『静修指導書』現代語訳の道 -20ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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///P91///

   第十一黙想 御受難の遺物

 パリーの一宣教大学に、或る部屋があつて、伝道地に殉教を遂げた校友の遺物を蔵して置く。そこには、彼らが責められた刑具や曾て彼らの所持品であつた物が保存されてゐる。――或る者の着て居たといふ血染の法衣【キヤソツク】、或る者の祈祷書、或る者の十字架像等々。毎朝、始業前学生らは此の室を訪れて、先輩の踏んだ道を勇ましく進み、それが必要とあらば、彼らと同じくキリストの為に受難し得る恩恵を祈るのである。

 序想一 天使に導かれて天界の一宮殿に昇り、諸殉教者の王、主イエスの御受難の遺物を拝観して居ると想像する。

 序想二 それらを一々熟考し、恩恵により、それらが教へる教訓を心胆に命じ得るやう祈る。

     一

///P92///

 天使は我に示す――

 一、若干の銀貨。 ユダが主を売つた處の三十枚である。それらを凝と観て、貪欲の罪に対する警告を見出だし、我が心から欲心や富に対する不法の愛着が根絶されるやう祈る。少なきを以て足り、唯必要のみを求め、それと共に、少なくとも心貧しくあらんことを学ぶのである。『若し全世界を贏【まう】くとも我が生命を損せば、何の益あらん。』≪マルコ伝八。三六≫ 使徒は言ふ、『それ金を愛するは諸般【もろゝ※】の悪しき事の根なり。』≪テモテ書六。一〇≫

 二、血痕を止むる一条の縄。主イエスがゲツセマネの園に於て、ユダヤ人の吏卒に縛され給うた縄である。彼らは甘んじて毒手に陥り給うた主を縛したのである。ああ、主よ。主が縛され給ひしは我が為なり。我は実に我儘にして、我が自由を濫用せしこと数知れず、単に我が快楽を求め、我が情欲を肆にすることのみを努めたり。ああ、我が救主よ。主に逆ひ、罪のためにのみ用ゆる虚偽の自由より我を救ひ出し給へ。願くは、主の就縛により、我を主より引離す罪の鎖より解放し、永久に主と甘味なる愛の繋ぎに居らしめ給へ。

 三、一片の布。勿論粗末な品であるが、如何に貴重であらう。それを以て主イ

///P93///

エスは目を蔽はれ給うた。彼らは主の聖顔を蔽うた。ああ、主よ。御眼を以て彼らの心を柔らげ、彼らの惨忍を止め給へ。浅ましくも主に対して罪を犯すとき、御顔を蔽ひ給はず、ペテロに於ける如く、我をも聖覧し給ひて、彼の如く、我をも痛悔と愛に立ちかへることを得させ給へ。

 四、水盤。 ピラトが手を洗ひ、自身で犯し乍ら、その罪に関係なしと宣言した物である。何と、彼の自己欺瞞に驚くべきではないか。然し乍ら、我も亦良心を詐り、自ら責任を遁れて、その罪に対する非難を他人に着せたこと幾度であらう。或は、告解をたゞ唇頭に止めて、心に罪を捨てず、或は、人々に対抗する勇気なく、罪に加入したこと抑も幾度であらう。

 五、荊の冠。主イエスが王として戴き給うた冠である。何故主はかかる冠を戴き給うたであらうか。尋ねて見よう。さらば、主は語り給ふであらう。

 「我が子よ、之を冠るは汝の為である。即ち、汝は自己の着想の余り高慢である。余りにも、自己の能力、自己の怜悧さと理性の力に頼る。汝の傲慢と虚栄、汝の愚なる思想と虚偽の想像、汝の阿諛と優越感――此等は、我が頭を刺す荊棘

///P94///

である」と。

 此の荊冠を黙想した後、我がために其を戴き給うた主に向ひ、御自身の御謙遜が我に与へられ、我からは、凡ての傲慢と自尊、空虚な、罪に満ちた思想の一切が取り去られるやう祈らねばならぬ。主が、正当な君主として、我を支配し給ひ、我も亦わが思想も能力も悉く主のものとして、新しく、献げ得るやう祈らねばならぬ。

