前野
初日から、極端に効率化された肉体労働に嫌気がさした。顔の油を洗面台で落とす。石鹸をつけてもなかなか落ちない油は皮膚から出るものとは違い、しばらく経つと乾燥して肌荒れを引き起こす。顎や顳顬、首にはニキビではなく、赤く腫れが上がり、時に痒くなる硬いしこりみたいなものがいくつかできてしまう。それはしばらくして消えるものもあれば、ずっと残り続け、身体の一部と認めてしまうくらいに肌に馴染むものもあった。三島さんはそんなもの気にしないのか、気にするのをやめたのか、老いて血行が悪いのか、悩んでいる様子はない。たまにマスクを外し見せる顔には、日に焼けるわけでもないのに黒ずんだ肌に、油を吸収するくらい乾いた唇がこびりついている。
「休憩ながいよ」三島さんは深夜なのに大きな声で喋る。待っている客に聞こえないくらいの声量で喋れば良いものを、そのような声を出すのが癖になっているようだった。その声量が彼をここで長く働かせているように思える。「お待たせしました、ご注文は何になされますか」レジに行き注文を聞く。「牛丼 並」毎日深夜2時に来る客は、わかっているだろ、と言わんばかりでぶっきらぼうに注文するから、分かっていますと丁寧に伝えるよう「牛丼 並ですね」と確認を取る。厨房に入り1番のボタンを押す。発泡スチロールでできたカップに誰よりも正確な仕事をするこの機械は並盛に適した量の白米をぶっきらぼうにぼとぼと落とす。牛肉を青の取っ手がついた容器で掬い、すり切りちょうどに調整してから、白米に乗せる。ちらっと見えてしまう白米を三島さんは見逃さない。「白米見えてるからだめ、俺が怒られるんだから、で俺がブチギレる」「すみません」カップを振り肉が白米の上を移動し、白い部分を隠すのを待つ。今日は肉が落ち着いていて助かった、たまに肉が踊り狂って訳がわからない方向に行くことがあるが、三島さんの場合はそうはならないので、自分の手の繊細さも慣れには勝てないと思った。「お待たせしました、お箸と紅生姜はセルフでお願いします」そう言い、わざわざレジから遠いカウンターに客を誘導する。もちろん従業員の移動は最小限に抑えられていて、俺たちは肉のように踊ることはない。「どうも」ビニール袋を手にした客は颯爽とまたレジの方へ歩いて行く。そのシーンは厨房に入る時に手を洗うくらい当たり前に繰り返される。「ありがとうございます、またお越しください」その発声も毎回のように繰り返される、機械のアラームのようにその時が来れば自然と発せられた。「声が小さい」自動ドアが閉まりかけた時、声の大きさを調整する機械のように、三島さんが言った。「すみません」その声は小さくなってしまった。ただ、俺が仕事に慣れてくればそんな声出さなくてもよくなった。その発言は厨房に必要ないように思われる。コロナウイルスのせいもあって持ち帰りのみになっている今は、いつも以上に客が少ない。深夜の仕事は主に食材の準備と掃除。掃除は楽な仕事だから、三島さんの休憩時に俺がやることになっている。三島さんがいる時は三島さんの奴隷として働かなくてはならない。「味噌とおろしとお新香つくって」「わかりました、お新香わかんないんで教えてください」「考えて」その方が早く仕事を覚えられるらしく、彼はいつもそう言う。既に準備されたお新香を確認し、パックに入った冷蔵庫のお新香を見る。お新香をパックから取り出して、水洗いする。水洗いしたお新香を容器につめ、冷蔵庫に入れ直す。「優秀じゃん、考えることが大事だから」単純な仕事であったが最初のうちは褒められると嬉しく思った。今は褒められることも少ない。三島さんは俺のことを優秀と言ってくれるのだが、日本語の通じない外国人以外には簡単にできる仕事であろう。三島さんはおそらく40歳を過ぎていて、この店舗ができる前から別のすき家で働いていたらしい。マネージャーの劉さんに信頼されているベテランで、給料以外はほとんど俺と違っていた。「俺、休憩入るから、あとやっといて」「お疲れ様です」三島さんが更衣室に入ると、バイトは終わってはないのだが、もうほとんど終わらせた感覚になり、ため息が出るのだった。タバコに火をつけて、玉ねぎが入った段ボールの上に座る。腹の緊張が解かれ、何かを欲するように胃が空洞になったのを感じたが、べちゃべちゃの牛丼を食べる気にはなれない。仕方なく、リンゴジュースの封を開け、2本目のタバコに火をつけた。タバコを吸い終わり残りの準備終わらせる。4時になると、やることがなくなるので今度は脚立の上に座りタバコを吸う。外が少し水色になるのがわかった。アラームの音が更衣室から聞こえ、しばらくして三島さんが出てくる。「上がっていいよ」「おつかれさまです」入れ替わりで更衣室に入り鏡を見ると、ペダベタの皮膚をした俺がそこに立っている。しばらく立ち尽くしながら鏡を見ると、最近まで大学生だった面影はなく、町で見るような、というより、店に来る常連のようなオーラを放った男が立っている。その男から目を逸らして、ワイシャツを脱ぎ、ズボンを履き直した。店を出て徒歩でアパートに帰る。新聞を取ることをやめたので、郵便受けは空、いちよ確認する。階段を登り202号室を開けた。酒でもなく、麻雀でもなく、日常の疲労が俺を襲う。机の上の小説を取り、途中まで読んでコーヒーを淹れに行く、何度か使いまわした紙はしなっていて、たまに蠅が止まっているものもある。そうではないものを1つ選んで沸かしたお湯を入れると、砕いた豆が生き返るように音を立ててコップに黒い液体が広がる。小説を読み終わると、何冊も重ねた小説の上におく、2度と開くことがないだろう小説は背表紙が壁の方に向いていて、下の方の本から順に黄ばんだ紙がグラデーションになっている。20歳の時からアルバイトで生計を立てることになった。最近までは小説家になろうと思っていた。