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『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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===P102===

     三 陪餐の結果

 我らは、聖奠の恩恵によつて、キリストに居り、主が我らのために成就し給うたことに与るのである。

 一、我らは主の贖罪の死の御功績に与る。『この故に 今やキリスト・イエスに

///P103///

在る者は罪に定めらるゝことなし――これ肉に従はず、霊に従ひて歩む――。』≪ロマ書八。一-四≫ 我らが赦されるのは、キリストが我らのために死に給ひしのみでなく、神が我らをキリストの中に観給ひ、そして最後までキリストに在るとき、完成さるべき状態に既に到達して居るものとして臨み給ふからである。

 二、我らは、主が備へ給うた凡ての満々たる恩恵に与る。主は、従順と練達の御生涯によつて、人生を聖め、我らに必要なあらゆる恩恵の宝庫となり、源泉となり給うたのである。

 これに関連して、彼の祝福の御垂訓≪マタイ伝五。三-一二≫を回想せねばならぬ。それらの神聖な鍛煉と、恩恵は、主が我に望み給ふこと一方ではないことを示す。されば、陪餐に於て、主が次の如き恩恵を我に許し給ふやう祈らねばならぬ。

 (一)精神貧しくなること――

    地上の事物から超越し、常に、主が如何なるものを求め給ふとも、直ちにそれを棄て得るやう心掛けること。

    人々の前に一貧者として謙遜すること。

///P104///

    神の御前には徹底的に卑下すること。

 (二)自身を悲歎すること――

    我自身と人々の罪のため、悔悟の念に発する衷心の悲愁であつて、「死を生ずる處の世の憂」ではない。それに依つて、真実に聖霊の御慰めを賜はることが出来る。

 (三)義に飢え乾くこと。そして――

    聖餐に依り、恩恵に満たされること。

    聖きに上達するやう願ふこと。

    全世界がこの正義に基づくやう願ふこと。

 (四)憐みある者とせられんこと――

    貧困者、寄辺なき者、病人等を援助すること。

    悟りなき者を教へること。

    罪人を改心させること。

    加害者を赦すこと。

///P105///

    生者と死者のために祈ること。

 (五)心清くせられんこと。そして――

    一切罪に根ざす思想の去らんこと。

    心が常に聖き思想と願望を以て飾られんこと。

 (六)平和の建設者とせられんこと――

    自身の心が温和なること。

    凡ての人に平和を求めること。

    隣人の間を平和にならしめること。

    人々の霊魂を神に和解せしめること。

 (七)義のためには迫害を忍び得るやう。それが――

    財産上または世評上であつても。

    誹謗にも、罵詈にも。

    家庭の内と事業の上とに関はらず。

 斯かる思想を呼び起し、かゝる祈祷を献げて陪餐の準備とし、若しくは陪餐後

///P106///

の感謝とせねばならぬ。主イエス・キリストは、斯かる恩恵を我に与へんと、如何ばかり望み居給ふかを思はねばならぬ。唯我が霊魂の必要のみを考へず、それを与へ給ふ主の御喜びをも思はねばならぬ。亦、我が冷淡と無関心とによつて、幾度か傷けられ給うた主の御慈愛をも思ひ、主の恩恵に充たされるやう、熟望を以て断えず聖餐に与らねばならぬ。そして惜みなく御自身を与え給うた主に、我もまた残るところなく献げ得るやう祈らねばならぬ。

 

     聖体祝日特祷

 

 神よ。主は此の大なる聖奠【サクラメント※】によりて御苦難【くるしみ】の記念を我らに遺し給へり。願くは、御体と御血の聖なる奥儀を崇め、恒に我らの裡に主の贖罪【あがなひ】の功果【いさを】を悟ることを得させ給へ。主は聖父【ちち】と聖霊と偕に一体の神に在して、世々限りなく統べ給ふなり アァメン

 

   聖範 第四巻 第十三章――十六章

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※ルビの”サクラメント”は”聖奠”の左側にふってある。通常のルビは文字の右側にある。新共同訳のバプテスマのようなものか。

 

 

 

