青木正樹
学園祭は成功した。2年6組の主催したお化け屋敷は全体の集客数が2位。これは成功と言えるだろう。2位というのも素晴らしいと思う。1位を取れなかった悔しさ、この悔しさこそ学校で学ぶ大切なことの一つだと思う。1位を取ったらクラス全員にラーメンを奢る、そう約束していた。
残念ながら1位ではなかった、でもみんなよく頑張った、みんなのおかげだ
クラスの青春に一枚噛む、教師として誇らしいものであった。学園祭が終わった後、学級委員の芽依に打ち上げに誘われた。
先生、今日お好み焼き屋で打ち上げやるんです、先生の家って学校の近くでしたよね
そうだよ
ぜひ来てください、みんな待ってます
本来ならダメかもしれないが、こういう時に行ってやるのが良い先生なのだ。放課後は由依と会う約束があったが、多少遅らせても良いだろうと思う。
19時に駅のお好み焼き屋で待ってます
芽依はそういうとクラスの片付けに戻った。片山芽依、父の住所は福島になっていた。震災から避難してきたのだろう。福島原発について授業をしたことがある。原子力発電所の即時停止をするべきだ、授業でこう言った。芽依の方を見ると、彼女は私の目を見ながら、少しだけ涙を流したのがわかった。本来教員は政治発言を慎むものだが、言わなければいけないことはある。教育というものは事実を伝えなければならないのだ。そういう信念が、彼女の心を動かしたのかもしれない。そう思うと日頃の党での学習が意味のあるものだと実感する。前に由依が言ったこと、共産党は事故の前は原子力の安全な利用を謳っていたのに、どうして事故が起こったら政策を転換して、即時停止を訴えるの?嘘つきじゃない、その言葉を思い出す。最初は私も疑問に思っていたことだったが、こういう形で昇華することができた。時代に寄り添って政策は転換するものなのだ、どうして由依はその当たり前のことに疑問を持つのだろうか。由依は無知だ。芸術大学を出た人間、裕福な家庭で育ち芸術に没頭するような、そんな生活をしてきた人間に日本の情勢などわかるわけがない、そんな彼女を救いたかったから結婚した。もちろん他の理由もあるが、最近はこの思いが強くなって来た。由依とはうまく行っていない、周りの大人には悟られないように振る舞っているが、時間の問題だ。僕は彼女を変えなければならない、結婚した時からそういう使命を感じていた。世界を変えるならまずは身近な人から、だ。今日は由依との約束があったが、事情を話せばわかってくれるだろう、由依のLINEにメッセージを送った。LINEの返事は早かった。
今日は大丈夫。
そっけない文章だった。
駅に着くと、芽依が待っていた。
先生こっち
お好み焼き屋に入るとたくさんの生徒が迎えてくれた。元気な生徒を見ると自ずと胸が空いた。今日は心置きなく生徒と過ごせる。
全員いるのか
佐久間だけ来てないです
そうか
まあいいか、と思った。あいつは俺に心を開かない、そういう人間は一定数いるのだ。わからない人間は何をやってもダメ、党の先輩が言っていた。その通りだと思う、裕福ゆえに無知なままで良いと思っている。そんな奴の破滅を知ったことではないのだ。
奢るぞ
財布を叩いてそう言った。生徒の嬉しそうな顔に、膨らんだ財布がより膨らんだ気がした。
青木由依
夫から、生徒の打ち上げに行くとLINEが来た。話があるではなく、大事な話があると言っておけば良かった。夕食を作らなくて済むのはいつぶりだろうか。病院からの帰り、なんの予定も無くなった私は映画を見に行くことにした。一つだけの映画をやっている新宿にある5階建てのビル。そこは昔一真とよく来たところだった。その日の気分を運命的に作ってくれる、そんな映画館であった。
久しぶり由依ちゃん、もう由依さんかな
苗字で呼ばないのは少しの気遣いだと思った。
中西さん、この映画館のオーナーで、毎日こうしてチケットを売っている、昔からか行き当たりばったりを楽しむ私たちにはなんの映画か、伏せてくれる。
映画の名前知りたい?
大丈夫です
了解、一枚で大丈夫?
私は小さく返事をし、チケットを受け取った。ビールとつまみを買って、映画館の中に入る。客員は15人、30人しか入らない映画館なのに、ここは混むことはない、年寄りから学生まで、落ち着いた何かを求めてここにくる。席につくと、そこは私をいつまでも待っていてくれたように、柔らかく赤いクッションが包み込んでくれる。涙が出てきた。この映画館は涙も静かに落ちついて流れる。
映画見る前から泣いてるんすか
一つ席を開けて、ビールを持った佐久間くんが座った。
どうしているの?
いや、映画見にきたんですよ
打ち上げは?
誘われてないです、俺は
返事ができなくて少し黙った。言葉の代わりに、泣いているところを見られた恥ずかしさが押し寄せてくる。私はいつもの、教員である私に戻ろうとする。
ビール、ダメでしょ
佐久間くんは忘れていたかのように、間抜けな声を出した。その声に私は笑ってしまって、その笑いが佐久間くんを笑わせた。
おつまみもらっても良いですか?
気まずそうに佐久間くんが言った。
隣に座って
佐久間くんは席を立って、少し恥ずかしそうに私の隣に座った。
映画が始まった。「陽の当たる教室」。運命は、私にって少し残酷な形で現れたが、また別の、私が予期していなかった形の運命が私に訪れていたから、この映画館はやはり私に取って特別なものだと思った。私と佐久間くんの間のおつまみを取る時、少しだけ手が触れる、おつまみがなくなり、空になった箱に手を伸ばすと、佐久間くんの手とまた触れた。この空間は特別だから、そのまま手に触れていても良いような気がした。その手は赤いクッションのように私に寄り添った。
映画が終わった。電気が付いても暗いままのこの映画館で、佐久間くんの表情はわからなかった、私の表情はあまりの懐かしさに、顔から消すことはできなった。
先生、手
あ、
私の声が懐かしい私の映画の終わりを告げるように響いた。
手、ベタベタ
ごめんなさい
素早く、手を引くと、彼はもう一度私の手を掴んだ。掴んで、また離した。
夕食、食べました?
食べてない
一緒に食べませんか?