就職は向いていないと思ったし、小説を読んでいるうちに、その自由さと繊細さに憧れるようになった。その世界は人に救いをもたらし、小説を書く本人もそれによって救われると思ったからだ。大学を同じように夢を追い中退する同級生に感化され20歳の時に辞めた。なぜか成功する同級生を見ながら、執筆活動を続けていたが、真由美に出て行かれてしまい、アルバイトに力を入れざるをえなくなった。すき家の世間的イメージは悪かったので、そう言う環境で働くことで何か自分に影響すると思ったが大体のことは最初の2、3日でわかってしまって、今はただ家賃を稼ぐことが目標になってしまっている。日々の労働に追われるうちに、大学時代に抱いた自分の小説への想像をどんどん狭めている感じがするし、同じ年で成功している人間の文学を見て、小説の世界で見通しがついていた高野は、遥か広大であり、ずっと地平線が広がっていることをなんとなく感じる。そんな場所でも真由美がいればなんとか生活できていたのに、彼女はそんな未知の場所で呆然と立ち尽くす俺に辟易としたのか、俺を捨てた。外が明るくなるにつれてだんだん心が暗くなる。太陽の光がベランダからさす角度まで登る、自分の身体から光に照らされる前にベッドに入る。アラームを15時にセットして、念のためバイト前の20時にセットする。目を閉じる。目が悪い俺には暗い風景しか見えなかった。目を閉じて考えることは、ミックスカレーは焼きそばの後にオムライスだったか、オムライスの後に焼きそばだったか、キムチの仕込みは18個だったか20個だったかを考える。それらが終わると仕方なく出ていった彼女のことを考えるのだった。なぜ出ていったか、なんてメニューより簡単に答えがわかるので、今どうしているのか、とか、これからよりを戻せるかとかである。真由美は舞台女優をやっている。最近ネットのcmで有名俳優とショートドラマをやっていた。家庭という雰囲気の中で彼女は彼女らしく、少し不貞腐れた女性を演じている。役が悪いのかもしれないが、もっと根本的な光みたいなのがない彼女を見ると、少し安心するのだった。どっかで挫折したら戻ってこいと願うと自然と寝ていた。15時のアラームで目が覚めて、台所に行く、サンドウィッチをつくり、朝入れたコーヒーの残りを啜る。サンドウィッチにはハムとチーズを入れて食べた。それらを片付け、椅子に座り文藝春秋を開く。同世代の作家のインタビューに「世界文学全集が娯楽だった」と書いてあった。それなら俺も読んだのに、と思いながら、第1巻オンザロードを思い出す。俺も小説書きながら旅でもしようかと思い通帳を見ると、「85000」。行けるっちゃ行けるけど、帰ってきたら何もできない、そう思って頭の中のオンザロードを閉じた。文藝春秋に集中できず、自分の手帳を見る。バイトの予定で埋め尽くされた手帳に、「4/15 20〜5 浅野」と書いてあった。浅野さんはコスプレイヤーをやっている女性だ、土曜日の夜だけは浅野さんと働くことになっている。2回ほどしか一緒に働いたことはなく、生活の中で女性に会うことはないので、彼女のことを気になり始めていた。コロナ期間なので皆マスクで顔を覆っているが、LINEのプロフィールを見る限り、綾波レイである。俺がシンジでいつか合体する日が、なんて思うが、そもそも、初号機や0号機は合体しないと思い、妄想をやめた。プロフィールのコメントに「こんどこそ」と書いてある。こんどこそという言葉は失敗を思わせる哀愁と、次への期待を含んでいる。ペンを持ち原稿用紙に小説を書くことにした。とりあえず20時まで書こうと思い、あらかじめ決めていた構想を文字に起こした。
前野
寝てしまったようで、溜息と共に目が覚める、いや目が覚めた後に溜息を吐くんだった。その間に刹那の後悔はない。睡眠障害は真由美が出て行ってから続いている。実際に睡眠時間は3時間ほどで、ベットに入ってから同じく3時間ほどは、なかなか寝付けないでいる。その足りない分を埋め合わせるように、小説を書こうとすると寝てしまうのだ。眠剤に頼ろうともしたが、ある時服用しすぎて、腕に消えない傷を作ってしまい、医者に止められている。確実に死ねる量のデパス4シートはいつかやってくるその日までに失いたくはない。それは明日や来週、来年、いつ来るかわからなかったが、そう遠くない未来だろうと感じている。設定していたアラームを止めてバックを持ち、バイト先に向かう。歯は既に黄色くどんなに磨いてもすぐにたばこで汚くなることを知っていて、1週間に1回の歯磨きで溜まった汚れが落ちる仕様になっているから磨かない、髪の毛や身体も同様のことだったが、眠気を覚ますために洗う。バイト先に着くと、少し騒がしくなっている。「どうしたんですか」「浅野さんが遅刻してんだよ」28歳、俺より6歳上の加藤さんはいつものことのように呆れ顔でそう言った。「いつもこんな感じなんですか」「あいつ仕事も碌にしない、終わってんだよ」と言う。終わってるという言葉の響きは俺に届き、俺はその響きを力一杯跳ね返し、加藤さんに向けた、響きは本来なら当たるはずなのに、加藤さんはさらりとかわした。「生活保護もらってるからな、余裕なんだろ」「そうなんすね」浅野さんは生活保護をもらっているらしい。「生活苦しいんですか?」「知らないけど、今何にでも病名つくから」そう返されると納得がいくが、それはともかく浅野さんが心配になる。なんてったって綾波レイなのだから、最初に包帯ぐるぐる巻きで出てこられたらたまらない、俺が制服でエバに乗り、死にかけるのはめんどくさい。「すみません」小さな声が後ろから聞こえる。金髪姿の女性がタイムカードを押しに来た。俺以外の全員から溜息が溢れる。0号機に乗った浅野さんには人間の溜息は聞こえていないようだったから安心した。加藤さんが帰ると、浅野さんは俺のところに来て軽くお辞儀をした。