===現代語訳案===2020.10.26

     三 陪餐の結果

 わたしたちは、聖奠の恵みによって、キリストにおり、主がわたしたちのために成就されたことに関与する。

 一、わたしたちは主の贖罪のための死のご功績を受ける。 『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 ――(それは、)肉ではなく霊に従って歩む――』からです。 ≪ロマ8:1-4≫ わたしたちが赦されるのは、キリストがわtしたちのために死んでくださったからだけでなく、神がわたしたちをキリストの中に見出され、そして、最後までキリストにあるとき、完成されるべき状態にすでに到達しているものとしてわたしたちにお臨みになられているからである。

 二、わたしたちは、且で主が備えてくださった全ての満ち溢れる恩恵を受ける。主は従順と練達の御生涯により、人の生を聖いものとし、わたしたちに必要なあらゆる恵みの宝庫となり、源泉となられたのである。

 これに関連して、主による山上の祝福の教え≪マタ5:3-12≫を回想しなくてはならない。それらの神聖な鍛錬と、恩恵は、主がわたしに一方的にお望みになられるものでないことを示す。そうであれば、陪餐においては、主が次のような恵みをわたしにお許しくださるように祈らなくてはならない。

  (一)心を貧しくすること

    地上の物事から超越し、常に主がどのようなものをお求めになったとしても、直ちにそれを捨て去ることができるよう心掛けること。

    人々の前で、一人の貧しい者として謙遜すること。

    神の御前にあっては、徹底的に自分を卑下すること。

 (二)悲しむ者であること

    わたし自身と、人々の罪のため、 悔い、悟る心から生まれる悲哀であり、「死を生むための世界の憂い」ではない。それによって、真実に聖霊のお慰めを賜ることができる。

 (三)正義に飢え乾くこと。そして、

    聖餐を受け、恵みに充たされること。

    聖さにおいて上達するように願うこと。

    全世界がこの正義に基づくように願うこと。

 (四)憐みを持つものとされるように。

    貧しい人、頼る者のない人、病気の人などを援助すること。

    悟りのない者に教えること。

    罪ある人を改心させること。

    加害者をゆるすこと。

    生きている人と死んだ人のために祈ること。

 (五)心が清くされるように

    全ての罪に根ざした思いが心を去るように。

    心がいつも聖い思想と願いによって飾られますように。

 (六)平和の建設者とされるように

    自分自身の心が温和であること

    全ての人に平和を求めること

    隣り人との間を平和なものとすること。

    人々の魂を神と和解させること。

 (七)正義のためにされる迫害を耐え忍ぶことができるように。たとえそれが、

    財産的なものや世上の評判に関わることであっても。

    誹謗中傷や、罵詈雑言を受けても。

    家庭またはビジネス上のことに限らず。

 

 このような考えを呼び起こし、この祈りを捧げて陪餐の準備とし、または陪餐後の感謝としなくてはならない。 主イエス・キリストは、このような恵みをわたしにお与えくださろうと、どれほど望んでおられるかを思わなくてはならない。自分自身の霊的な必要性だけを考えるのではなく、それをお与えくださる主のお喜びにも思いを巡らせなくてはならない。また、わたしの冷淡さと無関心によって、なんども傷つけられることとなった主のご慈愛を思い、主の恵みに充たされるよう、熱い望みをもって、絶えることなく聖餐を受けなくてはならない。そして、惜しむことなくご自身をお与えくださった主に、わたしもまた残ることなく自分を捧げることができるように祈らなくてはならない。

 

     聖体祝日の特祷

 神よ。主はこの大いなる聖奠【サクラメント】によって、お苦しみの記念をわたしたちに残されました。願わくば、御体と御血の聖なる奥義を崇め、常に私たちの心の裡に、主の贖いのいさをを悟ることができるようにしてください。主は父と聖霊とともに一体であり、世々限りなく統べ治められます。アーメン

 

   聖範 第四巻 第十三章~十六章

 

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よくみたらそれほど長くなかった…。

聖体の祝日ってどこか(東京のアンデレ教会?)でその礼拝に加わったことがあるような気もするが、

祈祷書にある公式な祝日には記載がない。

特祷も現在はないようだが、旧祈祷書があればちょっと調べてみたい。

もしかすると英国聖公会の祈祷書にはあるが、日本では取り入れられてないのかも。

 

2020.11.2 祈祷書の章祝日の欄に次の記載があったので追記。

>聖餐感謝日(三位一体主日・聖霊降臨後第1主日の後の木曜日)

 

 

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■ローマの信徒への手紙(8:1)

1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 

 

■マタイによる福音書(5:1-12)

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」