この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
+++++
======
///P110///
ニ 主の御復活、我らが新生命の源泉にして典型
御復活に於て、主の御体は光輝ある新状態に入り給うた。それは最早や空間と物質の制限に拘束されなかつた。それは聖パウロの所謂「霊体」となり、霊に依つて支配され活きて居るのであつて、神的生命と権能を完全に顕はす適当な器となつたのである。
若し我ら真実にキリストのものならば、キリストの御復活に基いて発する新生命、霊的復活が我らの裡に在る筈であると、聖パウロは言ふ。『キリスト父の栄光によりて死人の中より甦へられ給ひしごとく、我らをも新しき生命に歩まんためなり。』≪ロマ書六。四≫ 二個の事実は並行する。若し、我ら新生命の中に歩み得るとすれ
///P111///
ば、それは唯我らの裡に働き給ふ主の復活せられた御生命の能力に依つてである。
此の対照の基礎は何であるか。答えは憩うえある。キリストの御復活と我らの新生命との此の二つの源泉となり、原動力となるものは一つであり同じである。共に同一な神の御能力に発するのである。キリストは御復活に由つて『活かし』又『生命を与ふる霊』≪コリント前書一五。四五≫となり、主の復活生命を我らに伝へ、そして、我らの裡に、ご自身に似た者を形づくり得給ふのである。
この静修の成果として、キリストの御復活と、その中に我らが活きねばならぬ新生命との、類似の諸点を黙想せねばならぬ。
一、我らの主の御復活は真実である。それは、真実に死に給うた同一者の御復活である。真実に死に、そして葬られ、且、真実に死から甦り、屍衣を残して墓穴を去り、活きてエルサレムとガリラヤに居る主の弟子たちに現はれ給うた。主の御復活は幻影でも作り事でもなく、絶大であつて明白な事実である。
///P112///
我が霊魂も然かあらねばならぬ。此の静修から出ていくとき、我が魂は死から甦つた者の如く、罪に死に、霊の新生命に甦つた者の如くあるべきである。事実、依然として罪の墓中に横たはり、依然として悪習の屍衣に包まれて居るならば、単に出現のために甦らされても何の益があらうか。新生命の淡い幻影に何の効がある。それは、真実、心に悔悛も生活の改善もない無益な、似て非な新生である。之は、主の御復活が教える第一教訓で、信徒の信仰生涯の実質として必要欠くべからざるものである。
ニ、我らの主の復活し給うた生命は永続する。 『キリスト死人の中より甦りて復【また】死に給はず、』≪ロマ書六。九≫ キリストに在る我が新生命も之と同様の筈である。永続するものは実践的であり、霊的の復活である。実際、我は猶、誘惑と罪――或罪には弱く、それから全然逃れ得る希望がない――に従つて居るが、我が新生命、此の静修後の生命は、此の機会に於て、御復活せられたキリストの生命とすべきであって、それは少なくとも故意に犯す罪から免れしめる。
此は神の恩恵に依つて出来るのである。然し、よしや何時従来の誘惑に負け
///P113///
て、再び甚だしい罪に陥るとも、決して失望はせぬであらう。悔改めて再び起ち、そして赦罪を求める。又、種々の小罪のためには、日々の潔めがある。『もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互に交際【まじはり】を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む。≪ヨハネ第一書一。七≫
三、我らの主の御復活生命は、人々に顕はれ給うた。 『主は実に甦り、シモンに現はれ給へり。』≪ルカ伝二四。三四≫ 唯シモンのみならず、エルサレムとガリラヤに於て多くの人々に顕はれ給うた。
その如く我が心霊的復活、我が新生命もまた、人々に、殊に感情を害して居る者、又は悪感化を及ぼして居る者に顕はれねばならぬ。或種の恐怖から、我が変化したこと、此の静修が真に効果のあつたこと、そして又、神の御栄光のため新生活を営むための此處から出ていくことを、躊躇して人々に隠してはならぬ。
復活主日特祷
聖範 第三巻 第四十七章。第四十九章。
=====
===現代語訳案===2020.10.30
ニ 主の御復活は、わたしたちの新しい生命の源泉であり典型
ご復活によって、主の御体は光り輝く新しい状態になられた。それは、もはや空間的・物質的な制限に拘束されるものではない。それは、聖パウロが言う、いわゆる「霊体」の姿であり、霊によって支配され、活きているのであり、神による生命と権能を完全にあらわす適切な器になったのである。
もし、わたしたちが真実にキリストのものであるなら、キリストのご復活に基いて発せられる新たな生命、霊的な復活がわたしたちの内面に存在するはずだと聖パウロは主張する。『キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』≪ロマ6:4≫ 二個の事実は両立する。もし、わたしたちの新しい生命の中に歩むことができるとすれば、それはただわたしたちの内面にお働きにになる主がご復活させられた生命の能力によってである。
これに照らし合わせるための基準は何だろうか。答えはこうだ。キリストのご復活とわたしたちの新しい命という二つの源泉となり、原動力となるのは同じもの、すなわち神のお力から発生する。キリストはご復活によって、『命のある』もの、また『命を与える霊』≪1コリ15:45≫となって、主の復活の生命をわたしたちに伝え、そしてわたしたちの心のうちに、ご自身に似た者を形作ることがおできになったのである。
この静修の成果として、キリストのご復活と、わたしたちがその中に生きなくてはならない新たな生命との類似点を黙想しなくてはならない。
一、わたしたちの主のご復活は真実である。 それは間違いなく亡くなっていた方と、同一の方がご復活されたということである。事実、主は死んで、葬られ、そのうえで死からよみがえり、死者のための衣を残して墓の穴を去り、生きた存在としてエルサレムとガリラヤにいる主の弟子たちのもとに姿をあらわされた。主のご復活は幻影でも作り話でもなく、重大で明白な事実である。