恥ずかしさからくる震えが私にも伝わって来た
うん
赤いクッションの反発で、私がそう返事をすると、佐久間くんは少し笑って、私に手を吹くためのテッシュを渡した。
映画館を出る時、中西さんは私と、私の隣の佐久間くんに少しも驚くことなく、手を振った。
また来てね由依先生
私は中西さんにお辞儀をしてエレベーターに乗る、佐久間くんもお辞儀をした。
近くのカレー屋さんに入ることになった。前ではギターを持った女性がイパネマの娘を歌っている。雰囲気のある店なのに、私と佐久間くんは不思議と馴染むことができた。
今日の打ち上げ、青木先生もいるんです
夫から聞いたわよ
青木先生の奢りらしいです、snsで見ました
平等じゃない、1人欠けている、そんなのひどい。さっきまでの映画館の温かさが現実の冷たさに変わっていくのを感じた。
青木先生、飯奢ってくださいよ
少し悲しそうに、それを精一杯笑いに変えようとして佐久間くんが言ったのがわかった。
由依でいいわよ
じゃあ、由依先生って呼びます
ビールを飲んで少し赤くなった顔で佐久間くんは言った。
うん、私はなんて呼んだらいい?
圭で
佐久間くんって呼ぶわ、恥ずかしいもの
私の頬が赤いのも、さっきのビールだと思う。
わかりました、由依先生
恥ずかしそうに言った佐久間くんに、私は恥ずかしそうに満足した。前で歌っていた女性からJazzバンドに変わった。激しめの音楽が、空気を変えたかと思うと、その空気はずっとそこにあったようにお店に馴染むのだった。その激しい音楽に背中を押し出されるように、佐久間くんが口を開いた。
由依先生、なんで青木先生と結婚したんですか
……
学生っていう立場で、ずるい質問しちゃってすみません
うん、ずるいよ……
ごめんなさい
ずるい…………
涙が出てきて、ハンカチで涙を抑えた、抑えたのに、どんどん流れてきてしまう。恥ずかしさはもうなかった。
先生、ごめんなさい
大丈夫……
なんか、飲みますか、俺出すから
ジントニックちょうだい
大丈夫ですか
本当に申し訳なそうに佐久間くんは言ったから、私は涙を浮かべた顔で笑顔を使る。
大丈夫だから、ジントニック2つ、一緒に飲もう
わかりました
少し引いていたが、佐久間くんは言った。
jazzバンドはいつのまにか、ボサノバ歌手に戻っていて、São Paulo Sunsetを歌っていた。
青木由依
閉店のお時間ですよ
店員の声に顔をあげると、もう店は暗くなっていた。
ごめんなさい、お会計、お願いします
あれからジントニックをもう2杯、ウイスキーを3杯飲んだ。佐久間くんは目の前で眠っている。私は佐久間くんを起こそうとするが手に力が入らない。
帰れますか
帰ります
佐久間くんはようやく起きたが、立っているのがやっとだった。タクシーを呼んで、佐久間くんを家まで送った。その頃には佐久間くんの意識は戻っていた。
先生、今日はありがとう
具合大丈夫?
ダメかも
部屋まで行ける?
佐久間くんを支えながら、アパートの2階、階段を登って部屋の鍵を開けた。
明日の学校大丈夫?
大丈夫、先生と約束したんで
私泊まってあげよっか?
真っ青な顔だったが、ちょっと赤くなり佐久間くんは頷いた。私も酔っていたし、家には帰りたくなかった。部屋には何もなかった、制服と、2.3枚の私服、ベッドと机、高校生の部屋には思えなかった。佐久間くんをベッドに寝かせると、私は椅子に腰を下ろした。
先生、ベッドで寝て良いよ、俺、床で寝るから
ダメ
私はTシャツを脱いでベッドに横になった。酔っていたからだと思う、酔っていなかったらこんなことしない。恥ずかしそうに佐久間くんはベットの端に身体を寄せた。
7時に私の携帯が鳴った。夫からだった。私はその音で目を覚ました。電話には出なかったが、LINEをした。
ホテルに泊まっていました、ホテルから学校に向かいます
隣を見ると佐久間くんが寝ている、昨日の夜は壁を向いていたのに、今は私の肩に手をかけて、私の方を向いている。私はゆっくりとその手をどけてベッドから出る。朝食を作ろうと冷蔵庫をみたが、食材らしい物は入っていない。お茶を沸かして、コーヒーを飲む。インスタントのスティックタイプで、苦いのか甘いのかわからない味、美味しくはなかったが、タバコの味で誤魔化した。佐久間くんが目を覚ました。
佐久間くん、シャワー借りてもいい?
いいですけど、ちゃんと服着てくださいね
昨日のことを恥ずかしそうに言う彼は、いつもの、多分私が昨日まで知らなかった佐久間くんだった。
あと、ジーンズとTシャツ貸してくれる?
でかいですけど、いいですよ
シャワーを浴びて、少し黄ばんだ白いTシャツを着て、リーバイスのジーンズを履いた。こんな格好で学校に行ったら怒られちゃうだろうなと思ったけど、もう気にしないことにした。
洋服、どうしますか?