「ごめんね、遅れちゃって」「大丈夫ですよ」綾波レイとシンジが最後に残るエンディングを俺は知らないので、まだ何も終わってないと思うのだった。浅野さんは仕事ができるとは言えない、俺よりだいぶ長く働いているはずなのに未だにバイトの単純作業を覚えられていない。周りのアルバイトは口々に悪口を言っている。1番酷いと思ったのは、大学生である佐野くんの悪口で「親と子供がかわいそう、ネパール人だって日本語以外はできるのに」だ。色々と問題があるこの発言を俺は「綾波レイだから、きっと雑巾絞るのは得意だよ」と返した気がする。浅野さんがコスプレイヤーであることは周知の事実であったので、笑いに変えることができると思ったが、おそらく綾波レイを知らない彼は「なんすかそれ」と返してきたのだった。加藤さんが帰り、浅野さんと2人きりの時間が続く、しばらく経つと「前野くん、ちょっと」とレジの方から声が聞こえた。玉ねぎを切る作業を中断しそちらに向かうと浅野さんが男性に謝罪をしている。男性はこちらを見ると明らかに不機嫌な顔をして俺を睨んできた。「ちょっと、サラダのドレッシング入ってないんだけど」浅野さんがドレッシングを入れ忘れたようだった。「あと、箸も入ってねーよ、どうなってんだよ」追い討ちをかけるように怒鳴る。「お箸はセルフになっていますので」と頭を下げながら言うと、男性はさらに怒ってしまった。「セルフならセルフって言えよ、なぁ、こっちはさぁ、わざわざ病院から帰ってきて、久しぶりにすき家によってよぉ、家帰って袋の中見てみたら、ドレッシングもねぇ、箸もねぇ、ふざけたこと言ってんじゃねーよ」店内に怒鳴り声が鳴り響く、箸くらい家にあるだろう、と思ったが、俺はもっと彼の家の事情を想像しなければいけないとも思った。そこには片付けられていないたくさんの食器が台所をはみ出し、テーブルの上にまで侵食している。カップラーメンの空いた容器がいくつも重ねられていて、そこに蝿がたかっている。「ドン」客が壁を蹴る音で我に帰った。浅野さんはお辞儀をしたまま地面を見ているし、俺なんもしてないんだけど、と言う言い訳はここでは通用しないようだった。浅野さんが少し泣きそうなのが目を見てわかった、俺は玉ねぎでおもいきり涙が出ていたが、すぐ乾いた。バレないようにマスク越しで溜息をつき、自分のスイッチを切る。頭の中の牛肉は鍋の電源を落とされると、それ以上煮込まれることはなく、グツグツと言った音も立てなくなる。入れたばかりの生肉は汁を吸うだけで火が通らなくなるが、今のところしょうがない、生ぬるく赤い肉も鍋に入れたままにするしかない。「訴えるぞ、ふざけんなよ」「大変申し訳ございません」俺が謝ると浅野さんは「私のミスです」と俺を庇うように言った。怒りがおさまらない客は「名前言え、俺法学部だったんだよ、本当に訴えるからな」と言う。彼が法律を学んでいないことくらいすぐにわかった。そもそも企業がこの程度のミスでダメージを受けるわけがない、訴えると言う行為にはサラダの何倍もの金がかかるわけだし、俺たちは企業に守られている立場で、些細なミスが訴えられるほど甘く社会は作られていない。そんなことを考えなくても、彼の器量の小さい振る舞いが、学なんてないこと現していたが。「すみません、僕の伝達ミスです、僕の責任です」彼女から自分を彼のストレスの捌け口にした。「お前が責任者だな」「前野と申します」「本当に訴えるからな」「すみません」「すみませんじゃねーんだよ、どうしてくれんだよ」「すみません」「謝ったって無駄だぞ、どうするか言え」俺は仕方なく、店舗の奥に紙とペンを取りに行き、紙に店舗の電話番号と自分の名前を書いた。「すみません、法的に訴えてもらってかまいませんので」身体を直角に曲げて、彼に紙を渡した。俺はプラスチックの皮で作られた光沢のない靴を見ながら、少し目を細め、マスクに隠れて笑みを浮かべる。客は自分の武器が俺に通用しないと分かると、浅野さんに標的を戻した。そうされる事を想像しなかった自分を悔やむ。「でもミスは前野じゃないだろ、この女だろ、この女はどうするんだよ」彼女は黙ったまま俯いている。「黙ってんじゃねーよ」彼の怒りはピークに達していた。「もう一度お作りいたします」「もういらねーよ」彼はただ、誰かに文句を言いたいのだ、今は彼女の横で、一緒に耐えてあげるしかないと思った。「代金をお返しします」彼女はそう言って更衣室にお金を取りに行った。その発言にあっけに取られてしまった、従業員がレジからお金を取り出せないことに腹もなった。しばらくして、彼女が財布を持って戻ってきた。「前野くん、お金貸してくれない?」彼女は申し訳なさそうに300円しか入っていない財布を開けた。先程の苛立ちはその財布にしまわれてしまった。払う必要がない事を告げようとも思ったが、彼女をさらに苦しめると思ったからやめた。仕方なく更衣室に戻り、自分の財布を取り出した。中には千円札が2枚入っている。俺はその2枚をとってレジに戻る。浅野さんはそれを丁寧に受け取り、丁寧に客に渡した。「マニキュア塗ってるし、爪も切ってないし、なめてんのか」彼女の爪はピンク色で、栄養が足りず乾燥した皺だらけの手には決して似合っていなかった。客は乱暴に2千円を取ると、「くそ」と言い店を出た。店を出るとき、自動ドアにも同じ言葉を吐いた。2人から溜息が漏れる。「ごめんね、新人なのに」「いや、いいですよ」「さっき肩殴られちゃって、前野くんが来て助かった」「大丈夫ですか」「うん、もう痛くない」「良かったです」全然良くないのに、良かったですと言った。殴るのは流石にやばいし、それを武器に戦えただろうとも思ったが、そう言う選択肢は彼女にはないらしく、素直に反省しているようだった。「お金、今度返すね」2千円くらい良いっすよと言う言葉さえ、彼女を傷つける気がして「いつでもいいですよ」と答えた。「でもくそでしたね」と言ったが、彼女は「私が悪かったから」と言った。