わたしの魂もそのようでなくてはならない。この静修を終えて、実社会に戻るとき、わたしの魂は死からよみがえった者のように、罪において死に、霊による新しい生命によみがえった者のようであるべきである。
もし、死者がよみがえったところで、単に人の前に姿を現すためだけの存在であり、依然として罪という墓の中に横たわり、悪習慣という死者の衣に包まれているのであれば、それに何の利益があるだろうか。新たな生命の淡い幻想にどのような効果があるというのだろうか。それは心に悔悛も生活の改善も伴わない無益な、新生に似て非なるものである。これは、主のご復活が教える第一の教訓であり、信徒が実質的な信仰の生涯を送るために必要不可欠のものである。
ニ、わたしたちの主が復活された生命は永遠に続く。『死者の中から復活されたキリストはもはや死ぬことがない、』≪ロマ6:9≫ キリストにあるわたしの新たな生命も、これと同様のはずだ。永続するものは、実践的で、霊的な復活である。実際に、わたしはそれでも誘惑や罪――ある罪に対して弱く、完全にそれから逃れられる希望がない――に従っているが、わたしの新たな生命、この静修の後の生命は、今回の機会を得て、ご復活されたキリストの生命と同じものにさせなくてはならない。それによって、少なくともわたしたちが故意に犯す罪からは免れることができる。
これは、神の恵みによって成し遂げることができるものであり、もしいつの日か、これまでと同じように誘惑に負けてしまい、ふたたび深刻な罪の中に陥ることがあっても、決して失望することはないだろう。そのときにも、悔い改めて再び立ち上がり、そして神に許しを願うのである。
また、様々な小罪のためには、日々の清めがある。『神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』≪1ヨハ1:7≫
三、わたしたちの主のご復活の生命は、人々の前に現われになった。『本当に主は復活して、シモンに現れた』≪ルカ24:34≫ そして、シモンだけでなく、エルサレムとガリラヤにおいても、多くの人々の前に姿を現された。
このような霊的な復活、わたしに与えられた新しい生命もまた、人々――特に感情を害している者、悪い感化を受けている者――に顕れなくてはならない。自分が変化したこと、この静修が本当に効果のある者だったこと、そしてまた、神のご栄光のために新たな生活を送るためにこの場所から出て行くことについて、人々に伝えることを恐れたり、躊躇して隠そうとしたりしてはならない。
復活主日特祷
聖範 第三巻 第四十七章。第四十九章
======
第一静修はこれで終わりです。13章、100ページ程度でしたが、とても長い作業でした。
それでもまだ全体の1/3も行っていないくらい。
読んで、書いている中でだいぶ言葉遣いの揺らぎや、悩ましい表現があるので、
それは作業を進めながら良い表現・言葉を見つけられればよいかと思う。
屍衣とかも、死に装束だと何か日本の幽霊の白い着物的な感じになっちゃうしなあ…。
あと魂、心霊、霊魂なども意図的に使い分けているのだろうか。原文はspiritかな。
あとは、ひらがなにするか漢字にするか。「わたし」は祈祷書やらにあわせてひらがなに合わせるようにしたけど、
ほかにも色々ろあるから追々見直さないといけないのだろうなあと思う。
+++
この章自体は、最期らしく前向きな話で終わっていたのだけど、
この第一静修を通じて、「静修の成果」を強調しているのがなんとなく意外というか、
リトリートって答えがないと言うか、自問自答して考える時間を持つことで、
自分の中で何か発見すればいいのかくらいで、ビジネスのように結果を求めるのではないように思っていた。
しかし、この本の中でくどいくらい求められているのは、「決心」であり「変化」である。
結果が伴わなければ、静修を重ねても意味がない、祈るだけでなく、自分が変わらなければならない。
その考え方は、さすが長い間用いられている=効果を上げている書籍だと思う。
最期の、あたりの注意で、一昔前、ましてキリスト教の本場であるヨーロッパにおいても、
「静修はとてもためになったよ」と表明することに躊躇を感じるものがあるのか、とも思うけど。
>神の御栄光のため新生活を営むための此處から出ていくことを、躊躇して人々に隠してはならぬ。
ってところは、聖餐式の最期の「主のみ名によって行きましょう!」に通じるものがある。
静修を終えて、新しい命を得た者として、社会に派遣されるものとなる、ということだろうか。
前向きで良きかな。
+++++
■ローマの信徒への手紙(6:4,9)
3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 7死んだ者は、罪から解放されています。 8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
■コリントの信徒への手紙一(45)
44つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 45「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 46最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
■ヨハネの手紙一(1:7)
6わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。 7しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 9自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
■ルカによる福音書(24:34)
(エマオへの道でイエスに出会った二人の弟子が、それがイエスであると気づき、「あのときわたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったあとで) 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。