 六、鞭。革紐を以て作り、處々に骨と鉄片が結びつけられてある。之を以て無惨に打擲されるときの烈痛さ。主の御背に荒々しく打下されるその音が聞えるではないか。『耕すものわが脊をたがへし、その畎【たみぞ】を長くせり』≪詩一二九。三≫ 「ああ、わが主よこは何事ぞ。」そして我が良心は之に答へる。「其は我が余りにも虚弱であり、奢侈であり、癇癪強く、我儘であり、且余りにも度々体的罪を犯した為であるに違ひない」と。

 ああ、主よ。我が肉体を制し得る恩恵と勇気を与へ給へ。

 七、太き釘数本。 尖端鈍く、大きな頭を持つ。此らは主イエスの御手、御足を

///P95///

打貫いた物である。ああ、主よ。故意の罪を以て此らの釘を打込みしは我なり。されば、主よ、今我が罪咎多き性を主の十字架に釘け、之を罪に死なしめ給へ。願くは、再び大罪を犯して主を十字架に懸くること無からしめ給へ。

 八、主の着給ひし御衣――主が地上の御生涯中所有し給うた全体で、それも引き剥がれ給うた物。何たる主の御貧しさぞ。かくも貧しくて、家なく、餓かつ裸であらせられた主に引き代へ、衣食のために莫大な費用を要し、我が心は、地上の所有物、家、家具、衣服、凡ての奢侈と虚栄のために専ら注がれて居ることを恥ぢずに居られようか。

 九、骰子【さい】数個――兵卒らが、十字架の番をして居るとき、倦怠の時間を紛らはしたものである。之に依つて何を学ぶか。十字架の下に到るまでさへ、我が生活を濫費しようとする其の価値なき有様を示すのである。瑣事に戯れて、空しく過ごした年月。たゞ娯楽のみを追うて暮した日々。主よ。願わくは、恩恵により、猶も残る日を以て償ひ、主のために何事か真実の業を行ひ、主が我を召して、わが為しし事と為さざりし

///P96///

事を調べ給ふとき、之を御前に示すことを得させ給へ。

 

     二

 猶も跪座して黙想を続け、進んでその結果を求めよう。

 一、罪に対する恐怖と嫌悪。 今や、心に罪とは何ぞやが解る。此ら御受難の遺物に就いて考想するとき、恰も畫面に対する如く、罪が制止されずに放任された種々の結果を見ることが出来る。

 二、完全なる痛悔。 是こそ罪に就いての黙想から得ようとして我が望む所のものである。然し、今我を悲歎せしめる動機は同一でない。先には、主として罪そのものの不快なこと、其に常然伴うべき刑罰であつたが、今や第一の動機となるものは「主が我が罪のために受難し給ふことを忍び難く思ふ念」である。是こそ一層高貴な動機であり、我が裡に愈々深く、自分勝手ならぬ痛歎を起すのである。

 三、斯くの如く我を愛し給へる主に対する愛。 主の御受難を静思するもの。誰

///P97///

か主に対する愛の応答を思ひ浮かべぬであらう。『主よ。爾【なんぢ】は我に何を求め給ふか。唯愛のみ我が爾に献ぐべきものなり。主は我に凡てを与へ給へり。我もわが凡てを献げまつらん。若し聖意ならずば、我が欲せんとする凡てを捨てまつらん。我を主より離さんとするものは凡て之を斥くべし。我を全く主のものとして満足せしむる道は、唯これのみなり。今より後、主は我が王となり給へ。さらば我は最後まで忠実に主に従い奉らん。」

 

 聖範 第二巻 第十一章、第十二章

 

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※もろもろは、もろ+踊り字。【もろ\/】

阿諛(あゆ)=相手が気に入るようにふるまうこと。

畫面=画面

 

