この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、
英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を
現代語に書き改めようというものの一部です。
全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。
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第一黙想 靜修への神の召命
『我かれを誘ひて荒野にみちびきいり、終にかれの心をなぐさめ・・・・・・』。≪ホセア書二。一四≫
一
一、此の靜修を行はんとする心は神が起させ給うたのである。如何なる事が我を導いて此處に來るやうに決心せしめても、理由は種々あらうが、この凡ての背後にあるものは神の御指導と恩惠の御誘ひとによるものである。故に、この御目的と恩惠に應じた奉り、我が全心を以て此の靜修に入り、全精神を統一して之に注ぎ、正確に各修養を履行するやう努め、神が我に得させんと望み給ふ此の靜修よりの果實を凡て拝受せねばならぬ。不注意や散漫、或は精神上、乃至肉體上の懶惰から、神が與へんとし給ふ祝福を失うてはならぬ。
ニ、静修の機會は凡ての人に與へられる恩恵ではない。我が周圍に住む幾多の
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人々は世に神なくして生活して居る。少くとも、微温であり、信者とは名のみで、靜修の機會もなく、よしや有つても之を用ゐないのである。我には神が機會と召命を下し給うた。此の恩惠を無益に費してはならぬ。來たときと何も變らず出て行くことは出來ぬ。若し進歩せぬならば一層退歩し、一層頑迷盲目となるに相違ない。ああ、我が神よ。我をして眞劍ならしめ給へ。熟誠ならしめ給へ。我を祐けて、凡ての雜年と煩憂を去り、全心を以て爾【なんぢ】を尋ねしめ給へ。さすれば、我爾を見出し、爾に見出さるべし。『汝その神主を求むるあらんに、若し心をつくし、精神を盡してこれを求めなば之に遇はん。』≪申命記四。二九≫此は我への御約束である。
三、今入らんとする靜修は、恐らく、我が最終の機會であらう。それが事實とすれば、如何なる熟誠と注意をもつべきであらう。もし、前の靜修に熟誠が缺け、改善の果實が少くあつたならば、今度はその失敗を償ひ、眞に良靜修を行つて、我が靈魂を神との正しい関係に復するやう心懸けねばならぬ。
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ニ
一、神は我を祝し聖別し給ふ思召を以て、外界からの離脱よりも、内面的獨居のために招き給うたのである。されば、全力をこの修業に注ぐために、妨げとなる一切の事物を我が心情から棄てねばならぬ。此の靜修の日々を世に神と我の他何ものもない如く過さう。此の數日は皆神のものであり、如何なる些事も我に関係がない。注意して、精神を濫費してはならぬ。恰も曠野に居る如く、神は唯我一人と偕に在して、我が心に語り、我は主の御言のみを聽くことを欲し給ふのである。
ニ、主の聖善、主の生命、主の愛の御臨在と御能力に我を献げねばならぬ。キリストは御在世中之を必要とし給うた。肉體に於ける御子の御生涯は、屡々一人離れて御父とのみ居るを必要とし給うたのである。我にとつて其の必要如何許りであらうか。
三、神とのみ偕に――それは祈祷に於ける眞の力、神と眞に友となる神への奉
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仕の秘訣である。屡々神とのみ獨居せずしては、眞實もなく、衷心の悔悛もなく、眞の聖善もなく、聖靈と能力に満たされることもない。それは此の靜修が好機會となつて、規定により、日々相次いで行ふ黙想の目的である。其はまた此の靜修全體の目的である。神が我を招き出し給うたのは、直接我が心に語り、更に全くご自身を知らしめ、如何に我があるべく、我が爲すべく望み給ふかを示さんためである。されば、靜かに拜聽しよう。「僕聽く、主よ、語り給へ。我が靈魂は主を仰ぐ、我に爲さしめんと欲し給ふことを示し給へ。」といはう。
三
一、此の靜修の目的は、唯平常よりも多く黙想と祈祷に時を費すのみではない。それは良靜修に必ず伴ふべきであるが、それが全體ではなく、他の何ものかのためである。それは我が心の眞状態を發見し、我が過失、不完全、惡癖等を明白に悟り、心靈上にも現生活上にも、如何に日々の責任を果したかを吟味し、生活の改善と正しい目的の再建を志し、我に就ての聖意を尋ね知り、我自身を神に
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献げて、心靈も行爲も聖意のままに在らしめることである。
ニ、若し此の靜修が右の状態に導かぬならば、如何なる温情と善望を起したとて、神が我らに望み給ふ爲すべきことを果したのではない。暖かい感情は冷却する。善良な希望は果を結ばずして終る。此の靜修が何かの結果を求めるとすれば、それは一種特別な、決定的な事でなくてはならぬ。我は、神に對し、隣人に對し、自身に對して、如何なる特殊の義務が果せず居るか反省せねばならぬ。神が我に爲さしめんとし、或は、爲しつゝあるやう望み給ふ特殊の決心はなんであるか、その御教示を願ひ、これが恩惠によつて保持さられるやう熱心に祈らねばならぬ。
三、斯くするとき、此の靜修は實踐的に、決定的のものとされ、此が終了するとき、我が日常生活に果實を結ぶに至る。そして我は神への道に一歩進められて、其處を確保し、次回の靜修に來るとき、唯に失はれた地歩の恢復や、粉砕された廢殘生命の修理のみでなく、そこが一の占領地點となつて、更に高尚な偕程に向つて進むことが出來であらう。
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さらば、今晩かく黙想しよう――
一、神が此の靜修に招き給うたのは、何か我に語り給はんがためである――聖助と祝福とを與へ給はんがためなのである。
