人は必ず死ぬ | akyoonの異端の医学と不思議な情報

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医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

2005-03-22投稿記事

まあ、当たり前の話だけど。
しかしこの当たり前すぎるほど当たり前の話が通じないのが生きている者の欲とでも言うのだろうか。

これを強欲と言うか、自然に備わっている生存欲とでも言うのだろうか。

あちらの世界からこちらへ生まれてくる時は とても恐ろしいという。
でも、こちらでは誕生してきた子供を祝福してお祝いする。

あちらの世界では戻ってきた時に大いに歓迎されて、しかも帰ってきた魂はほっとするという。
そうとう苦難の旅であったときはそれもひとしおの想いなのだろう。

しかし、こちらではあちらの世に旅立ったと言う。
そして、皆がとても悲しんで「かわいそうに」などと言う人もいる。

特に若い年の人が死んだりすると、何かとても間違っているような感覚でみてしまう。
「どうして?」とか何か間違っているという前提を作ってしまうくせがあるようだ。

だから、その重大な原因が何かあるはずだと考えてしまう。
そこには「何か間違っていた」生き方があったとか、「なにか間違ってした」ことがあったとか、

いろいろ詮索をしてしまう。

でも、本当にそんなに簡単に原因があるのだろうか?
人に人の死の原因など分かるはずがない。
だいいち、その人の寿命も分からない、だから、他人の死期をハッキリと言い当てる人など居ない。
それどころか、自分の死期さえも分からない。

そんな人に原因だの間違っていただの、そんなこと分かるはずもないのだ。

だいいち、若くして死ぬことが本当に間違っているのだろうか?
長生きしていることだけが本当に正しいことなのだろうか?


まったくそんな事には関係なく人はこの世に旅立ってきたとしたら、
しかも、波瀾万丈、とても悲惨な人生だったとしても、

自分の予定コースになっていたとしたら、

ゲームセンターでゲームをするときに一番のめり込むとき、我を忘れている。
そしてゲームが現実そのものの様に錯覚してあつくなっている。

人生のゲームに入るとき我を忘れているとしたら。
その我とは 自我(別名エゴ)でなく、大我、真我のところであったら。

死とは自我から大我、真我へと意識が拡がってゆけるとても良い切り替え時なのだろう。

ゲームセット、そして、また新たなゲームに向かっての楽しみがある。
ただ、死の直後はその現実感の興奮さめやらぬ自我がまだ残っているから、ちょっとの間に癒しの期間が必要だろう。

あ~~あ、少しゲームの余韻を楽しんで、あとはちょっと癒しランドでも行って逗留してさっぱりとしてくるかな~~~~


ほんとにほんとにご苦労様でした。
また合おうね。
まだ僕は迫真のゲームで現実感たっぷりに味わって生きてゆくよ。

泣いたり笑ったり、落ち込んだり、感動したり、
こんなに山あり他にありの高揚感は、あちらで味わえないのだろうね。


では、またお会いしましょう。
    偉大なる先輩であり、友である貴方へ