置いてといて、また足りにくるから
酔いは醒めたはずだけど、私はもっと酔っていたかったから、そう言った。
準備しないと遅刻になるわよ
わかってます
彼はそのまま、制服を着た。制服を着ると、彼は高校生になって、そんな彼を見ると、私は教師になるのだった。
タバコ切れちゃったんでください
一本しかないよ
じゃあ、大丈夫です
ううん、私も吸うから
ショートピースを上から下まで私の舌で優しく湿らして、先端に火をつける。煙は真っ白だったけど、その白さは今までの白と違う。
湿らすと甘くなるのよ
彼にタバコを渡して、玄関に向かう。
行ってきます、今日、美術室で待ってるわね
私はアパートを出て学校に向かった。
佐久間圭
学園祭の日、行かなくても単位はつかないし、クラスに好かれていないことはわかってはいたが、孤立している空気を味わいたかったから行った。俺の役割は決まっていなくて、午前から午後まで暇な時間。部室の裏で過ごす。パンフレットを見ると、美術部の個展がやっていた、重かった足が急に軽くなり、美術室までの階段を駆け足で登った。学校の端っこ、人気のない廊下を通る。美術室の中に入ると、目立たない美術部の生徒が2.3人、固まって弁当を食べている。飯なんて学校で買えばいいのに、と思いつつも、さっき食べたコンビニのおにぎりが腹の中で音を出した。美術部の絵はどれも綺麗に描かれていたけれど、どこかで見たことあるような、そんな絵ばかりであった。
由依
漢字で書かれた紙の上に彫刻があった。白い粘土で作られたのか、粘土を白く塗られたのか、真っ白な彫刻。歪んだ顔をした目の細い女と歪んだ体をした男。
男と女
よく見るような題名、クロードルルーシュの映画のような結末は予想できない。こんなもの、高校生にウケるわけない、少しだけ笑えてきた。佐藤先生の作品はその一つだけ、誰も見に来ないだろうが、だからこそ、義務的に作られたものではないこともわかる。スマホで写真を取ると、後ろの生徒がこちらを見たのがわかった。教室を独占したい彼女たちに追い出されるように、美術室を出た。部室裏に戻って、タバコを吸う。ハイライトの空箱に火をつけて、半分くらい燃えたところで、踏み潰した。高校生の青春らしい、軽音部の演奏を聞きながら、もう一箱を取り出しタバコに火をつける。ヤニクラでぼーっとしながら、軽音部だけじゃなく、学校全体が出す音に耳を傾けた。その音に吸い込まれるように、煙は肺に吸い込まれていく。片付けは手伝おうという気になって、教室に向かった。教室に入ると放送で学園祭の集客数を発表していた。何人かの生徒は手を前で組み祈るようにうずくまっている、青木もわざとらしくそうしていた。ドアをそっと開けたから、俺に気が付く生徒はほとんどいなかった、片山だけが俺の方をチラッと見たが、目を閉じて、手を組み直した。一位だったら全員にラーメンを奢ってやる、そういう約束を青木はしていたから、一位にはなってほしくなかった、多分俺の分も用意されるだろうが、そんな飯、食いたくはなかった。
一位1年4組
教室に溜息が漏れる、俺も少し安心して、溜息をついた。俺たちのクラスは二位だった。片山の残念そうな顔を見ると、積極的に参加しなかった自分が情けなくなったが、そんな協力、彼らが望んでないことを思うと俺の積極性は反対の方向へ行くのだった。
残念ながら1位ではなかった、でもみんなよく頑張った、みんなのおかげだ
青木の言葉でクラスの青春に区切りがつき、各々に段ボールを解体し出した。俺は錘として使ったペットボトルの水を抜く。重力に負けて流れていく水に触れると、教室の熱気でぬるくなっているのがわかる、その水は自分の冷たいを手をすり抜けるように排水溝に吸い込まれるのだった。
打ち上げくる?
声が聞こえて隣を見ると、白石さんだった。
この前の数学の教科書、ありがとね
ああ、大丈夫
ちょっと待っててね
白石は慌てて教室に戻る、俺のロッカーを勝手に開けて、数学の教科書を取り出したのが見えた。また走ってきて俺に教科書を渡した。
これ、返したかったから
ロッカーに入れててよかったのに
うん、そうだね
そういうと白石は走って教科書を俺のロッカーに入れに行った。今度はゆっくり帰ってきた。教科書には黄色い付箋で文字が書いてあったが、なんて書いてあるか読み取れなかった。
打ち上げくる?
正直打ち上げの話はしてほしくなかったが、して欲しい自分もどこかにいたようだった。
いかない
そういうと白石はあからさまに悲しそうに納得したようだった。
そっか、19時から駅のお好み焼き屋さんでやってるから
俺、あんま参加してないのにいいの?
うーん、片付け手伝ってくれてるじゃん
片付けを手伝っても誘われない自分、に少しだけ酔っていたけど、こういう酔いはすぐに覚ました方が良いと思った。
誘ってくれてありがとね、多分いかないけど
そっか、会えたら会おうね
そう言って白石は教室の方へ走っていった。
放課後、やることはいつもないし、駅の方に向かった。いつもなら喋る人はいないけど、白石の席に近くしてもらおう、白石なら喋ってくれるかもしれない、白石みたいなやつが他には何人かいて、そんな奴らと喋れるかもしれない。そんな淡い期待が俺の足を動かした。お好み焼き屋に着くと何人か集まっていて、白石もいた。合流することに戸惑っていてたのが自分でもわかったから、コンビニに行ってガムを買った。これならお好み焼きを食った後誰かに配れるし、とも思ったからだった。コンビニを出ると青木がいた。思いもよらぬ人の参加でグループは賑わっていた。急に足が止まる。足が重くなって、動けなくなった。動けない、動きたいのかもわからない。グループを見ると青木も白石も笑っていた。すっと力が抜けて、足の重たさが胸のあたりに移動した。重たい胸を軽くするように手が自然とポケットのタバコに伸びた、タバコに火をつけて駅の方に向かう、足は軽かった。
佐久間圭
なんとなく電車に乗り、一つ先の駅で降りた。新宿。新宿で降りたことに理由はなかったが、夜の新宿は誰でも受け入れてくれるような気がした。人混みから逃げるように、より暗い方に足を進める、人通りの少ない道につくと壁に背をつけしゃがみ込みタバコに火をつけた。2.3本吸って帰ろうと思った時、佐藤先生が目の前を通った。俺に気づくことはなくて、ゆっくりとより暗いところに吸い込まれるように歩いている。佐藤の短い髪は学校だと目立つのに、新宿だからあまり目立たない、ここういうところがこの暗い路地裏に似合っていた。先生はそのまま小さなビルに入っていた、後をつけてそのビルに入る。
1階は事務所、2階にはバー、3階と4階は何もやっていない。先生が乗ったエレベーターが5階で止まったのを確認した。映画館、俺はその映画館に吸い込まれるようにエレベータに乗り5階のボタンを押した。
小さな映画館で、受付に老人が1人、その老人に声をかけられた。
高校生かな?
制服を着ていないのに、どうしてわかったのだろうか不思議であったが、小さく頷いた。
帰ります
どうして?
えっと、今知り合いが入っていったから、それを確認したくて
由依ちゃん?