ニ、御聲を拜聽し得るため我が靈魂の準備をせねばならぬ。努めて、此の靜修に関係ない思想を排し、神とのみ偕に居らう。
三、決意的であり、實踐的でなければならぬ。我が生活を省察して、失敗し邪曲した事を知らねばならぬ。神が今何をなさしめんと欲し給ふか、その御示しを求め、それを成就するために恩惠と勇氣とを願はねばならぬ。かくして、此の靜修の唯一の結果として専念保持すべき、或る確定されたものを悟らねばならぬ。
聖範 第一巻 第二十章
第三巻 第五十三章
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使用されている旧字体の漢字をなるべく使用するようにした。環境依存の文字は文字化けがあるので使用していません
===現代語訳案==(2020.11.5)
第一黙想 静修への神の召命
『わたしは彼女をいざなって 荒れ野に導き、その心に語りかけよう……。』≪ホセ2:14≫
一
一、この静修を行おうとする心は神からのものである。 どのような事情がわたしを導き、この場所に来るように決心させたとしても、その様々な理由の背後にあるのは神によるご指導と恩恵である誘いによるものである。そのため、このご目的と恵みにお応えし、私は全霊をつくしてこの静修に入り、全精神を統一してこれに注力し、正確に各修養を実行できるように努め、神がわたしに得させようとお望みになっているこの静修による果実をすべて謹んでお受けしなくてはならない。注意力の不足や散漫、または精神的・肉体的な怠慢によって、神がわたしにお与えくださろうとした祝福を失うことがあってはならない。
ニ、静修の機会はすべての人に与えられる恵みではない。 私の周囲にいる多くの人々は、神がいない世界で生活をしている。それは言い過ぎにしても、情熱と呼べるほどの熱意はなく、キリスト者とは名ばかりで、静修の機会をもつこともなく、もしその機会があったとしても活かそうとしない。一方、神はわたしに機会と召命を与えてくださった。この恵みを無益に浪費してはならない。この静修を終えるときに、来たときと何も変わらないままに帰ることはできない。もし、進歩できていなければ、それはむしろ後退であり、わたしは一層頑なで盲目的になっているに違いない。ああ、わたしの神よ。わたしが真剣であるように、熟誠できるようにさせてください。わたしを助けて、すべての雑念と憂いを取り去り、全霊をもってあなたを尋ね求めさせてください。そうすれば、わたしはあなたを見出し、またあなたに見出されます。『あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。』≪申4:29≫ これは、私に対する約束である。
三、今はじまろうとしているこの静修は、おそらく私にとって最後の機会になるだろう。 それが事実であれば、私はこの静修に対してどれだけの熟誠と注意を持つべきだろうか。もし、前回の静修のときに熟誠に欠け、静修による改善の果実が少なかったのなら、今回は、その失敗を償い、本当に良い静修を行うことで、わたしの魂を神との正しい関係に回復させることが出来るように心がけなくてはならない。
ニ
一、神は私を祝福し、聖別された。その思召しにより、外の世界から離脱することのではなく、わたし自身が内面的に一人になるためにお招きくださったのである。それならば、すべての力をこの修業に注ぐため、わたしの心から妨げとなる一切の事柄を捨て去らなくてはならない。この静修の日々は、世界に自身と神以外の何物もないかのように過ごそう。わたしに与えられたこの数日はすべて神のものである。そのほかのどのようなことも些末な事であり、私には関係のないことだ。別の事柄に注意を向けて、精神集中を浪費してはならない。あたかも荒野にいるかのるように、神は唯わたし一人とともにおられ、わたしの心に語りかけ、わたしが主のみ言葉だけを聴くことをお求めになる。
二、主の聖なる善、主の生命、主の愛のご臨在とみ力に、わたし自身を献げなくてはならない。キリストがこの世におられたときに、それを必要とされた。肉なる体を持たれたとみ子は、そのご生涯において、一人であることを離れ、ただ御父と一緒にいることを必要とされた。それは私にとっても同様であり、その必要性はどれほどであろうか。
三、ただ神とともに――それは祈りによる真の力であり、神と真に友となるための神への奉仕の秘訣である。ただ神だけとともに独居できなければそこに真実はなく、心からの悔悛もなく、真の聖なる善もなく、聖霊とみ力に満たされることはない。それらが、この静修を好機として、一定のルールに基づいて行われる黙想の目的である。そしてまた、この静修全体の目的でもある。神がわたしをお招きくださったのは、直接わたしの心に語りかけ、わたしに神ご自身を知らせ、わたしがどのようにあるべきか、わたしがどうすることを神がお望みかをお示しくださるためである。それならば、私たちは静かに拝聴し、こう言おう。「しもべはお伺いいたします。主よお話しください。わたしの魂は主を仰ぐ。わたしにさせようとお求めになることをお示しください。」
三
一、この静修の目的は、単にいつもよりも多くの黙想と祈りに時間を割くことだけではない。それらは、良質な静修には必ず伴うものだが、それが全てではなく、そのほかに重要なものがある。それは、わたしの心の真の状態を見つけ、自分の過失、不完全さ、悪い習慣などを明確に悟ることで、霊的・日常的な生活においてどのように日々の責任を果してきたかを吟味することである。これにより、生活を改善し、正しい目的を再建することを目指し、わたしについてのすべての聖なる意思を尋ね、知り、わたし自身を神に献げて、魂も肉体の行為もすべて聖なるご意思のままにさせることである。