俺は話を変えた。「夜きついですよね」「うん、私すぐ体調悪くなっちゃうから」「じゃあ、なおさらですね」「でも給料ちょっといいから、頑張んなくちゃ」まだ俺は加藤のように冷たく離れない。「私、玉ねぎやるよ、掃除の方が楽だから掃除やっていいよ」と言われたので、断る理由を探す、「仕事早く覚えたいんで、今日は俺やりますよ」申し訳なさそうに「ありがとう」と言って彼女は塵取りを取りに行った。玉ねぎの仕込みが終わり、洗い物をしていると、掃除を終えた彼女がこちらに戻ってきた。加藤のように「掃除遅いよ」と言わず、「ありがとうございます」と言う。「タバコ一緒に吸おう」浅野さんがマスクを取ってニコッと笑った。LINEのプロフィールで見た顔とは遥かに違って、可愛いとは言えなかったが、久しぶりに見る女性の笑顔だったので、可愛らしく思えた。「前野くん、何歳?」「22です」「若いな〜」その言葉が哀愁を含んでいないことを確認して「浅野さんは何歳ですか」と聞く。「27」先程の含んでいなかったものが含まれたその数字は浅野さんが空気に消えるように故意に小さく発したものだというのがわかった。5歳差と言う重みは俺に重くのしかかる。そしてこの5年と言う期間を甘く見ていた自分を感じた。こう言う時に「いつもなにしてるんですか?」なんて発言することが当たり前の世界にいたことを実感し、話が終わってしまう前に他の言葉を考えた。「コスプレ好きなんですか?」「好き、アニメ好きだし」浅野さんの目がより一層輝いていることに気づく。「なんのアニメ好きなんですか」「カウボーイビバップとかカイトとか攻殻機動隊とか」攻殻機動隊以外はしらなかったが、その知らない単語が俺をほっとさせる、エバと言わないあたりにコスプレイヤーである彼女とアニメが好きと言う彼女の個性たるものを感じた。「攻殻機動隊は俺も好きです」内容を知っていることを無理やり好きに繋げる。「絵とか音楽が綺麗だよね、タチコマとか可愛いし」「そうですね、あの時代にあれだけのものを作るって」「うん」時代や背景を捉えて評価する俺とはアニメを見る観点が違うことを「うん」という言葉が暗示させたので、自分の土俵に彼女が迷い込まないように「タチコマのコスプレとかするんですか」と冗談を言う。「するよ」と言われたことに驚いてしまって彼女の土俵に身を委ねた。「タチコマが人間っていう設定ですか?」「ううん、タチコマだよ、ロボットの」「四つん這いになるんですか?」「うん、四つん這いになるの」「面白すぎです、見せてくださいよ」「恥ずかしいからやだ」四つん這いになった彼女を想像して、少し見たくもない気持ちがしたし、断ってくれたことが彼女と俺との距離を少し縮めた気がした。5時になりバイトが終わる。浅野さんと同時に店を出た。水色からオレンジ色に変わった光がタバコを吸う左手に当たる、乾燥した唇から血が出ていることがタバコを見て分かった。「家近くなの?」「近いですよ」「どこ?」「セブンのとこです」「あそこのセブンよく行く」家が近いらしいことがわかり、嬉しく思う、結局セブンまで行き、おにぎりを買った。「今日ありがとね、なんか奢るよ」と言われたので普段なら飲まないだろう1番安い100円の牛乳を頼んだ。癖のない牛乳。朝牛乳を飲んだのは久しぶりで、こんな生活していたな、と懐かしい気持ちになる。タバコを吸い、少し喋って帰る。「じゃあね」元気に言われて、バイトで疲れた俺は「ありがとうございました」と言う。この時間に元気になれるように生活を改めなければと思い、これからは毎日飲もうかななんて思うのだった。
前野
毎週土曜日のバイトは楽しみになった。お互いの共通点を探りながら会話をする、何度か同じ話を繰り返したりしたが、それは決してつまらないものではなかった。自分の話は極力せずに浅野さんの話を広げようと彼女のお勧めのアニメや漫画を勉強した。面白くないものもあったが、彼女と話すことでその内容は面白くなる。一つの雫が落ちて、波紋のように広がる。そしてそれは自分の雫による波紋とぶつかり調和する。彼女なりのユーモアが自分と調和するのだった。目を閉じて彼女のことを考えることも多くなった。ただ睡眠障害は治らなかった。徐々に上昇する気温以外変わらない土曜を過ごした。ただそれも長くは続かない。浅野さんは来なくなった。シフト表を見ると浅野さんの予定表に黒いマーカーで線が入っている。代わりにいる加藤さんに聞くか迷ったが、あまり良い答えは返ってこないだろうから、自分からは言わない事にした。「前野くんは学生?」自分からこの言葉を言うのは気が引けたが、頭の引き出しを開けば、大きく取りやすい位置にフリーターがある、その奥の綺麗な宝石は、引き出しの奥に入ってしまってなかなか光が当たらず、輝くことを知らない。仕方なく「フリーターです」と言った。「まだ若いんだから、いろんな事に挑戦できるよ」どこか違う角度からーー多分上の方だと思うがーー声が聞こえた。「車とか興味ある?」「ないです」話を終わらせたくないのか、彼は話を続ける。「いままでは何してたの?」「学生でした、でも辞めちゃって」「どこ大?」その言葉の響きも多分上の方で鳴っていた。正直答えたくなかったが答えない理由を想像されるのも癪なので「専門です」と嘘を伝える。話はそこで終わった。専門大学には不思議な力がある。「都留文科大なんだよね、俺」「そうなんですね」聞いてもないのに大学を言ったのは、彼には別のプライドがあるからなんだろうと察する。「資格とか取らないの?」「取んないですね、今のところ」「TOEICとかやったことある?」彼の誘導に従ってやろうと思い「やったけど、忘れました」と答えた、実際に忘れていた事なので嘘はついていない。「俺、830点なんだよ」「すごいっすね」こんな益体のない数字より、俺が22でお前が28であるこの数字の方が重大に思えた。