『静修指導書』現代語訳の道 -19ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

+++++

 

///P98///

   第十二黙想 御体と御血の聖奠

 

序想一 我が常に出席し、陪餐する祭壇の前にあるを想ふ。

序想二 此の聖なる奥儀に対する信仰と、之を拝受するときの敬虔の念とが増し加へられんことを祈る。

 

     一 主の現臨

 

 我らの主は、御手にパンと葡萄酒を執り、之を祝して言ひ給うた。『此は我が体なり、此は我が血なり。』斯く言ひ給ふその如く成る。天地創造に臨み、『神光あれと言ひたまひければ光ありき。』同じく、主はパンをとり言ひ給うた。『此は我が体なり』と。

 彼の時御自身成し給うたことを、今猶主の聖職を通して行ひて居給ふ。長老

///P99///

は、祭壇に於て、主キリストの御名代として唱へ行ふ。それは能力の言である。何となれば、其は依然キリストの御言であるからである。それが唱へられる時、同じく、パンと葡萄酒はキリストの御体と御血とになる。主の御体と御血の存在する處には、キリスト御自身、御体も、主の霊魂も神性も備へて在し給ふ。主は分つことかなはぬ御方にて在し給ふ。ああ、驚くべき祭壇の奥義なるかな。それは恰も受肉御降誕の奥義に似て居る。マリアは『視よ、われは主の婢女【はしため】なり。汝の言のごとく、我に成れかし』 と答えた。そして直ちに神の御子は降り、御母処女マリアの胎により、我らの性をとり給うた。『言は肉体となりて、我ら中に宿りたまへり。』 マリアは、数語、自己を聖意に任す言を以て答へ、御子御降世の奥義は成就された。今や、その如く、聖餐礼に於て、長老は祭壇に身を屈め、静かに数語を唱ふるとき、主はパンと葡萄酒の形色を蔽ひとして、中に隠れ、我と偕に在し給ふのである。

 仮令、我らの視界の外に在すとも、主は真実に臨在し給ふのであつて、我らが主を礼拝するとき、我らの心裡まで照覧し給ふ。我らが参拝して自己を奉献し、

///P100///

主に凡ての要求と苦悩、希望と恐怖、思慕と欲求、その他一切心中にあるものを述ぶるを嘉し給ふのである。又、我らが跪き祈祷するとき、主より出で給ふ聖霊は、我らの氷結した心を溶かして信と愛とを増させ給ふのである。

 神よ、我信ず、我が不信を助け給へ。我が信仰を増させ給へ。主の御臨在は真実である。単に臨在し給ふといふ我が想像または思想ではない。我が信仰によつてか、または、唱える祷語の産物でもない。聖別祷の後、我が信仰、又は、我が祈祷に関係なく、主の御体と御血は存在し、そして其の御体と御血の存する場所に、我が主、我が神は、凡て完全に、人格神として在し給ふことを信ずる。若し我が霊眼打ち開かれんか、諸天使が祭壇の周囲に奉仕する有様が拝観出来るであらう。

 

     二 生命のパン

 

 人は、心裡に神の生命を有して生活するやう造られた。その生命は堕落によつて失はれた。人の如何なる努力も之を挽回することが出来ぬ。神の御子が世に降

///P101///

り給うたのは之を挽回するためである。 

 聖霊の御能力により、主は御母処女マリアの胎から我らが死の性を取り、之を主の神的生命に依つて活かし給うた。主は御死去と御復活とにより、主の栄光の御体に結合される者に、此の生命を与ふる御能力を獲得し給うた。それ故に、主は御自身を指して宣ふ。『我は天より降りし活けるパンなり、人このパンを食はゞ永遠に活くべし。我が与ふるパンは我が肉なり、世の生命のために之を与へん……我が肉をくらひ、我が血をのむ者は永遠【とこしへ】の生命をもつ。(もつであらうではない、既にもつである。)われ終の日に之を甦らすべし。』≪ヨハネ伝六。五一、五四≫

 此の不思議な聖言を黙想する。この中に、主が尊き聖奠に於て御自身を与へ給ふと云ふ真理が、概括せられて居るのである。

 一、主は天より降り給うた。主は永遠に聖父と一体なる神の御子に在す。

 二、主は人の糧として降り給うた。

 三、主は活けるそして命を与ふる糧である。主は、単に人の自然的生命を支持し給ふのではなく、主御自身の御生命たる永遠の生命を授け給ふのである。

///P102///

 四、主の与へ給ふパンは主の御肉である。――それは死に到る果敢ないものではない。――さういふ状態にあるものは我らに生命を与へることが出来ぬ。――主の御肉は聖霊の御能力により、栄光を供へ、生命を与へるものとせられた。

 五、主は御肉を『世の生命のため』に与へ給うた。それは、先ず、贖罪の犠牲としてゞあり、次には、聖奠に於て革新的生命を与へ給ふためである。

 六、主に養はれることに依り、我らの身体もまた、主の最も清浄にして神声なる御体に結ばれ、世の終りに於ける栄光ある復活の準備とさられるのである。

 斯くの如く、洗礼の際与へられた我らの新生命は、此の天来の糧なる生命のパンにより、保存され、養育され、そして完成されるのである。

 

=====

三 陪餐の結果 が長いのでいったん区切り。

 

===現代語訳案===2020.10.24

   第十二黙想 御体と御血の聖奠

序想一 わたしがいつも出席する教会で、陪餐する祭壇の前にいることを想像する。

序想二 この聖なる奥義に対する私の信仰と、聖餐を拝受する際の敬虔の念が増し加えられることを祈る。

 