===現代語訳案===2020.10.20

   第十一黙想 御受難の遺物

 パリの某宣教大学に、とある部屋があり、伝道の赴任地において殉教を遂げた同窓生の遺物を保存している。そこには、彼らが殉教した際に使用された拷問具や、彼らの所持品が保存されている。それは、ある人が着ていたという血に染まったキャソック(祭服)、ある人の祈祷書、ある人の十字架像などであるが、学生たちは毎朝始業前にこの部屋を訪れ、先輩たちが踏んだ道を勇ましく進み、もし必要とあらば同じくキリストの為に殉教できるように神の恵みを祈る。

 序想一 天使に導かれて天界の宮殿に昇り、殉教者たちの王、主イエスの御受難の遺物を拝観していることを想像する。

 序想二 それらを一つ一つ熟考し、神の恵みにより、それらが教える教訓を胆に命じるように祈る。

     一

 天使はわたしに示す――

 一、若干の銀貨。 これはイスカリオテのユダが、主を売った30枚の銀貨である。それらをじっと見て、貪欲の罪に対する警告を見出し、自分の心の中から物欲や富に対する不正な愛着が根絶されるように祈る。与えられるものが少ないものであってもそれで満足し、ただ必要なものだけを求め、併せて自分の心が謙虚であるように学ぶ。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 』≪マコ8:36≫ 使徒はこのように言う。『金銭の欲は、すべての悪の根です。』≪テモ6:10≫ 

 

 二、血痕を止める一本の縄。これは、主イエスがゲッセマネの園で、ユダヤ人の下役に捕らえられた時の縄である。祭司長たちの邪悪な企みを、不本意ながらも受け入れられた主を、彼らは捕縛したのである。ああ、主よ。主が捕らわれたのはわたしの為です。わたしは本当に我儘な者であり、わたしが持つ自由さを数え切れないくらい濫用してきました。ただ自分自身のための快楽を求め、欲望をほしいままにすることにだけに努めていました。ああ、わたしの救い主よ。主に逆らい、罪のためにだけ用いられている虚偽の自由からわたしを救い出してください。願わくは、主の捕縛によって、わたしを主から引き離そうとする罪の鎖から解放し、永遠に主とつなぎ止め、その味わい深い境地の中にいさせてください。

 

 三、一片の布。とても粗末な品であるが、どれほど貴重なものだろうか。これによって、主イエスは目を覆われになった。主を捕らえた人々は主の聖なる御顔をこれを用いて覆い隠した。ああ、主よ。その眼を以て彼らの心を和らげ、彼らの惨忍な行為を止めてください。わたしたちがあさましくも主に対して罪を犯してしまうときは、御顔を隠すことなく、ペテロにそうされたように、わたしをもご覧になられ、彼のようにわたしも悔改めと愛に立ち返ることができるようにしてください。

 

 四、水盤。ピラトが手を洗い、自らが犯したにもかかわらず、自分はその罪に関係ないと宣言したときのものである。彼の自己欺瞞は驚くべきものである。わたしもまた、自らの良心を欺き、自分の責任を逃れて、その罪に対する非難を他人のせいにしたことがどれだけあるだろう。または、罪の懺悔をただ口で言うだけにとどめ、心では罪を捨てることなく持ち続け、または、人々に流されてその罪に加わったことも何度もあった。

 

 五、荊の冠。主イエスが王として戴冠されたものである。何故主はこのような冠を身に着けられたのであろう。主に伺うことができたとすれば、きっとこのように仰るだろう。

 「我が子よ、これを被るのはあなたのためである。あなたは自分の考えにとらわれ高慢になっている。自分の能力、利口さを過信し、自分の理性だけに頼っている。あなたの傲慢、虚栄、愚かな考えと虚偽にまみれた想像、あなたの強い者へのこびへつらいと、弱い者を見下す姿勢、これらはわたしの頭を刺す荊の冠である」と。

