『静修指導書』現代語訳の道 -13ページ目

『静修指導書』現代語訳の道

昭和10(1935)年9月 福音史家聖ヨハネ修士会 発行
『静修指導書-聖イグナシウスの方法による-』の文字データ化と
ことばの現代語訳を行うための記録。

この記事は、昭和10年(1935年)9月に日本聖公会の福音史家聖ヨハネ修士会が発行した、

英国教会W.H.ロングリッジ修士による、イグナシオ・デ・ロヨラによる静修の指導書(黙想題)を

現代語に書き改めようというものの一部です。

全3回の静修(リトリート)のため、第1回・第2回は各13、第3回には19の黙想題が収録されています。

 

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   第二默想 我が救靈の業

 

 序想一 『畏れ戰【おのの】きて己が救を全うせよ。神は御意【みこゝろ】を成さんために汝らの衷にはたらき、汝等をして志望【こゝろざし】をたて、業【わざ】を行はしめ給へばなり。』≪ピリピ書二。一二、一三≫ 『ますます勵みて汝らの召されたること、選ばれたることを堅うせよ。』≪ペテロ後書一。一〇≫

 序想二 此の修業に於ての熱誠、勇気、忍耐のため祈る。

 

     一 我が救靈は我自身の事業である

 何人も我に代つて之を行うことが出来ぬ。神御自身でさへ、我が意向と努力なしには爲し難い。神の恩惠に助けられて、我が救靈を成就せねばならぬ。我は神から召されたことと、選ばれたことを確かめねばならぬ。

 神は我を召して、救ひの道に入れ給うた。我が世の最後まで此の道を進むならば、終には完全に救はれるであらう。此が繼續の條件は次の如くである。(一)

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世と肉と惡魔とを棄てること。(ニ)普公信仰を保つこと。(三)終生、神の聖意と誡律を遵奉すること等である。是らはみな我自身の行爲に屬する。

 我は、事實、此らの條件を承認して居るであらうか。 洗禮の恩惠に對して此らの約束に應答して居るであらうか。我が召命と神選を確保するために、熱誠を献げて居るであららか。若しそれに忠實であるならば、如何に困難であり、如何に誘惑が烈しくとも、これを實行することが出來る。【テサロニケ前書四。三、テモテ前書二。四、参照】 何となれば、我は孤獨ではない。我が裡に働き給ふ神が、聖旨にかなふやう我に行はせ給ふのである。

     ニ 注意と努力を要する事業

 一、『主よ。救はるる者は少きか』と問はれ給うた時、主はこれに對する直接の答を與へず、『力を盡して狭き門より入れ。我なんぢらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。』と言ひ給うた。≪ルカ傳一三。ニ四≫ 更に、『滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし、生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少し。』と宣うた。≪マタイ傳七。一三 一四≫

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 ニ、我らの主は此が我にとつて望外の難事である如く言ひ給はなかつた。主の御言は我が救靈事業を眞面目に考へさせ、周圍の大衆を標準にして、我も滅にいたる廣い路を歩んで居るであらうか。多數が然りと主は言ひ給ふ。我が生活を周圍の多くの人々と比較せず、主の御教を以て試みねばならぬ。主は我を「勵み競ふ」ために招き給うた。この語は非常に意味強く、公競技の際のやうに、あらん限りの努力を盡すことである。『狭き門』とは自責と改心とを指し、『細き路』とは鍛錬と十字架とを意味するのである。

 三、或は彼の『幸福【さいはひ】なる哉』≪マタイ傳五。三-一ニ 同五。ニ七-六。三五≫ に於ける主の御垂訓にも思ひ當る。それらは、少くとも、我が心中に生ずる意気ではあるまいか。或は、十誡の精神に就いて、祈祷に就いて、斷食について、施與に就いて、先づ神の國と神の正義とを求めること、人は二主に仕へ得ずとのこと、等の御垂訓をも連想せねばならぬ。我らはみな主の聖訓の上に世の虚飾を塗り、そして滿足な信者としての生活を營んで居るが如く思うて居る。危險なことである。我らは此の世の標準に従つて生活して居

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るのである。此は主が警告し給うて居る處の「廣き路」を行くのでなくして何であらうか。

 神前に自ら問はねばならぬ。我は狭き門に入り、細き路を進むと考ふべき適當な理由があるか否か。我が信仰の道は確實であるか。キリストに從ひ、主に肖る者とせられんとして居るであらうか。我が生活中、何か努力し奮勵し、爭闘して居る如く思はれる事があるであらうか。

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献げて居るであらか、は原文ママ。おそらく、あらかの誤植。

 

 

===現代語訳案===2020.11.14

   第二默想 わたしの魂を救うための事業

 

 序想一 『恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。』≪2フィリ2:12-13≫ 『召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。』≪2ペト1:10≫