佐藤先生のことだと思った。この老人は佐藤先生と知り合いなのだろう。
あ、そうです
そうかい、いいよ入って
いや、入るつもりはなかったんです
いいよ、チケット代は取らないから、26番ね
そういうと老人はチケットをくれた。隣の売店でビールを買った。老人は笑っていたし、ビールを買ったこと、佐藤先生なら許してくれると思ったから買った。ビールを持って26番の席に着いた。佐藤先生が泣いていた。暗闇の中静かな映画館で涙だけがわずかな光を反射していた。チケットを確認するとやっぱり26番で佐藤先生の2つ隣だった。
映画見る前から泣いてるんすか
話しかけるのに迷ったが、どうせバレるし、先生に気づかれたい気持ちになった。そんな気持ちにこの映画館はさせた。先生は驚いた顔をして、どうしているの、と言った。先生を追ってきたなんて言えるわけなくて、理由を探していたが、ここは映画館なことを思い出して、映画を見にきた、と伝えた。打ち上げのことを聞かれて、誘われてないと嘘をついた。先生は気まずそうな顔をしたが、いつもの学校で見る顔に戻った。
ビール、ダメでしょ
ビールを持ってることを思い出して、間抜けな声を出してしまった。そんな声が佐藤先生を笑わせた。この映画館はなんでもうまく物事を運んでくれるのだった。
おつまみもらっても良いですか?
乾いた喉と空腹と映画館の雰囲気がそう言わせた。
隣に座って
って言われた。その言葉を言ってほしい気持ちになっていて、そう思うと映画館が佐藤先生までもそうさせた。映画は「陽の当たる教室」。その映画と、隣に座る女性が、自分が拒絶してるものを優しく解きほぐす。空のおつまみの箱の中で佐藤先生と手が触れた、手が自分の琴線に触れた、映画が終わるまでのずっとその手は自分に触れていた。
映画が終わった。飯を食ってなかったから、先生を誘った。青木はクラスメイトとお好み焼き屋にいることは知っていたし、今度は自分が誘う番だと思った。先生は了承してくれて、思い通りに物事が進んだのがわかった。
近くのカレー屋、1人では絶対に入れないようなところに先生と2人で入っていく。中ではボサノバ歌手が演奏をしていた。店員さんは洗礼された動作でメニューを運んでくる。機械的という言葉は失礼で、その洗礼された動作が緊張する自分を落ち着かせるのだった。カレーライスを2つ頼んで店員が去ると、沈黙が訪れる。打ち上げの話を先生に切り出した。誰かに言いたかったけど言う人がいなかった。青木が俺以外のクラスメイトに飯を奢っている事を誰かに訴えたかった。自分が拒絶してるのはわかっている、それでもお前が悪いんだろなんて言わない人に。佐藤先生ならそうは言わないと思った。
今日の打ち上げ、青木先生もいるんです
夫から聞いたわよ
青木先生の奢りらしいです、snsで見ました
先生が気まずそうに黙ってしまって、そんな空気を変えたくて笑いに変えようと思った。
青木先生、飯奢ってくださいよ
青木先生って言うことに違和感はあったが、その違和感を悪意のないように伝わる事を願って言った。
由依でいいわよ
と言われた。由依先生と心の中ではずっと呼びたかった。だから別に違和感はなかった。佐藤先生と呼ばれることが嫌なんだということも伝わった。
うん、私はなんて呼んだらいい?
と言われて、圭、と答えたが、恥ずかしいからと断られた。恥ずかしいから、っていう理由はすごい心地よかった。
わかりました、由依先生
その言葉を声に出して言いたかった、絶好のタイミングだと思う。先生は少し恥ずかしそうにした。
カレーが届く、そのカレー学校で食べるようなものではなくて、ピンクペッパーが乗っている、いつも強引に飲んでいるビールなどとは別の、一度も口にしたことのない大人の味だった。大人の味、大人という響きが、この女性は青木と結婚しているという事実を思い出させる。ずっと聞きたかったことだった、指導の時も先生は自分を親から救うような言葉をかけてくれた、それが現実離れしたものでも、そういう先生がいることが現実を変えるような気がした。そんな先生が青木と結婚してることも変えたい現実だったけど、それは明らかに具体的で明確、変えられようもない現実だった。
由依先生、なんで青木先生と結婚したんですか
激しいjazzの音に負けるくらいで言った。先生は黙ったままだった。
学生っていう立場で、ずるい質問しちゃってすみません
うん、ずるいよ
言葉を探して、見つからなかったから、俺の言葉をそのまま使って言ったのがわかった。
ずるい……
先生が泣いてしまった。聞かなきゃよかったと言う後悔の念に駆られたが、泣いている姿を見て聞いてよかったとも思った。メイクが落ちた顔は美術室で見た先生の彫刻のように、歪んだものではなくて、綺麗な顔に間違って絵の具をつけてしまったようなそんな顔をしていた。
先生、ごめんなさい
先生が心配になって、この場をどうにかしたくて、メニューを見た。
ジントニックちょうだい
先生が泣いた顔で笑いながら言った。笑った顔の方が彫刻のように歪んでいた。
大丈夫だから、ジントニック2つ、一緒に飲もう
そう言われてジントニックを2つ頼んだ。
佐久間圭
タクシーの中で意識が戻った。先生は俺の肩に小さな顔を乗せている。先生涙でTシャツが濡れていた。こんなに酔ったのは初めての経験で、窓から漏れるぬるい空気と揺れるタクシーに胃の中のものが出そうになったが、女性の髪の匂いと身体の温もりで、緊張が胃に蓋をした。
私泊まってあげよっか
と言われて頷いた。先生が酔っているのがわかったし、家に帰るといつもの自分に戻る、そんな自分が嫌だったから頷いた。先生にベッドに寝かせてもらう、自分の身体はまだ子供で大量の酒を消化できるほどしっかりと出来ていないことに苛立ったが、その苛立ちは酒より早く肝臓が分解した。
目が覚めると先生はコーヒーを飲みながらタバコを吸っている。シャワーを浴びると言って下着姿になる、骨が浮き出た細い身体は、昨日、泣きながら酒を飲んでいた先生とはまるで別人だった、この骨と薄い皮の中に大人である証拠が隠されているのだろうか。俺の前で簡単に裸になる先生は俺に年齢的な差、もしかしたらそうではない、何か違う差を見せる。シャワーから出てくると俺のTシャツを着てジーンズを履いた。短い髪は美しい少年のようなのに、明らかにそこにいるのは大人の女性で、先生だった。先生がタバコの箱に手をかけたのが見えたから、制服に入れているハイライトに手を伸ばす。中には2、3本入っていたが、優しさに浸かっていたい気持ちになり、先生にタバコをねだった。
タバコ切れちゃったんでください
一本しかないわよ
そう言うと先生は舌でタバコを湿らして火をつけた。思い切り肺に入れて吐き出す。一口吸うと、タバコを俺にくれた。
行ってきます、今日、美術室で待ってるわね
そう言って先生はアパートを出た。俺はショートピースを思い切り吸い込む、煙は喉の奥でストップして咳と一緒にでた。もう一度ゆっくりと吸い込むと、由依先生のように煙が肺に入っていくのがわかる、その重い煙を吐き出す。
行ってきます
誰もいない、いつものアパートに別れを告げた。
佐久間圭
朝のホームルームに出席するのはいつぶりだろうか、席に着いて、チャイムが鳴るのを待つ。寝ようとも思ったが、今寝てしまうとずっと寝てしまう気がしてやめた。教室に入った時、いつもとは違った出来事にクラスメイトは驚いたような顔をしたが、何事もなかったように友達同士話を続けるようだった。
おはよう
白石に声をかけられて、イヤホンを外す。
今日は早いね
まあ
昨日ごめんね
何がごめんなのかわからなかったけど、大丈夫と答えた。
来なくてよかったかも
なんで?