給料は同じなのだし。でも彼は「すごいっすね」が含む嫌味と些事であると言う意を受け取らずに満足したようだった。加藤は自分のことに満足すると話題を浅野さんにした。加藤の呆れた口調と不敵な笑みに良いことではないだろうと思った。彼の出す特徴ある声は、人を何処かバカにしたようなそんな感じの印象を与える。「浅野どうなったか知ってる?」「知らないです」「あいつクビだよ多分、仕事出来ないし」「可哀想ですね」「何言ってんの、自業自得じゃん」「たしかにそうですね」「うん、そうだよ、そうだよ」加藤は俺の言葉に納得した、納得するように自分に言い聞かせたようだった。加藤のような冷たさがこのバイトには必要なのかもしれない、実際にシフトを決めているのは中国人のマネージャー、劉さんだ。最初、中国人がマネージャーをやっていることに驚いた。企業は使える人材は使う、誰でも良いように思えてしまう。彼の日本語は流暢ではないし、マネージャーになってからも上達したようには思えない。同じ東洋系のフィリピン人で最近入ったグエンさんと比較してもたいして変わらない。ただ漢字が読めるということのみでマネージャーになれたのだろう。浅野さんのことは仕方なく雇ったらしく、何度もミスを犯す彼女に苛立っていて、次のミスがあればクビと言っていたらしい。彼女のミスをカバーするように働いてはいたが、カバーできなかった。サラダの中にコーンの缶のとってを入れて提供してしまった。持ち帰りのサラダであったため、その場で処理できなかったのだ。店舗にクレームが入り、店員が女性であったことを客が告げてしまったらしい。それでシフトには入れなくなった。バイトの帰りコンビニに行くと浅野さんにあった。彼女はしゃがんでタバコを吸っている。多分、俺のことを待っていたんだと思う。バイトのことを聞こうとしたが、「おはよ、おつかれ」と言われたので、「おはようございます」と答える。「バイトのシフト入れられなくなっちゃった」浅野さんが笑って言った。俺は安心できる材料を知らなかったので笑わずにいる。「生活、大丈夫なんですか?」「うーん、ギリ大丈夫、生活保護あるから」「他にどっかで働かないんですか?」「働きたいけど、なかなかバイト受かんないんだよね、コロナもあるし」「そうですね」「前奢ってもらったんで、なんか奢りますよ」「じゃあ、スタバのやつ買って」財布の中から100円玉10円玉をかき集め300円にする。俺は牛乳とストロベリーラテを買った。「ありがとう、トイレの水飲んでたんだ」その言葉が面白いように聞こえた大学時代に戻りたいと思った。「水道止まってるんですか?」「うん、一昨日くらいに」「えー、やばいっすね」多分、どちらが先に言おうとしている言葉があり、それを2人して言わずにいる。1人は遠慮し、1人は喉の奥まで出かかっていてタイミングを見計らっている。そんな間をコンビニのドアが開く音楽が埋めた。音楽が止み、ドアが閉まる音が聞こえると、喉の奥にあった言葉が、息を吸い込んだ後、出た。「俺の家来ます?」「うん、行きたい」彼女は恥ずかしい素振りも見せずにあえて元気にそう言った。2人でアパートまでいく。朝の緩い空気が2人の間を通り抜ける。その空気の通り道を開けるように、距離を空けて歩いている。アパートに着き、階段を登る、ドアを開けた。部屋は少し汚いが、すぐに片付けられる程度、ベッドは一つしかないが、床には絨毯が引いてある。それを確認して、彼女を家に招いた。彼女のアパートとさほど変わらないであろう部屋は彼女を少し安心させたようだった。「ごめんね、ありがとう」「大丈夫ですよ、風呂も使っていいんで」いつもなら小説なんかを読むが、そんな気にもなれずに寝る事にする。「俺絨毯でいいんで」そう言って絨毯に横になる、カビ臭く、毛は潰れてザラザラとしている絨毯に手や頭を馴染ませて横になる。「ありがとう……」彼女は申し訳なさそうに俯いてつぶやいた、泣いているかどうかはわからなかったが、泣いてもおかしくないことではあるだろう。こう言う時にかける言葉を知らない俺は、目を閉じて眠ろうとした。目を閉じて思う事は、仕事のことではなかった。今後のこと、この後彼女に何をしたらいいか、自分の気持ちはなんなのか、整理をしている。しばらく女性との接点がなかった俺はこのチャンスを逃さずにどうにかして一緒に生活したいとも思う、しかしそれ以上に彼女の身に起こっている災難に対応する方法を必死に考えていた。そうするとまた結論が繰り返されるのだった。目を開けた時、彼女はいるだろうか、おそらくいないだろう。そう思うと眠れなくなり、身体を起こした。「あの……」服を脱いでいる途中の浅野さんに声をかける。浅野さんのこちらに背中を向けて、服を脱ぎ続ける、背中を見せることや、小さなお尻を見せることに恥ずかしさはないらしい。「あの……一緒に生活しないですか?俺も今結構苦しくて」一緒に生活をすればより一層苦しくなるなんてことを考えていては生きていけないと思う。自分たちの生活は先のことを考えるより、今のことを考える生活なのだ。「ごめん」彼女はどこかに縋ろうと辺りを見渡して、まずベッドが目に入るが、そこを汚すわけにもいかず、1番汚い場所に縋りついた。涙を拭くのは俺のTシャツであったから、手持ち無沙汰になった俺の右手と左手が自然と彼女の体に触れる。それは部屋のどこよりも冷たく感じた。自分の身体もさほど変わらないだろうと思い、近くにあったタオルケットを彼女に被せた。「久しぶりに泣いた、ごめんね」彼女の顔を覗き込むように見ると、目は赤かったが既にいつもの笑顔に戻っている。
前野