     一 主の現臨

 わたしたちの主は、み手にパンとぶどう酒をとり、これを祝福して言われた。『これはわたしの体である。これはわたしの血である。』 このようにおっしゃると、そのようになった。天地創造の際に、『神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった』 となったのと同じように、主はパンを手に取り言われた『これはわたしの体である』と。その時に主ご自身がなされたことを、今でも聖職を通じて行っておられる。司祭は祭壇において、主キリストの代理人として唱え、聖餐を行う。それは、能力の言葉である。なぜならば、それは依然としてキリストのお言葉だからである。その言葉が唱えられると同時に、パンとぶどう酒はキリストの御体と御血になる。主の御体と御血の存在する場所には、キリストご自身がおられ、その御体も、主の魂も、神性もお持ちのまま臨在される。主は分かれることができないお方であられる。ああ驚くべき祭壇の奥義であることか。それは、受肉によるご降誕の奥義に似ている。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』≪ルカ1:38≫と答えた。すると、直ちに神のみ子はこの世に降り、主の母おとめマリアの胎内によって私たち人間の性をおとりになった。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』≪ヨハ1:14≫ マリアは自らを聖なるご意志に委ねるとの言葉を短く答え、み子が世にお降りになるという奥義が成就されることになった。今も、そのように聖餐式において司祭が祭壇の前に身を屈め、静かに感謝聖別の言葉を短く唱えるとき、主はパンとぶどう酒の外観をとりながら、その中に密かにおられ、私たちとともにおいでくださる。

 たとえ、私たちが視ることのできる世界の外におられるとしても、主は真実にご臨在されており、私たちが主に礼拝するとき、私たちの心のうちまでご覧になれている。私たちがみ前で礼拝して自らを奉献し、主にすべての要求と苦悩、希望と恐怖、思慕と欲求、その他心の中にある一切のものを主にお伝えすることをお喜びになられる。わたしたちが跪いて祈るとき、主から出られた聖霊は、私たちの凍り付いた心を溶かして信仰と愛とを増させてくださる。

 神よ、わたしは信じます。わたしの不信仰をお助けください。わたしの信仰を増し加えてください。主のご臨在は真実です。ただ臨在されているというわたしの想像や思想によるものではなく、私の信仰や唱えた祈祷文が生み出したものでもない。聖別の祈祷の後、わたしの信仰や祈りに関係なく、主の御体と御血は存在し、そしてその聖餐が存在する場所にわたしの主、わたしの神がすべて、完全に、人格を持つ神としておられることを信じます。もしわたしの霊的な眼が開かれたなら、諸天使が祭壇の周りで主に奉仕する様子を拝観することができることだろう。

 

     二 生命のパン

 人は、心のうちに神による生命をもちながら生活するように造られたが、その命は堕落によって失われてしまった。人はどのような努力をもってしても、これを取り戻すことはできない。神のみ子がこの世にお降りになったのは、これを取り戻すためである。

 聖霊の持つお力により、主はその母おとめマリアの胎内から、私たちが持つ死の性質を受け継がれ、これを主がお持ちになった神による生命によって活かされた。主はその死とご復活により、主の栄光の御体に結び付けられる者に、この神による生命を与える力をお持ちになられた。そのため、主は御自身を指して言われた。『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。』≪ヨハ6:51,54≫(永遠の命を”得るだろう”ではない。すでに”得”ているのである。) 

 この不思議な聖なるみ言葉を黙想する。この中に、主が尊き聖奠において、ご自身をお与えくださるという真理が含まれているのである。

 一、主は天からお降りになられた。主は永遠に聖なる御父と一体であって神のみ子であらせられる。

 二、主は人のためにその糧となられた。

 三、主は活ける糧、そして命を与える糧である。主は単に、人が持つ自然の命を支持されるのではなく、主ご自身の命である永遠の生命をお授けくださるのである。

 四、主がお与えくださるパンは、主の御肉である。――それは、死に至るようなはかないものではない。そういう状態にあるものは、わたしたちに命を与えることなどできない。――主の御肉は、聖霊のお力によって、栄光とともにあり、命を与えるものとされた。

 五、主は御肉を『世の生命のため』にお与えくださった。それは、第一に贖罪のための犠牲としてであり、次に、聖奠において、革新的な生命をお与えになるためである。

 六、主に養っていただくことによって、わたしたちの身体もまた、主が最も清らかで浄められた御体と結びあわされ、世の終わりのときに、栄光ある復活をする準備となるのである。

 このように、洗礼の際に与えられた私たちの新しい生命は、この天からの糧である生命のパンによって、保たれ、育てられ、そして完成されるのだ。

=====

 

罪と悔改めについて続いてきた部分から一転して、

聖餐を受けることとは、私たちにとってなんぞやという黙想題になった。

 

今、個人的には、仕事の都合で外国におり、また場所柄教会に頻繁に行くことができないので、

クリスマスやイースターといった大礼拝にも今年は加われなかった。

何度か現地の教会にも行き、英語の礼拝なのでなんとなく目で追うのが精いっぱい、

普段、電車やバスで、または車や徒歩で教会に行き、

誰が何と言っているかわかる聖餐式に加わることが出来ていたのは

恵まれていたことなんだなあ、と思い返している。

 

日本でもコロナの関係で礼拝を中止にされている教会が多いらしいので、

同じような感想を持つ人もおられるかもしれないけど、

日曜日には教会に行って、礼拝の準備をしたり、サーバーをしたり、

聖書朗読の順番が回ってきてちょっとやだなあと思ったり、

好きな聖歌でなんとなく嬉しかったり、聞いたことない聖歌で音を外してそわそわしたり、

愛餐会でうどんを食べながら、そこにいる人たちと世間話をする、

そんな信徒としての日常は、当たり前にあることでなく、

神様の恵みがあって、そこに招かれて、交わりに加えてもらっていたのだなあと思う。