そんなことわかってはいたけど白石の理由が聞きたかったから言った。
青木先生来ちゃったし
申し訳なさそうに言ったから、大丈夫と答えた。大丈夫という言葉に素直に納得して、白石は自分の席に戻っていく、バックから何かを取り出して、また戻ってきた。
これ、前の答え
数学のノートを開いて見せてきた。
答え見てもわかんないよ、やり方とか知らないし
あ、そっか、ごめん
何がごめんなのかわからないけど、大丈夫と言った。
チャイムがなって青木が入ってくる。相変わらず下の名前で出席をとっている。
佐久間
はい
今日は早いのか
白石と違ったものを含んだその言葉に返事はしなかったが、返事をする暇もなく次のやつの名前が呼ばれた。
数学、国語、体育、物理、日本史、久しぶりに真面目に受けたけど、遅れた分を取り返せるほど、高校の勉強は甘くなかった。それでも積極的にノートを取る俺に、国語と物理の先生はわざわざ席に来て優しく教えてくれた。体育のサッカーは特に身体にこたえたが、そこそこ運動はできる方だったので、クラスメイトからパスを受けることも多くなったし、シュートを決めると喜んでくれた。今まで何もなかったように振る舞うクラスメイトは少し怖かったが、そんな鈍感さに嬉しさも感じるのだった。放課後、美術室に向かった。美術室に入ると美術部の生徒が教室の端っこで喋っている。
なんですか
しばらく立っていると、部長らしき人が、青春をしている神聖な空間を邪魔されるのが嫌だというふうに、明らかに不機嫌に言ってきた。
由依先生に会いにきたんですけど
由依という名前にピンときていなかったようだが、しばらく考えて、それは青木由依先生のことだと気づいたらしく、美術部の準備室に案内された。
先生、男子生徒が来てます
ノックをしてからそう言うと、由依先生が出てきた。
佐久間くんね、入っていいわよ
そう言って俺だけ案内された。部長らしいその学生は、不思議そうに俺を見たが、何事もなかったかのように、また青春の輪の中に入っていった。
コーヒー淹れるわね
いいんですか?
ここは特別よ
そう言われて二つしかない椅子のもう一に座るよう促された。
豆、挽いといてくれる?
アラベスク模様のコーヒーミルを渡されて、ハンドルを回した。コーヒーミルは準備室に並べられた美術作品のようにどこか懐かしく、ずっとそこにあったような雰囲気を出している。アラベスク模様とコーヒーの香りがより一層、起源であるイスラムの国々を思い出させた。
俺、才能あるんですか
そういうと、先生はコーヒー飲みながら、何も悩まずに
今から形にするのよ
と言った。熱いコーヒーがはいり、コーヒーと一緒に、冊子を渡された。東京芸大学入試要項。
これ、俺が受けるんですか?