浅野さんとの生活が始まった、彼女は生きているだけで手に入るお金で生活することを拒んでいて、ソープランドで働き始めた。目が覚めて日が沈む頃に食べる昼食は彼女が作ってくれた。朝食はバイト先からもらう牛丼を食べる。べちゃべちゃな牛肉も家に着く頃には乾き、少しだけ残る暖かさは作ったばかりの牛丼とはまた別の味がした。牛丼には慣れた、生活するために慣れるしかなかった。家の隅には浅野さんの家から持ってきた洋服や、少しの化粧道具がいつでも出かけられるように整理されて置いてある。1番大きなトランクにはたくさんのキャラクターの衣装が入っていて、ピンクや水色の鬘が部屋の光を反射せずに灰色になっている。浅野さんのソープランドは駅にあり、俺がバイトを終えると浅野さんを迎えに行く事になっている。ソープランドの裏口から男にドアを開けられ女性が出てきた。300円ショップのスリッパを履いて、パジャマみたいな格好をしている、帽子を深くかぶっていたから顔は見れない。しばらくして浅野さんが出てきた、男にドアを開けられるのではなく、重そうなドアに肩をつけて力一杯に体重を乗っけている。ドアを開けるのを手伝ってやると「ありがとう」と笑顔で言う。彼女の髪は変な匂いがした。その匂いは野薔薇を想起させ、その薔薇を手に取ってみるとプラスチックで作られた安物の薔薇であった。「仕事大変そうですか?」「うん、でも覚えること少ないから、給料も良いし」「そっか、身体の具合は?」「うーん、微妙」「なんて病気なんですか」どんな病気なのか気にかかっていたし、知る必要があると思って聞いた。「わかんないけど、病気」暗いことを笑って言うのが彼女の癖なのかもしれない、乾いた言葉が笑いによってさらに水分を飛ばされた気がする。その「病気」と言う言葉は病名がつくには消極的すぎる、そんな病気であることを俄に暗示させた。「コンビニ寄るでしょ?」「寄るつもりです」「牛乳飲むの?」「はい、元気になるじゃないですか」「そうかなぁ、私は給食の牛乳で腹下しちゃうタイプだった」「俺は何本も飲んでました」「何が違うんだろうね」自分が余分に飲んでいた牛乳は誰かが残した、彼女みたいな誰かが残したものであることを思い出した。小学校の時からあってだろうこの「違い」の大きさを大人になった今なんとなく感じた。コンビニについて牛乳を買う、まだ給料が入っていない彼女にタバコを買ってあげようとすると、「使いたくないけど、お金はあるから」と言って断った。生活保護の出所なんて、俺か、俺を含めた大勢かの違いしかないのに、その違いもまた大きいものだと思った。アパートに戻ると、コーヒーを入れる。コーヒーはインスタントのものに変えた、味の違いは気にならなくなっていたし、彼女もそれを好んで飲んだので、それにした。コーヒーを飲みながら小説を読む、彼女はその間何かをするわけでもなく、部屋の隅で足を抱えてうずくまり、俺を見ている。俺から小説を想像しているのかもしれない、そう思うと文章に集中できるのだった。小説を読み終わると、2人で公園に行く、その公園は遊具が市によって撤廃され、ベンチと大きな木が地面に植え付けられている、そんな公園だった。ベンチにはホームレスが寝ることのないようにちょうど真ん中に手すりが付けられていて、その手すりを挟みたくない浅野さんが俺の隣に窮屈に座るのだった。2人の体温は低く、寄り添うことでちょうどよくなった。気温が上がったことで活発になった肌を指す虫も、2人の肌には興味ないように周りを飛んでいる。たまに耳元で音を鳴らしたが、2人も気にしなかった。缶チューハイを一缶だけ買ってそのベンチに座り、少しずつ飲む。2人の体温はチューハイによってさらに温まった。風が吹き、小鳥の囀りが聞こえる。たまにスーツを着たサラリーマンがもう片方のベンチに座り、タバコを吸って、また颯爽と立ち去っていく。2人は昔あっただろう遊具の様に、風を受けながら、しっかりと地面にくっついて会話をすることなく静かに自然の音に耳を澄ませた。日が登り、公園が子供で賑わってくると、彼らに公園を譲り、アパートに戻った。バイト先の洗い物のように浴槽にためたままの緩い水につかりベッドに入る。節約も兼ねて、2人で入るようになった。最初こそ恥ずかしかったが、緩い水は1人分の身体を温めてはくれなかったから、2人とも身体を寄せ合った。固形石鹸で髪も身体も洗う、手の届かない背中は彼女の手が届いた。同じように、俺の手は彼女に伸びる、彼女の背中はローションが乾いてなかなか落とせない部分と違い、少量の垢を簡単に手で落とせるのだった。彼女の膨らんだ胸が自分の胸に近づくと、体温が上がり、その体温に反応するように勃起した。彼女は何も言わずに真剣に、労働で硬くなった手で、硬くなったものを触る。徐々に上手くなる彼女の手つきで、俺のペニスは刺激されて、その刺激も身体を温めたように思える。もしくは温めなければいけないのかどうかをわからなくさせたようだった。身体を洗い終わると、タオルで身体を拭く、ざらついたタオルはなかなか水分を吸収してくれなくて、吸収したかと思えば、水分で冷たく硬くなるのだった。拭き取るというよりは弾く様に身体を拭くと、その摩擦を彼女はくすぐったく感じる様で、恥ずかしそうな声を出した。彼女の薄い皮膚もそのタオルで簡単に水分を飛ばせる様に、硬く乾いたものだった。服を着て、2人でベッドに入る、お互い疲れているから、何もせずに、ただ目を閉じた。寝れない俺はいつものように瞼の裏の暗闇の中で考え事をした。ソープランドで働く彼女を思い浮かべた。店を出た客の会話は良いものではないだろう。「ブサイクだった」「萎えた」「イケなかった」「ガリガリすぎ」「ブサイクだから抜けるんだよ」耳を塞ぎたくなるが声は聞こえていない、暗闇の中の想像から逃れたくなった。そんな時、彼女の吐息が聞こえた。静かで申し訳なさそうな音だった、波のように押し寄せては引いていく、そんな音に瞼の力が緩んだ。