 この荊の冠について黙想したのち、わたしのためにそれを身に着けられた主に対して、主のご謙遜がわたしにも与えられ、わたしから全ての傲慢とうぬぼれ、空虚で罪に満ちた思想の一切が取り去られるよう祈る。主が正当な君主として、わたしを支配され、わたしもまた自分の考えも能力もすべて主のものとして新しく献げられるように祈らなくてはならない。

 

 六、鞭。革ひもで作られ、所々に動物の骨や鉄片が結び付けられている。これを使って無残に鞭打たれるときの厳しい痛み。主の御背中に荒々しく打ち下されるその音が聞こえるではないか。『彼らは畑をすきで耕すように わたしの背中に深い傷を負わせた』≪詩129:3≫「ああ、わたしの主よ。これは何事でしょうか。」そして、わたしの良心はこれに答えていう。「それはわたしがあまりにも弱く、贅沢を好み、すぐに激昂し、我儘で、さらには何度も繰り返して肉体の罪を犯したことが原因であるに違いありません。」

 ああ、主よ。わたしが肉の欲を克服できるように恵みと勇気をお与えください。

 

 七、数本の太い釘。その先端は鈍く、大きな頭がついている。これらは、主イエスの御手、御足を打ち貫いたものである。ああ主よ、それが罪であると知りながら罪を犯し、これらの釘をあなたの体に打ち込んだのはわたしです。ですから、主よ、わたしの罪多き性分を主の十字架に張り付けにして、罪を死なせてください。願わくは、再び大罪を犯して主を十字架にかけることがないようにしてください。

 

 八、主が着ておられた服。主が地上で過ごされた御生涯の中で、所有されたものはこれだけであり、しかもそれらも最後には引き剥がされてしまった。主はなんと貧しかったことだろう。このように貧しく、家もなく、飢え、裸同然であった主に比べて、わたしは衣食のために莫大なお金を使っている。わたしの心のほとんどが、地上での所有物、家、家具、衣服など贅沢と虚栄心を満たすために用いられていることをどうして恥じずにいられるだろう。

 

 九、数個のサイコロ。兵士たちが十字架の見張りをしているとき、その退屈を紛らわすために使った者である。これによってどのようなことが学べるだろうか。主が十字架により刑死されるとき、最も近いところにいた人々さえ、自身の生活を浪費しようとした。このサイコロは、その価値のない有様を示している。中途半端な気持ちのまま、つまらないことに時間を割いて、空しく過ごした年月。ただ一時の快楽を追いかけて暮らした日々。主よ、どうかみ恵みにより、わたしに与えられた残りの日々を使って、これまでの時間を償い、主のために何か真実に基づく行動を取らせてください。そして将来、主がわたしをお召になり、わたしが行ったことと行わなかったことをお調べになるとき、それを御前に示すことが出来るようにしてください。

 

     二

 さらに跪いて黙想を続け、進んでその結果を求めよう。

 一、罪に対する恐怖と嫌悪。 今や、罪が何であるか心で理解することができる。これらの御受難の遺品について思いを巡らせるとき、まるで画面に映っているかのように、これまで罪を制止せずに、放置してきたことによる様々な結果を見ることができる。

 二、完全で痛切な悔改め。これこそ、罪についての黙想から得ようとして、わたしが望むものである。しかし、今わたしを悲歎させる理由とは一致しない。当初、わたしが犯す罪そのものが不快なことであり、刑罰はそれに伴う当然のものだと思っていた。しかし、今となっては最も重要なことは「主がわたしの罪のために御受難に遭われたことを忍び難く感じる心」である。これこそ、単なる罪と罰に比べて一層高度な動機であり、わたしの心の中に更に深い痛切な嘆きを引き起こしている。

 三、わたしを愛してくださる主に対する、わたしの愛。 主の御受難を静かに思うとき、主と自分の間にある、愛の応答を思い浮かべない者がいるだろうか。『主よ、あなたはわたしに何をお求めになっているのですか。ただ愛だけがわたしがあなたに捧げるべきものです。主はわたしに全てのものをお与えくださいました。わたしもまた、すべてのものをお捧げいたします。もし聖なるみ心に沿うものでないのなら、わたしが求める全てのものをお捨ていたします。わたしを主から引き離そうとするものはすべてこれを退けます。わたしのすべてを主のものとし、満足させる道はこの一つだけです。これからの将来、主はわたしの王となってください。わたしは最後まで忠実に主に従います。』