そうよ
流石に、無理でしょ
大丈夫、努力すればね
先生は、たまに先生みたいなことを言う、当たり前か、先生なのだから。だけど、その言葉の響きは他のの教師と画する何がある。ついていこう、そう思った、信じしてくれてるのだから、信じるしかない。他に信じるものなどないのは自分がよくわかっていることだった。その日から毎日のように練習が始まった。クロッキー帳に何枚もの絵を描く、二時試験は彫刻を選んだ。彫刻をテーマに沿って作る。抽象、空間、絶望とか希望とかそういうものを自分の手で表現することがいかに難しいか、言葉があったら言葉で代用できることがいかに複雑か、そういうことを考えるようになる。それが形になっていくにつれて、由依先生との”差”を意識するようになった。その差を埋めたくて、ひたすらに粘土をこねる、その粘土に徐々に力がこもるのがわかった。ただ、その差はただひたすらに時間の流れと共に平行に進んでいくように思えた。
土日は先生がアパートに来た。先生は邪魔をしないように静かに入ってきて、苦いコーヒーを淹れてくれる、帰り時には、平日分の朝食を作って、冷蔵庫にしまい、静かに帰っていくのだった。芸大の入試は一般教科も出るので、学校の授業も真面目に受けるようになった。苦手だった数学は美術室で由依先生が教えてくれるのだった。
片山芽依
学園祭が終わってしまった。勉強から離れて別のものに取り組む時間、私にとって特別な時間だった。周りに強く当たってしまったが、二位という結果がついてきて安心した。打ち上げには青木先生が来てくれた。
人一倍頑張った芽依に感謝している
青木先生らしく、みんなの前でそう言ってくれたことが、私をさらに安心させた。学園祭が終わると、また勉強の日々が始まる。学園祭に取り組み過ぎたことを、母も私も気にしていて、それゆえに勉強量が増えた。定期テストの順位はクラス四位、学年では二十四位だった。学園祭への熱がクラスの点数を良い感じに下げたのがわかったが、同様に私の点数も下げた。クラス二位は佐久間だった。最近佐久間は学校に来る。放課後には美術室に通っているらしく、それ以来成績が良くなった。私や、先生を嘲笑うかのように高得点を出しては、何事もなかったように席について、黙々と勉強をしている姿は不快だった。一年時の成績が低いので推薦枠のライバルではないが、大学進学のための勉強をしていない、そんな余裕な態度が私をさらに不快にさせた。
日曜日、私が図書館での勉強を終えアパートに着くと、青木由依先生が佐久間の部屋から出てくるのを見てしまった。私は挨拶したが、先生は私が生徒であることに気づかず、何ごともないように挨拶を返した。青木正樹先生の奥さんだから私も知っていた程度で、音楽選択の私にはほとんど繋がりがなかった。土日に家に来るほど大切な生徒、その事実が私の頑張りを踏み躙るようにあって、それからこの事実を利用できるという淡い期待と独特な罪悪感が芽生えるのだった。日本史の授業が終わると、授業のプリントを持ち、質問を作って、青木先生のところに向かった。
先生、質問いいですか
いいよ、芽依頑張ってるな
この前のテスト低かったんで
まだ全然挽回できるよ、気を落とすな
青木先生のテストは82点、成績は容赦なく8だろう、一学期が8であったから、3学期の5段階で4。悪いのは勉強が苦手な自分だ、そんな自分への優しさは私をさらに苦しめる。評価をつけているのが、優しい先生であることも事実なのだった。
丁寧に教えてもらい、メモ用紙に関係図をメモる、わかりきっていたこと、教科書に書いてあるようなことを先生は自信満々に噛み砕いで教えてくれた。
青木由依先生のことなんですけど
そう持ち出すと、不思議な顔をした、嫌な顔なのか、その話を持ち出されて嬉しいのか、どっちにも取れるその微妙な顔をした。
佐久間くんの家に入っていくの見ました
急に顔が崩れそうになり、それを平常心が無理矢理押さえたように見える。
由依が?見間違いだろ?
はい
嘘じゃないよな
佐久間くんと家隣なんで
佐久間か
今までの先生とは全く別の、青木正樹という男の絶望が手に取るようにわかった。
ありがとうございます、失礼します
いつものように笑顔で言っても先生の返事はなかったが、日本史のプリントを整理して、その場を去った。私は間違ったことをしていない、何度考えてもそう思ったから、満足して次の授業へ向かった。
青木正樹
由依が佐久間の家にいる
芽依から聞いた事が不幸中の幸い、芽依は俺以外に言わないだろう、いや本当に言わないだろうか。昔なら教員が家に行くなんてことはあったかもしれないが、今時問題になるに決まっている。佐久間は確かに俺には手に負えなかったが、今は学校にちゃんと来て、ちゃんと授業を受けている。あの佐久間をここまで変えた原因に俺も入っているはずだ。周りの教員からも羨望の目で見られる、俺の教員としての株が上がったように思われたのに。どうして由依は。遅くまで仕事をして、家に帰る。由依は定時で上がってしまう、ルールとはいえ、もう少し学校で仕事をしても良いのに、ずるい奴だ。家に着くと由依の部屋に電気がついている。最近は美術のことばっかで、家の家事もろくにしない、先に帰っているのだから、やって当たり前なのに。
ただいま
由依がいるはずの家はとても静かで、限界で声が消える。頭の中にただいまと言う言葉がぼんやりとと残る。いつものように冷蔵庫からビールを取ってテレビの前に座る。テレビをつけると日ハムの大谷の活躍がハイライトで流れている。彼のホームランを見ると日本人としての誇りが芽生え、俺も頑張ろうと思うのだった。テレビの音で由依は気づいたらしく、台所に行き冷凍の枝豆を解凍する。枝豆を持ってくると、また台所に戻り夕食を作る。会話はない、ずっと前からなかったかもしれないが、いやそんなことはない、最初の方は何かと話題を見つけては笑い合っていたはずなのだ。
正樹、ご飯できたよ
その声をあえて無視する、由依はリビングまで来て、俺の肩を軽く叩いた。
ご飯
俺は返事をせずに夕食の席についた。佐久間とのことを言わなければならない、言いたい気持ちになるが酒が足りない、由依もシラフのはずだから、この話は少し決まりが悪かった。夕食を食べ終わるとまたリビングに戻る、テレビをつけてお笑い番組をつける。お笑い番組は当たり前のように面白く、その馬鹿馬鹿しさが少しだけ日常の辛さを忘れさせるのだった。由依が食器を洗い階段を上り部屋に戻っていく。きっとまたお酒を飲むのだろう、その時で良い、その時までこのお笑い番組で精一杯笑おうと思う。番組が終わった。俺はビールを開けて、大学時代のように一気に飲み干した。味わってる場合ではなくて、ただ苦い水が舌を通り胃に流し込まれる。少しふらついた足で階段を上った。
由依
なに?
由依はお酒を飲んでいなくて、手は粘土で汚れていた。
お前に言わなければいけないことがある
なに?
と返す由依は、堂々としていて、俺に何かもっと別のものを隠し持っていて、その武器が圧倒的に強いことを暗示させた。負けてられない、そう思い、佐久間のことを口に出した。
佐久間と会っているらしいな
ええ、美術室でね
佐久間の家に行ってるって聞いた
少し待ってて
そういうと、由依は部屋にあるウイスキーのボトルに手をかけた。一杯のウイスキーが由依の白く遅い喉を通ったのがわかる。
そうよ
由依は力強くそう言った。
そうって、いいわけないだろ
気づかなかったのね
そりゃ、仕事で忙しいんだからしょうがないじゃないか
仕事は皆同じでしょ、私だって生徒を持っているし、担任は楽なの知ってるでしょ
そうじゃない、教科の準備だって
美術と比べて生徒の受験に深く関わる日本史の方が準備が忙しいのは当たり前だ。
俺は日本史だぞ、お前とは違うんだよ
そう言うと思ったわ
話を終わらそうとして、ドアを閉めようとしたから、ドアを掴んだ。
逃げるなよ、佐久間と何をしてるんだ
何をって想像力がないのね、私は美術教師よ、美術を教えているに決まってるじゃない
俺の想像力は、何か別のものを連想させた。
信じられない、いつからだ
学園祭の日、あなたが佐久間くんのいない打ち上げに行った日よ
何が言いたいんだ、あいつは自ら来なかったんだ
どっちだって同じよ
あの日、お前家に帰ってこなかったな
ええ
佐久間の家に泊まったのか
そう
由依はそっけなく答えた、その言葉に悪気はなかった。何か別の武器のせいかもしれない。
何を隠しているんだ、言えよ
言わない
言え!