その夜、その音が続くように俺に夢を見させた。俺は海岸を海に向かって歩いていて、海の中では真由美が溺れている。溺れている真由美を助けようと海中にいる人が泳いで真由美に集まっていく、男が真由美の手を掴んだ、男はそのまま海の向こうの島に泳ぎ始める。その島は俺からは遠く男からも遠い場所にある。俺は立ち止まり「こっちに来るんだ」と叫んだ。真由美は必死にもがきながら島の方へ手を伸ばす。俺は真由美に手を伸ばしたが、俺に左手はなかった。サメにでも食われたのだろうか、刻刻に破けた皮膚が服のようにひらひらとしている。右手だけで泳げるとは思わず、俺は誰かを呼ぼうと後ろを振り向く。振り向くと浅野さんがいた。彼女には手足がなく、生まれてからずっとそうだったように滑らかに皮膚が腕と太腿の先端を包んでいる。「私も連れてって」大袈裟にぎこちなく笑った。振動で乳房が揺れる、その乳房のために他のものを奪われたように乳房の形は綺麗に整っていた。彼女はそれを知っていて、笑うのをやめない。潮風は少し強く、彼女の方を向く俺の背中を押して、彼女の胸を少し揺らした。「船取ってきますよ」「だめ、27年間ずっと、一生懸命探したんだから、でもなかったの」「俺の足ならもっと探せますよ」「みんなそう言うの、あのね、いろんな男がいたの」彼女は唐突に話を始めた。「ある男は、私に船を探すと言った。船を探しに行って疲れて帰ってくると私を犯すの、最初は私に同情していたけど、最後には力強く叩いたり、首を絞めたり、あそこに拳を入れたりして、満足したように壊れた私を見ると、どこかへ行ったわ」乳房が揺れる。「次に来た男は私に動画を見せたの、私と同じで手足がない人が50m泳ぐ動画。それを見せ終わると、私を海まで連れていき、裸の私を海に浮かせるの。力一杯、腕と太腿を動かしたけど全然泳げなくて、そうすると男は怒り出して、「身体を使うんだ、腰を使うんだ」って言った。何度も言う通りにしたんだけど、一向に前に進まないと、男は私の身体から手を離したの。私が溺れるのに面白みを感じたんだと思う。私を仰向けにして、水の中に私の顔を沈めると身体は不思議で腰が浮くの。浮き出た暗部に激しく指を入れて「腰を動かせ」って言って怒った。私の腰が動かなくなると、私を海に浮かべて、男は1人で陸に上がった。私は必死で陸まで手と足を動かしたけど、全然前に進まなくて、気を失っちゃって、気がつくと波に流されて陸にたどり着いていたの。」「俺は違いますから、船をちゃんと見つけてきますから」「でも前野くんの腕じゃ右にしか進めないじゃない」乳房が揺れる。あたりを見渡したものの船はない、ただ、地平線に、俺の目の届かないところがあるかもしれないから、足に力が入り走りだそうとした。「行かないで」浅野さんがそういう、また笑っている。「私はここで溺れている人を見るのが好きになったの。溺れている人が沈んで行くのを見ると、私はこの身体で生まれてきて良かったって思うの、だって海に入っても死んじゃうんだもん」振り返ると真由美の身体が海の中に沈んでいくのがわかる、真由美の手を掴んだ男の身体は、真由美より重く先に沈んでいた。真由美はもがきながら少しだけ俺を見た。俺を見て、また島に手を伸ばした。
「大丈夫?」その声で目を覚ますと、浅野さんが心配そうに顔を覗き込んでいる。「夢を見てたんです」「怖い夢?」そう聞かれて、少し困ったが、夢の内容を言うことはできず、仕方なく話を作った。「海の夢です、自分の体は多分小学1年生くらいで、6年生との合同授業でした。海の向こうに島があってそこまでレースしたんです。親に犬かき教えてもらったばっかりだったんですけど、クラスで泳げる子って言われて、手あげちゃったんです。クラスで目立たない子が手あげて、自分も泳げるって意地張っちゃって。海に入ったらみんなクロールするんです、俺犬かきしかできないから前に進まなくて、ダントツビリで、もっと焦って水をかくんだけど、全然進まなくて、溺れちゃったんです、後ろで見てる6年生は大爆笑してるんです、俺が死にそうなのに。どっちが前かどうかもわかんなくて、ただもがいてたら、ボートに乗った浅野さんが声をかけてきたんです、手を差し出して「大丈夫?」って、それで目が覚めたんです」ローションで手が滑った、と思いついて、自分の想像力を嫌に思った。「助かってよかったね」浅野さんは心配そうに言った、こういう時に笑わない彼女の顔は真剣そのもので、俺は恥ずかしくて目を逸らした。彼女と話していると自然に落ち着く、得体の知れない誰かに見られている気がする、その誰かは俺のことを大体わかっていて、あえて何も言わない。それが俺を安心させた。「今度、お金貯まったら、海行きません?海行きたい気持ちになりました」「行きたい、海行ったことないし」彼女が心配そうな顔をやめて、笑った。その笑いは夢で見た笑いとは違った。浅野さんの顔に俺の顔を近づけて、瞼を閉じた。不思議と安らかに眠れた。
前野
真由美の夢を見たことは言えずにいた、そもそも浅野さんに真由美ことを話していない。自分の前の生活など浅野さんは興味無さそうだし、あっても聞かなさそうだし、俺は自分から話したいとは思わなかったかし。バイトがイレギュラーで早く終わってしまった日、駅には行かず一旦アパートに帰ってきたことがあった。浅野さんと2人の時には確認しなくなっていたポストに視線を落とす。アパートの前にある街灯はいつも点滅しているのに、今日はそのポストを照らすように光を当て続けていた。錆びた取っ手に手をかける。なかなか開かないポストに、力を入れる。勢いよく開いた。中身が入ってることを考えずに開ける癖がついていたから、白い封筒は地面に落ちた。住所や、名前などは書いてない。糊がついていない封筒はいつでも中身が出ても良いのに、その封筒の中の一枚の紙は重くずっしりとしていた。「舞台 嵐ヶ丘 主演橋本真由美、成瀬智弘」真奈美の文字に男の方の名前は吸収されてしまい、記憶には残らなかった。彼女にとって大きな意味を持った舞台であることは、嵐ヶ丘によって強く印象付けられる。