 

 聖範 第二巻 第十一章、第十二章

 

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縄を持っていた「ユダヤ人の吏卒」は、ヨハネ福音書の表現に倣った。

「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たち。」ほかの福音書では人々とか群衆になっている。

 

一片の布は、ゲッセマネでの逮捕ののち、最高法院で死刑の決議がなされたのち、『ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。』≪マコ14≫ときのものと思われる。

 

そのあとの、「ペテロのように」というのは、”ペトロの否認”で3回目の鶏が鳴いたとき、『主は振り向いてペトロを見つめられた』≪ルカ22:61≫とある部分のことだろう。下記に3回目の否認シーンを引用したが、福音書によって内容はちょっとずつ異なる。この前段の部分を踏まえると、場所や相手、シチュエーションもちょっとずつ異なっている。その中で、イエスがペテロの顔を見たという場面があるのはルカだけ。

とても印象的なシーンで、ペテロがみたイエスはどのような顔だったのだろうかと思う。おそらく晴れやかな顔はしていなかっただろうけど、ゲッセマネで祈っていたときのように苦悶に満ちた表情だったのだろうか、これから起きることを覚悟した決意の顔だったのか、それとも一晩中引っ張りまわされて疲れた顔をしていただろうか。ペテロにとっては自分に失望した顔に見えただろうか。

 

最初の部分、殉教をことさら美化しているような、望んで殉教するような姿勢については疑問を持つ。

誰だったか、有名な聖人で若いころにはアフリカかどこかに宣教して、殉教をしたいと願っていたが、

果たされず神学者になったような人がいたと思う。当時としては、それこそ「神の教えを伝えるために死ぬ」ということが美しいこと、

誉あることとされていたのだろう。

当時とは文明水準も、交通手段、医療技術、国際理解も異なる今だからこそ言えるのかもしれないが、自分を愛するように他の人を愛しなさいというようなイエス様が、自ら進んで死ぬことを喜ぶだろうか。死のうとして死ぬのはちょっと違うように思う。

今、この百年近く前(でもたかが百年くらい前でしかない)にあった殉教者の遺品部屋がどうなっているのか知るべくもないが、

宣教のため命を落とした人たちに敬意を感じるが、今の世の中の感覚とはちょっと隔たりを感じる。

それを筆者に伝えることが出来たら、なんといわれるだろう。

 

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■マルコによる福音書(8:36)

34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 

■テモテへの手紙(6:10)

 7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 10金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

 

〇ペトロの否認

■マタイによる福音書(26章)

 74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 75ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

■マルコによる福音書(14章)

71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

■ルカによる福音書(22章)

60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62そして外に出て、激しく泣いた。

■ヨハネによる福音書(18章)

 26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」 27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

■詩編 129編 都へ上る歌(新共同訳)

1イスラエルは言うがよい。 「わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが

2わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった。

3耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った。」

4主は正しい。 主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。

5シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。

6抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。

7刈り入れても手を満たすことはないように。 穂を束ねてもふところを満たすことはないように。

8傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。 わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。

 

□日本聖公会祈祷書 詩編129編

1彼らはわたしを若いときから虐げた|| イスラエルよ、語れ

2彼らはわたしを若いときから虐げた|| しかし彼らは勝ったのではない

3彼らは畑をすきで耕すように|| わたしの背中に深い傷を負わせた

4しかし主は正しい方|| 神は悪人の綱を断ち切られた

5シオンを憎むすべての者は|| 恥を受けて退けられる

6育たぬ前に枯れ果てる|| 屋根の草のようになればよい

7刈る人はそれにも手を触れず|| 束ねる人も集めはしない

8「主の祝福があなたの上に。主のみ名によって祝福する」と|| 通りかかる人も言わないように