二、もし、この静修によってそのような状態に導かれることがなければ、どれほどの温情と善良な希望が起こったとしても、神がお望みになったわたしたちがのなすべきことを果たしたとは言えない。温もりはいずれ冷え、善き望みも実を結ばずに終わる。私たちが、この静修を通じて何らかの結果を求めるとすれば、それはある種の特別な、決定的なことでなくてはならない。わたしは神に対し、隣人に対し、自分自身に対してどのような特別な義務を果たすことが出来るか、省みなくてはならない。神がわたしにさせようとされ、あるいはその途上にあるように特別な決心とはなにか。そのご教示を願い、それが恵みによって保たれるよう、熱心に祈らなくてはならない。
三、このように実践するとき、この静修は決定的なものとされ、この静修が終るときに、わたしの日常生活に静修の果実を結ぶことができる。そして、わたしは神への道を一歩進め、その場所を確保することができる。これにより、もし次に静修の機会を受けたときに、霊的な後退した距離を取り戻そうとしたり、打ち砕かれた残りの生命を修理しようとすることから始めるのでではなく、一歩進んだ場所から更に高尚なステージに向かって歩みを進めることができるだろう。
そのため、今晩は次のように黙想しよう――
一、神がこの静修にお招きくださったのは、わたしに何かをお話しくださるためである――聖なる助けと、祝福をお与えくださるためである。
ニ、神のみ声を拝聴し得るため、わたしは魂の準備をしなくてはならない。この静修に関係のない思考を排除するように努め、ただ神とだけともにいよう。
三、決意的であり、実践的でなくてはならない。わたしの生活を顧みて、わたしが失敗し、ゆがんでしまっていることを知らなくてはならない。神が今私に何をさせようとされているかをお示しくださるよう祈り求め、それを成就するために更なる恵みと勇気を願わなくてはならない。そうして、この静修の唯一の結果として、保持できるような確定された「何か」を悟らなくてはならない。
聖範 第一巻 第二十章
第三巻 第五十三章
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■ホセア書(2:14) 新共同訳 ・・・ 新共同訳では1節・2節が追加されているため、大正文語訳14節=新共同訳16節。また、NKJも大正文語訳に同じ。なお、英語では荒れ野に連れていかれるのは”彼女”である。
13わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち 祭り、新月祭、安息日などの祝いを すべてやめさせる。
14また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。 「これは愛人たちの贈り物だ」と 彼女は言っているが わたしはそれを茂みに変え 野の獣がそれを食い荒らす。
15バアルを祝って過ごした日々について わたしは彼女を罰する。 彼女はバアルに香をたき 鼻輪や首飾りで身を飾り 愛人の後について行き わたしを忘れ去った、と主は言われる。
16それゆえ、わたしは彼女をいざなって 荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
17そのところで、わたしはぶどう園を与え アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。 そこで、彼女はわたしにこたえる。 おとめであったとき エジプトの地から上ってきた日のように。
18その日が来ればと 主は言われる。 あなたはわたしを、「わが夫」と呼び もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。
■ホセア書(2章)大正文語訳
13われかれが耳環頸玉などを掛てその戀人らをしたひゆき我をわすれ香をたきて事へしもろもろのバアルの日のゆゑをもてその罪を罰せんヱホバかく言たまふ
14斯るがゆゑに我かれを誘ひて荒野にみちびきいり終にかれの心をなぐさめ
15かしこを出るや直ちにわれかれにその葡萄園を與へアコル(艱難)の谷を望の門となしてあたへん彼はわかかりし時のごとくエジプトの國より上りきたりし時のごとくかしこにて歌うたはん
■Hosea 2:14
13 I will punish her For the days of the Baals to which she burned incense. She decked herself with her earrings and jewelry,
And went after her lovers; But Me she forgot,” says the Lord.
14“Therefore, behold, I will allure her, Will bring her into the wilderness, And speak comfort to her
15 I will give her her vineyards from there, And the Valley of Achor as a door of hope; She shall sing there, As in the days of her youth,
As in the day when she came up from the land of Egypt.
■申命記(4:29)
25あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、 26わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。 27主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。 28あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。 29しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。 30これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。 31あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。