彼女は今まで幾つかの舞台を行なってきたが、どれも同じ劇団や同じような劇団の脚本家志望の若者が書いた作品ばかりで、決して先に進めるようなものではなかった。見に来る人間は家族や、友人、アングラ好きのオタクくらいなもので、俺はその脚本をつまらないと思っていた。演者である彼女はその役にピッタリと当てはまり、若者が書いた演出らしい、初々しさと、拙さを身体で表現していた。彼女が家のポストに入れたことは俺への当て付けかもしれないし、もしくは俺の背中を押すものかもしれない、どちらかの意を、もしくはどちらの意も含んだその行為と、彼女の名前が印刷された紙に「おめでとう」と言った。空の郵便受けがその声を飲み込んだ。バイトの休みを狙って演劇を見に行った、浅野さんは寝ていたし、彼女がその場にそぐわないことはわかっていたから、1人で行った。またチケットも1人分しかなかった。演劇は素晴らしかった。他のどの嵐ヶ丘とも違った、彼女らしい演出だった。もう違う世界へ行ってしまったと思った。最後に、彼女に別れを告げようと思った。もうこんなことしなくていいと、そう言おうと思って、彼女を裏口で待った。何人か知っている顔が出てきたが、俺には気づかず、颯爽と帰っていく、満足そうな顔をして。その顔を見ると、胸が苦しくなってきて、非常階段の緑色に止まっている蛾が光に飽きて飛んでいくのを眺めていた。蛾は翅を動かさず、ただじっと緑色の光に止まっている、プラスチックの板のその先には絶対いけないはずなのに、ただその板が壊れたりするのを待っているようだった。俺は蛾に向かって吸っていたタバコを投げた、蛾は少し光から遠かったが、またプラスチックの板に張り付いた。真由美が出てきた。俺に気づくと、真っ直ぐにこっちに向かって歩いてくる。それはどこか演技のように手足の動作は洗礼されていた。繊細な指先が俺に触れる前に、俺は「久しぶり」と言った。2メートル離れて彼女は止まった。「久しぶり、来ないと思った」「来るさ、暇なんだし」「暇なのね」一瞬輝いた目はすぐに俺の汚れたジーンズを見たようだった。「面白かったよ」「わかってるわ」彼女もまたさっき出てきた人間のように自信満々だった。その言葉を聞いて、「もういいよ」そう言おうとした、でも彼女はそうさせなかった。「この後時間ある?」「まあ、あるけど」「前に行ってた喫茶店いかない?」そこは、いつも通っていた場所だった、前に行っていた、と言われて、仕方なく、思い出すように「あそこか」と言った。演技のプロには見破られてしまうかもしれないが、そんな演技しか出来なかった。喫茶店に入る、店員はこちらに会釈して、何も言わずに灰皿を2つ出した。「本当に久しぶりね」「まあね」「何してたの?」「バイト」「そう」沈黙になるとコーヒーが出てきた。一口飲む、いつも飲んでいるインスタントコーヒー味は、記憶からなくなった。「悪いとは思ってないの」コーヒーの湯気が彼女の強気な発言に靄をかけて、悪い気持ちはしなかった。彼女は話を続けた。「私はあなたが好きだった。あなたの目の奥にはもう1人のあなたがいるの。その人は中々心を開いてくれなくて、どうにか近づこうとするんだけど、目の前のあなたが冗談を言って邪魔するから、どうしてもたどり着けないの。ずっとあなたと生活していたら、目の奥にいるあなたがいなくなってしまったの。もしかしたら最初からいなかったかもしれない、それを確かめたくて、私アパートを出たのよ。」抽象的な話をするのが好きなのが彼女の癖だ、鋭いところを突いているけど、それを有耶無耶にするようにあえてそうやって喋るのだった。「で、今そいつはいる?」「わからない」彼女の真剣な目を見る、その目の中の自分から目を逸らそうとコーヒーを見た、有耶無耶にしてくれる湯気はもう立っていない。「あなたが前、「オナニーみたい」って言って喧嘩になった脚本家覚えてる?」「覚えてるよ、名前は忘れたけど」冗談にしてはつまらない、馬鹿げたものだと思った、当時の俺は冗談を言ってふざけていないと生きていけなかったのかもしれない、その時彼女は「バカ」って言った気がする、彼女が笑ってくれたから、それ以上のことは考えなかった。「あなたが好きなフランスの脚本家が同じような評価をしていたわ、言葉は違ったけど」レオスカラックスの事だろう、彼ならそういうに違いない。「劇団員の彼もその脚本家が好きだったの。正直私には何言ってるかさっぱりだったわ、勉強したのに」「ただ適当につまらない冗談を言っただけだから」彼女は伝えたいことを伝えようと、俺の言葉を無視した。「その劇団員どうなったと思う?」「死んだ?」彼女は呆れた顔すると思ったが、真剣な顔のままだった。「そういう、想像しかできないわけじゃないでしょ?」そう言われて、自分の中の答えを探した。簡単に答えは見つかり、その答えに蓋をした。でもそのプラスチックの蓋は彼女の熱い視線に、溶かされて無くなってしまう。「成功したのよ、違う人に見出されて」「そうか」「この世界はなんでもありなのよ」「そうだね、すごいなその劇団員」彼女がスマートフォンでそいつがやっているドラマの広告を見せてくれた。テレビがない俺はわからないが、最近やっているドラマの脚本を書いているようだった。スマホをスライドし、男の名前にそっと触れると、男の顔が画面に表示された。その男はどこかで見たことがあった、夢の中で真由美の手を掴んだ男だった。男は島にたどり着いたらしい、もしかしたら彼女はもそうかも知れない。「また、小説書いたら?」「書くよ、時が来たら」「何それ、いつなのそれ」「海に行ったら書こうと思う」「冗談ばっかね」冗談ではなかったのに、冗談と言われた。まあ、それでもいい、真由美が笑顔になった。人が自分のことで笑ってると思うと、笑えない現実を自分が作り替えている気がする。そういう思考がまだ自分に残っていて安心もするのだった。