力強く由依を突き飛ばした、由依の華奢な身体は俺の力に抵抗する事ができず、壁にぶつかり、足を滑らし階段に落ちた。自分の中から何か爆発する、自分の手を自分の頭、さらに上から見下ろす感覚に襲われる。その爆発に弾き飛ばされた、身体はしばらく自分の真上で静止しする。由依泣いた声が聞こえて、自分の中にずっと入る事ができた。急いで階段の下にいる由依に話しかける。
ごめん
……
由依は腹を押さえてうずくまっている。
ごめん、手を出すつもりはなかったんだ
……
わかって欲しい
そうやって由依の身体を起こそうとしたが、由依は私の手を右手で弾いた。
救急車、呼んで
そんな大袈裟な……
そう言いかけた時に由依が叫んだ。
救急車呼んで!!!
事態が読み込めない俺に、由依の白いスカートの血が目に入る。
血が出ている、たくさん、急いで携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとした、震えた手で119と打ち込んだ。手を落ち着かせる。手を落ち着かせて、次に心を落ち着かせる。
妻が酒に酔って階段から落ちた
その言葉は落ち着いているのか、動揺しているのか、自分をわからなくさせた。
青木由依
救急車の中で、夫の手は握らなかった、ただ、血のスカートを力強く握る。私が握るはずの手は携帯を大事そうに握りしめている。麻酔が打たれ、手術が行われた。お腹の中で宿ったばかりの命が私を助けたかもしれない、もし君が生まれたら、私は君のために変われたかもしれない、そんな希望を真っ白く、消しゴムで消すように麻酔は効いた。
子宮破裂によりお腹の子供は亡くなりました
医者に言われた。涙より先に声が出た、その声の響きが私の目のあたりを刺激して、壊れた涙腺から我慢してきてものがたくさん流れるのだった。泣き叫ぶ、隣の夫に聞こえるくらい、夫の両親、私の両親にも聞こえるくらい大きな声で、言葉にならない声を出した。
病室に連れて行かれて、横になる。一生懸命涙を止めようと目に力を入れていたが、泣き疲れて、力が入らなくなった。そのまま目を閉じていると、涙の渦に飲み込まれるように眠りについていた。目を覚ますと夫がいた、私の手を握っている。私にはその手を振り払う力はなく、ただ握られるまま力を入れ返さないように、彫刻のように自分の手が冷たくなるのを待った。
目、覚ましたか
ええ
ごめん
夫が強く手を握ったのがわかった。
知らなかったんだ
そう言われた。夫に言ってなかった自分が悪い。そうかもしれないが、それを言えない私を作ったのは間違いなく夫だと思った。でもそれは傲慢で、子供のことを考えると、すぐに私の葛藤を悔しく思うのだった。
どうして言ってくれなかったんだ
どうして、それを説明するのは疲れていたし、説明しても命は戻らない、粘土のようにまた形を変えて生まれ変わることはできないのだった。
やめる
何を?
全部
……………………
静寂が終わり、病室が出す、静かで、それでも精一杯生活する音がが聞こえ始めた。
佐久間圭
由依先生が学校に来なくなった。放課後美術室に行くと、美術部の生徒がいつものように固まって話をしている。準備室の扉を叩くと、去年教えてもらっていた佐々木先生が迎えてくれた。
待ってたよ、由依ちゃんがここで勉強して良いって言ってたわ
わかりました
芸大目指すんだって
はい、いちよ
頑張ってね
そう言うと佐々木先生はコーヒーを淹れてくれた。本を読みながら、たまに俺の練習帳を覗きにくる。
何も教えることはないわね
そう言ってまた本を読み始めた。
担任の青木は、自宅の階段から落ちて怪我をした、と言った。お見舞いは生徒に禁止されていて、入院している病院は伏せられていた。それがただの怪我ではないことを暗示した。由依先生のことを思うと、より一層美術に力が入るのだった。一ヶ月経っても由依先生は帰ってこなかった。いつかまた来てくれると信じて、家の鍵は開けておいた。担任の青木が、由依先生が教師をやめる、と言う報告をした。含みはあったが、怪我という言葉に、復帰の見込みがあると思っていたし、重大な問題だとは思っていなかった。その日は美術室には行かず、アパートに帰った。道具で散らかった部屋に椅子が二つ、一つは由依先生がいつも座る椅子だった。俺は自分の椅子に座る。絵を描こうと思っても鉛筆の芯が折れてしまって、鉛筆を削ろうと立ち上がると、力は抜けてそのままベッドに身体が吸い込まれた。
やめるのか
独り言を言うと空気が変わって、持っていた鉛筆が重くなる。他の道具も地面にくっついていて、そっとのことでは動かないようだった。しばらくやめていたタバコを吸おうと近くのコンビニに向かった。ショートピースとお酒を大量に買ってアパートに戻る。ドアを開けると由依先生がいた。いつも先生が座る椅子に座っている。俺に気がつくと、ニコッと笑った。
久しぶり
お久しぶりです
どこ行ってたの?
コンビニです
お酒?
先生が笑って言ったから、少し安心したが、お酒を買ったことが恥ずかしくなって、左手に持ち替えて、地面に置いた。
青木先生から聞いた?
はい、先生辞めるんですよね
ええ、やめるの
どうするんですか?
考え中かな、佐久間くんはちゃんと勉強してた?
