、病気の治癒を望みながら必要な治療を拒む病人のようだ。

 私はこの種の人に属するのではないか考える。そのためには、神の御前に自らを省み、よく観察しなくてはならない。私は、罪を離れてキリストに従い、善良な生活を送り、最後には救われたいと願っている。しかし、それらのためには自分自身の努力も必要だ。それは、罪を犯す機会を避け、罪を切り捨てること、祈り、更に多くの聖餐を受け、それを活かすこと、規律のある生活を送ること、ある種の犠牲を払うなどである。私はこれらのことを達成しようと努力し、すぐに実行するように心がけているだろうか。

 もし実行にためらいを感じているようであれば、どれほど危険な状態にあることだろう。聖霊に逆らい、神からの恵みを無意味にしている。良心の痛みと聖霊による感動を感じつつあり、自分がしなくてはならいことを本当は知っていながら、実行を躊躇し、先延ばしにし、あるいは拒否する。望んでいながら、それを敢行する決意をしないのである。

 

      二 第二種の人々

 二番目の人々は、何かを成し遂げようと志しているが、必要なことすべてを実行しようと思っていない人々である。彼らは、改心と魂の救いを妨げるものを排除するために数歩進むが、全力を尽くして必要な全ての方法を取ろうとはしない。彼らは例えていうなら、いくつかの治療を受けているが、本当に効果のある方法を避ける患者のようなものである。

 私自身がこの種類に属しているかどうかを省みる必要がある。私がこの静修に来たのは、私に必要なもの、神がお求めになっているものは何かを知るためである。しかし、それは達成するには余りにも困難で、私では力不足であるように思われる。そのため、その一部――それは一番簡単だが、効果のない部分――だけでも、を実行しようと思う。私は、良心からの要求に対して、妥協して済ませようとしてはいないか。

 静修に取り組む人の多くは、内なる気分の高揚と消沈、霊と肉という二つの性分の間、永遠の喜びと刹那の快楽の間でしばらくの間もがき苦しむ。永遠は遥か彼方にあるように見え、一方の現実は目の前に横たわっている。世と肉は強い要求をしてくる。しかしこれらに驚き同様することはない。全ての聖徒たち、魂を救われた人々は皆同じようにこの苦悩を経験して、天の国にいったのだ。

 私もまた同じように、この葛藤を経て平安と救いを見出すだろう。たとえ、心での戦いが激しく、ついには流血をみるような思いをしたとしても、熱心に、忍耐して祈るべきである。神は私を助け、慰め、心の戦いによる苦しみを、甘露に変えてくださるだろう。そのために、自分魂を評価しようとする神からの率直な問いかけを拒んではならない。それを拒否することがどれほど危険であるかを思う。

 一、この静修の主要な結果を失う。 たとえ、この静修中は神の御意思に従っていたにせよ、神がお求めになることを拒めば、神が私のために準備してくださったすべての恵み、またすでに与えられていた恩恵に逆らうことになる。

 二、私の魂の救いを危険な状態にする。 神は、召命に応じない者から恩恵を取り去られる。そうなれば、私は神の恩恵を失い、虚弱な状態で誘惑と戦わなければならなくなる。

 三、回避することも危険性を増す。 私の燃えるような欲望は、これに対抗し、克服しなければますます高まり、狂暴になるだろう。

 

     三 第三種の人々

 三番目の人々は、自分の持つすべてを余すところなく神に捧げる人々である。彼らは悔改めと霊魂の救済のためにはどのような代償であっても払う決心をしている。彼らは必要であればどのような方法、どのような犠牲も厭わない。

 このような魂は、どのような治療方法であっても堪えて受けようとする患者のようなもので、自らをすべて医師の手に委ね、種類を問わず全ての治療を受けようとする。彼らこそが、自分自身の救いを心から望み、成就をさせようとする人々である。

 この種の人々の中に加わるために、私の心の様々な動機を熟考しなくてはならない。

 一、これによって、この世にあって私は幸福に導かれる。 幸福は私たちすべての者が望むことだが、その姿は様々な方を向いているように思える。しかしながら、神の意志を成就する以外に、真の幸福を見出すものは何もない。

 二、自らを捧げる魂に降される神の恵みと祝福は無限である。 心の平安、誘惑に対する強さ、犠牲となる喜び・・・・‥これらはすべての心を神に向けたとき、すべて私に与えられる。

 三、私の魂が救われる保証を与えられる。 天に多くの財宝と望外な永遠の栄光が蓄積されることになる。

 それならば、これまで不誠実に対応し、中途半端にしてきたことに対して、新たな決心を持って宣言しなくてはならない。『わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。』≪フィリ3:8≫と。

 この黙想の最後に、聖イグナシウスは、私たちに必要な一つの注意を与えています。神が私たちの良心にお求めになることに対して、少しでも躊躇してしまうときは、たとえ私たちの低く劣った性分が祈りの結果を疑ったとしても、更に熱心に繰り返して祈り、神がお求めになる犠牲を捧げ、聖なる御心に従おうと神の御前に断言できるようになるまで祈るべきである。それは、主イエスがゲッセマネの園で『しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』≪マコ14:36≫と祈られたようにである。

 

 聖範 第1巻 第11章

     第3巻 第27章

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ここは難しい言葉はあまりなく、するすると直せたと思う。

言っていることは確かにごもっともと思うが、例えが少し直球すぎると言うか、そのままな感じもする。

黙想、静修を求めているのってここでいう第一の人々や第二の人々だから、その人たちに対するメッセージなんだろうけど。

三番目の境地に至る人が、キリスト教だけでなく様々な宗教の信者を通じて、人類のうちにどれだけいるのだろうか。

まさに亡びに向かう道は広くて、ということなんだろうけど、著者のような信仰ガチ勢の境地になれば死も怖くないレベルなんだろうか。

まあ、来世というか天の国に行ける理論からすれば死が怖くなくなるのか。

なんか一向一揆の心境にも似ている感じがする。

なんまんだぶと言っていればOKな分、一向一揆の方がハードル低いけど。

 

■フィリピの信徒への手紙(3:8)

5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 

■マルコによる福音書(14:36)

32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」