日本帰省Part 6 | アラスカの自然に囲まれて

アラスカの自然に囲まれて

アラスカ州のアンカレッジは自然がいっぱいで、季節の移り変わりを日々肌で感じる自然に密着したくらしです。このブログでは、ここアラスカでの釣りや山登りなどアウトドアライフを中心に、私の見た事、感じたことなどを独断と偏見で紹介します。

この記事が日本帰省についての最後の記事になります。

 

少し迷いましたが、今回の日本帰省の主な目的は両親にあうこと。

なので、両親との時間のことを書かないわけには行かないと思います。

 

5月25日に私とカミさんは私の八女の実家についたのですが、カミさんは八女では2泊のみ、その後は6月2日に東京にむかうまで玉名の実家で両親と過ごしました。

 

私は、5月30日から1泊で玉名のカミさんの実家の両親にあいに行った以外は6月2日までずっと八女。

 

両親も歳をとり、特にうちは父が弟と一緒にすんでいるだけ。

母は介護施設です。そんな状況なので、嫁や婿が一緒に泊まるより、自分の息子や娘だけのほうが色々気を使わずに、楽しく過ごせるだろうと思ったからです。

 

うちは4つ下の弟が、実家で父と一緒に住んでいてくれるので、有り難いです。食事の手配や掃除、町内会の行事のこともやってくれているようで、少しびっくりしました。

 

一度、隣組の集まりで道路愛護にいき、近所の道の脇で弟と一緒に隣組のヒトに混じって、ゴミ拾いをしました。

弟が私を、隣組の人たちに紹介しました。弟はこの街にしっかり根をおろしています。一緒にゴミ拾いして、何故か楽しかった。

 

この弟がいなかったら、私は今みたいに好き勝手出来ていないでしょう。

 

有難う。

 

親父も歳をとりました。まだ元気に動き回っていますが、もう89歳。少し物忘れも出てきているようです。食も細くなってきているので心配していましたが、昼飯代わりに焼き芋2個平らげたり、巻きずしとイナリの詰め合わせ6個を食べたりしたのを見たので少し安心しました。

 

6月1日、東京へ発つ前日には父、弟、そして私の3人で久留米にある介護施設に母の面会にいきました。コロナの警戒のため事前に申請してやっと許可がおりたしだいで、私は初めて、弟と父も3ヶ月ぶりでした。

 

正直愕然としました。4年前に会ったときから比べると全く別人。途中の経過は写真などでみて少しはわかっていましたが、まさかここまで変わるとは。弟の話ではこれでも、顔色が良くなり少しふっくらしてきたとのこと。胃ろうをしたのと、施設での介護が行き届いているせいでしょう。

 

覚悟はしていましたが、母は私がわかりませんでした。母自身が、25年くらい前、祖母が老人ホームにはいって、着替えなどを持って面会に行った時に、祖母は母(実の娘)のことがわからなくて愕然としたと言っていたのを思い出しました。

 

ショックはありませんでした。なぜショックがなかったのか、正直考えるのが少し怖くなります。長く離れて暮らして、私自身もそこにいる老人に自分の母親を見ることができなくなってしまったからなのか。それとも、心理学なんて言う学問を生業にしているため、知識で自分の心を防御しているのか?

 

試しに、「昔日本丸に乗ってハワイに出向する時、東京にあいに来たろうが。あの息子たい」(筑後弁です)というと、わかったように反応しました。弟と父のことはわかり、その他にもうひとり長男がいることはわかっているようです。わからないのはここにいるのがその長男ということ。介護士さんたちも一緒に「昨日写真見て予習したでしょう」と促してくれます。

 

なんとなく、全くの他人では無いことはわかっているようですが、その先がハッキリしないようです。

15分ほどの面会、特に嬉しいような感情表現も見えませんでした。考えてみれば、3ヶ月とか4年に1回しか会わない

抽象的な家族より、毎日実際に世話をしてくれる介護士の人たちが今の母にとっては、嬉しいとか悲しいとか思う対象なのでしょう。

 

面会の最後、一緒に写真をとりました。スタッフの方が丁寧にとってくれました。

 

 

左が弟、真ん中が父、そして前でクルマ椅子に座っているのが母です。

 

母はどうおもっているのでしょう?

 

家に帰り、夕食を済ませ、父と私でお茶を飲んでいると、父がポツリといいました。

 

「人間は、悲しいね」

 

私はどう返答したのかよく憶えていませんが、やっぱり自分はこのヒトの息子だなと思いました。

だって、同じようなことを考えていましたから。具体的にどういう意味なのかは自分でもハッキリしませんが。

 

カミさんの両親のことも少し。

 

泊まりに行った日の夜は、遅くまで4人(カミさん、私、そしてカミさんのお父さんとお母さん」で話をしました。

色々な話をしましたが、ほとんどは自分の子どもたちに何がしてやれるかの心配事ばかり。

 

カミさんのおとうさん、涙もろくなりました。柔道5段で、ほとんど真四角のような体格の、どすの聞いた低音で喋るヒトでしたが、元気がなくなりました。なんかのきっかけで、自分の父親の話になると、涙目に。こんなオトウさん見たこと無い。

 

今回の帰省はコロナのせいで間が空いて4年ぶり。ある意味、浦島太郎状態でした。

 

これからは、なんとしても1年に1度、いやもしかするともっと帰らねば、私もカミさんも、それぞれに同じことを思ったようです。