いつか帰ってくると思って、続けてました
そっか、安心
先生は出会った時から痩せていたが、さらに痩せた気がする。その弱々しさが、先生の魅力を引き立てるのであった。
ベッドの上に置いてある鉛筆を取って鉛筆削りで削った。椅子に座って先生からの課題を描き始める。これが最後の授業であることはわかっていたから、本気で描いた。
佐久間くん、私のこと描いてよ
先生のことは内緒でずっと練習していたから、上手く描ける自信があった。それでも正面を向き合えば、恥ずかしくなり、手が震えた。
私も佐久間くんを描いていい?
そう言うと先生は、細い手でTシャツを掴み、当たり前のように脱ぎ出す、スカートを脱いで、下着姿になると、その下着も器用に脱いだ。
脱いで、佐久間くんも
先生が俺の服に手を伸ばしたから、自分で脱ぎますといって服を脱ぐ。部活動続けてればなと、少しだけ自分の身体を見て思ったが、パンツを下ろした時にはそんなことどうでも良くなっていた。先生が脚を開いて座ったから自分もそうしなければないと思って、恥ずかしながら同じような姿勢をとった。先生は乳房が見えるように身体を開いて、左手を背中にくっつける、右手でスタンドの画用紙に絵を描き始めた。同じ体勢をとり、鉛筆を握る、さっきまであった恥ずかしいと言う感情は、画用紙の中に映し出されていく。先生と交互に鉛筆を走らせながら、全身が完成していくのを感じた。先生が自分のどこを見ているかは、自然と身体のその部分が緊張することでわかった。完成するまで目が合うことはなかった。2人同時に絵は完成した、初めて、目と目が合うと、向き合ってきた絵の中の女性の感情が、自分のものになるのだった。
上手
そう言うと、先生は鉛筆を置いた。
白石恵
佐久間くんが学校に来るようになって、クラスの雰囲気は良くなったと思う、悔しいのは佐久間が勉強できること。私より数学の点数高いし、ずるすぎる。せっかく良くなったのに、美術の青木先生がやめてしまって、青木先生の元気がなくなったように思える。佐久間くんも元気がなくなった。何かあったのかな、こういうの気になっちゃうのは昔からのこと。もしかして好きだったりして、そんな話は友達としないで自分の中にしまっておく。佐久間くんは放課後美術室に通っている、友達がすごい絵が上手いと言っていた。どんな絵を描くのだろうか、すごい気になって、なんとなく夜もそのことを考えるようになった。どうしても見たくなって放課後美術室に行った。
めぐちゃん、どうしたの?
まきちゃんに言われた。佐久間くんの絵を見に来た、とは言えない。
えっと、佐久間くんに課題渡したくて
私にしてはナイス。まきちゃんは準備室まで案内してくれた。
佐久間くんいますか?恵ちゃんが渡したいものあるって
まきちゃんがそう言った、やばい、渡すものなんてない。どうしよもなくてポケットに手をやるとテッシュが入っていた。テッシュはわけわかんない。そう思っていると佐久間くんが出てきた。
どうしたの?
ワイヤレスイヤホンを片耳に挿している、手は泥だらけ。
えっと、大事な話があるの
またやってしまった、まきちゃんは顔を赤くして、笑っている、私の背中を押して準備室の扉を閉じた。
どうしたの?
絵、見てみたくて、来た。
最初からそう言えばよかったと後悔している。
別にいいけど
佐久間くんは手を洗って、制服で拭き、クロッキー帳を開いて私に見せてくれた。中学生の時にクラスの女の子が自慢げに描いてた絵の、その何百倍も上手い絵がそこにあった。
すごい
練習したから
美術の大学受けるの?
うん
数学ある?
いちよね
えーやばすぎ
できないけどね
笑ってそう言った。佐久間くんが笑うところを初めてみた気がする。この美術室は彼にとって特別なんだと思う。クロッキー帳を閉じた時にワイヤレスイヤホンが引っかかって落ちた。
何聞いてたの?
「Grateful Days」
聞いていい?
まあ
この曲、聞いたことある。死んだパパがよく歌っていた曲。英語のところはわからなかったけど、ラップのところは2人ともわかったから、そこだけよく歌った。イヤホンをするとすごい懐かしい気持ちがした。コードがついたイヤホンを2人で聴くみたいな青春をしたくなって、でもワイヤレスイヤホンだからどうしようもなくて、どうしようと思ってたら、ラップのところが流れ出して、それに合わせて歌ってしまえと思った。
俺は東京生まれHIP HOP育ち
悪そうな奴は大体友達
佐久間くんが吹き出して笑った。
ひどい
ひどいって笑われた。似せたつもりだったのに、悔しい、でもそれ以上に恥ずかしくなってきて、もっとそれ以上に、笑ってくれて嬉しくなった。
佐久間圭
大学受験には失敗した。もう一年頑張ってみたがだめで、日本大学芸術学科に入学した。卒業して出版社に就職した、芸術のことに悔しかったので、芸術部に希望を出した。今はアーティストの取材を担当している。自分の夢を叶えた人たちを見ていると、自分とは明確な差があるんだなと思う。
白石ちゃん、今日休み?
体調崩しちゃったみたいで
今日、白石ちゃんのインタビュー佐久間が行ってくんない?
まじすか
彼氏だろ、インタビュー内容は白石ちゃんがまとめてあるから
まあ、いいっすけど
部の先輩に言われて、恵がまとめた円谷さんと書かれたファイルを持ち、部をでる。エレベーターを降りて、駅まで道のりをダッシュ。インタビューは10時から。恵、内容まとめてあるんだろうな。少し心配だったが満員電車ではファイルを確認する時間がない。
頼むぞ恵
心の中で念じて、電車を降りる。時間ちょうど、ギリギリ間に合うかどうか、汗を乾かしつつ、早歩きで待ち合わせの喫茶店に向かう。
いらっしゃいませ
待ち合わせです
あちらです
店員に促されて、席につく。1分遅れた。
すみません、遅れました、今回インタビューさせていただきます、芸術ジャーナルを担当しています、佐久間と申します
名刺をポケットから出し、深くお辞儀をする。相手の顔を見ずにお辞儀をしてしまっている。相手からの返事がない。
よろしくね、佐久間くん
聞いたことがある声だった。ゆっくりと顔を上げると、由依先生立っていた。