 序想二 この修業における熱誠、勇気、忍耐のために祈る。

 

     一 わたしの魂を救うことは自分自身の事業である

 誰であれ、これをわたしの代わりに行うことはできない。わたしがそれをしようと望み、努力しない限り、神ご自身であってもそれをすることは難しい。神のみ恵みに助けられ、わたしは自身の魂を救う事業を成就させなくてはならない。

 神はわたしを召して、救いの道に入れてくださった。私が世の終わりまでこの道を進むのならば、最後の時、わたしは完全に救われるだろう。これを継続するための条件は次の通りである。

 (1)世俗的なもの、肉の欲、悪魔とのかかわりを捨て去ること

 (2)公会の普遍的な信仰を保つこと

 (3)生涯にわたって、神の聖なるみ心と戒律を遵守すること など

 これらはすべて、わたし自身の行為に由来する。

 わたしは、実際にこれらの条件を認めているだろうか。洗礼の恵みに対して、これらの約束に応答しているだろうか。わたしへの召命と神による選択を確保するため、熱誠を献げているだろうか。もしそれに忠実であるなら、どれほどの困難も、どれほど激しい誘惑であっても、それを実行することができる。≪1テサ3:4、1テモ2:4参照≫ それならば、わたしは決して孤独ではない。わたしのうちに働きかけられる神が、み旨にかなうようにわたしにそうさせているのである。

 

     二 注意と努力が必要な事業

 一、『主よ、救われるものは少ないのでしょうか」と尋ねられたとき、主はその問いには直接答えず、『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と仰られた。≪ルカ13:24≫ 更に、『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』≪マタ7:13-14≫と仰った。

 

 二、わたしたちの主は、魂の救いがわたしにとって途方もない難儀であるようにはおっしゃらなかった。主のお言葉は、わたしの魂を救うための行動を真剣に考えさせるものである。周囲の人々もそうであるからと、わたしもまた滅びに通じる広い道を歩いているのだろうか。大多数はそうであると主は言われる。わたしの生活を周囲の多くの人々と比較して良し悪しを考えるのではなく、主の教えによってそれを試みなくてはならない。主はわたしを「励み競う」ためにお招きくださった。この言葉の意味はとても強い。それは、スポーツ競技のように、あらん限りの努力を尽くすことである。『狭い門』とは自責の念と悔改める心を指し、『細い道』とは鍛錬と十字架を意味する。

 

 三、あるいは、『幸いである』と呼ばれた山上の垂訓≪マタ5:3-12、5:27-6:35≫にも思いあたる部分がある。それらは、少なくともわたしの心の中に生れる意気ではないだろうか。または、十戒の精神、祈祷について、断食や施しについて、まずは神の国と神による正義を求めることである。人は二人の主人に仕えることはできないという教えも連想しなくてはならない。わたしたちはみな、主の聖なる教えの上から世間的な虚飾を塗り重ね、それによってキリスト者として満足な生活を営んでいるかのように考えている。これは危険なことだ。わたしたちは、世間的な「普通」に従って生活している。これが、主が警告されている「広い道」を行くことでなくてなんだというのだろうか。

 神の前に自らに問わなくてはならない。私は狭い門から入り、細い道を進むと考える適切な理由があるかどうか。わたしの信仰は確かなものであるか。キリストに従って、主に似せて造られたものとしているだろうか。私の生活の中で、何かに努力し励み、奮闘しているかのように思えることがあるだろうか。


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旧字体を使う方が、原文の雰囲気を伝えることが出来ている感じはするのだけど、

ちょっと手間がかかるのはどうしようかしらん。

 

仕事が忙しくなってきたのでなかなかこの作業が滞ってしまっているなあ、

と思っているところにこの、世間を基準にした広き道を歩いてはいませんか?というお言葉。

大変考えさせられる。

”その日”が来た時に、

「あんた、良いことしようとして、色々考えてたのに、目の前の仕事の事ばっか考えて、

作業を後回しにしたでしょ?」

と言われてしまわないようにもう少し頑張ろう。

 

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■フィリピの信徒への手紙(2:12-13)

12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

 

■ペテロの手紙2(1:10)

3主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

(中略。信仰に徳を、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には信心、信心には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えることで、イエスをもっと知ることが出来る、という趣旨)

 9これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。 10だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。 11こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

 

■テサロニケの信徒への手紙(3:4)

(前段)パウロはテサロニケに行こうとしたが、何度も邪魔が入って向かうことができなかった。そのため、自身はアテネに残り、テモテを派遣することにした。

4あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 5そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。

 

■テモテへの手紙(2:4) 

(前段)わたしたちが常に信仰と品位のある生活をするためには願いと祈りと執りなしと感謝をすべての人に捧げなくてはならない。

3これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

 

■ルカによる福音書(13:24)

22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。