《NO死と臓器移植のヤスメ》
1999、7、11 himaari
【脳死は死ではない】(梅原猛編/思文閣出版/1600円)を読んで、あ!なるほどネと感心したので、お知らせしました。
ススメでなく、ちょっとまった!ヤスメなのである。
なんだかんだと専門的な議論もあるようだが、「もっとも基本的なことを忘れてはいませんか?」
と言うと、「ナンダナンダ!基本って?・・」と聞かれるかどうか分からないが、ここは専門的なことは別にして子供でも考えられる単純なことだから、もちろんこの僕でも「なるほど!」と感心したことなんだ。
これをすすめているのは、だれあろう専門家たちである。これを決めたのはきっと審議会のメンバーが中心だから、とうぜん彼ら(賛成者)は臓器提供者になっ
ていることだろうし、その家族も登録していることは当たり前なんだが、それを法案として賛成した国会議員さんたちも同様であるはずだが。
しかし、それだけでは足りない。
とうぜんのことながら、日本の医師たち全部が臓器提供する者になって見せてくれることで、国民の大多数がそれを見て、安心することであろう。
ちょっと地域のお医者さんでもにカードを見せてもらえば納得できるかな?
出来れば病院の内外にそれを貼っておいて欲しいのだが。
もっとも、国民の大半がそれを信じて指示しても、賛同出来ない人も居るということを忘れてはならない。僕もそのうちの少数派?に入る。
要はそれを法とかで強制したりすることが絶対あってはならないことだろう。
臓器移植賛同者にそれを無理やり阻止しようとも思わないし、彼らはそれを求める者ものだから、体験してみなければ納得出来ない気持ちも分かる。
しかし、これは正しい考え方ではないのだろう。
「間違っている」という思うことに対して、「自分には関係ないものなら、どうぞご勝手に・・」という考え方であるから、これも一種のヒトデナシ属の部類になるかな?
「自分に関係ないことなら、何でもどうぞ」と何でも許すという姿勢は、一見太っ腹の様だが、これはとんでもない歯止めがきかない風潮を増長させてしまう。
どんな間違ったことでも、彼らはそれを体験して見なければそれを納得出来ないほど、真実を理解出来ないのだからーーーと言っていたら、戦争でも人殺しでも
イジメでも、自分に影響して来なければ「われ関せず・・」で知らん顔では、えらい世の中になって結局は自分もその影響下に入ってしまう。その時は、既に
「時遅し」である。
また繰り返すように、戦前に一方的に思想統一をしかけられ、反対意見はかき消されるほど、国民にただひとつの思考法を定着させることに成功した当時の軍部や、それに追随した大新聞などの報道機関を考えてしまう。
そんな医学的思想統一の論理がまかり通ったとき、反対意見はかき消されて、「国民総意」の元に半強制的に賛成多数派に同調させられてしまうだろう。
また、その当時の大新聞はまだ堂々と生きているのだから。
「脳死を認めないし、臓器移植の体験など一度もしたくない」人も居るということを尊重していかないと、過去の戦争時代の様に、国の意志に添わない“非国民”として葬られる被害者も出て来ることになるから、一つの選択だけにする法律というのは大変危険なことなのだ。
そして、片側の思想だけを国民に義務づけるように、一種のシカケを用いるとトンデモナイことになるのだ。
マスコミを使ったり、国が恩恵を与えたり、そうでない側は冷遇するというように、ジワジワと直接間接的に思想統一の手法を用いると、その結果は過去の歴史が何度も教えてくれている。
それで分かったのは、間違ったことは実体験でしか認識できない人が多かったということで、「いつも悔やんで見るのは体験した後から」というので、後悔と言うのかな。
そんな分かり切ったことは体験して見なくても分かる人も居るのであるから、そういう方たちは黙っていたら、後でとんでもない目に遭うかも知れず、やはり今の内に強い意思表示をして置くべきだろう。
そんな人達の為に、政府は賛成派には好評のドナーカードに対し、意思表示をしにくい反対派の為に反ドナーカードを用意して欲しい。
「何があっても脳死も臓器移植もしたくない」意思表示を常にして置かないと、いざと言うときにどんな目に遭うからもしれない。
それと、「家族の同意」などという危険なやり方は、実にブッソウに想う。
御自分の考えでも常に変化しているのに、まして、脳死判定の状況時、家族の誰が主権を握って居て、その人の思考が他人の影響を受けていつ変わるかも知れな
いのだから、家族がいま冷静で居ても、その状況時はどれだけ動揺して居るかも知れないのだ。それに、カードなど誰でも作れやしないのか・・、もし捏造され
て使われたら・・・、家族から自分は嫌われていなかっただろうか・・・(自分の立場をふと想ったりしてーー笑)
けっきょく分かり切っていることは、脳死を認め臓器移植を勧める人、賛成の人は「御自分の身を臓器提供する立場」に置かなければ、誰が信用するだろうか。
人には薦めるには、まず医療関係者自らそれを国民に体験して見せてくれないと、怪しく思う人も居るということである。
御自身はそれをやらないで、人にすすめるだけでは、シリゴミしたくなるのではないのだろうか。 特に生命に関することだから、いい加減な気持ちで実行する人は少ないはずである。
僕の様な者は、日本の医療関係に従事する人達が全部、「脳死を認めて臓器提供者となって」、まず率先して一般に先駆けてそれをやって見せてくれたら、少しは考え直すのだろうか?
それでも、いやでしょうね。それだからこそ“ヘソマガリ”と言っていばっていられるユエンでして・・・
脳死は臓器移植をするために(無理やり)生まれた、反自然的は屁理屈だとしか思えない。そんな思想を押し付けられ、さらにそれだけが正当な思考だと想わせ
て行くのは、やはり戦時の大本営的やり方を思いだし、マスコミがそれに加担しているかの様に報道しているのは、全然大新聞が戦前戦中の体質を反省していな
いからなのだろう。マスコミの情報だけを見ていると、いつも移植は必要不可欠で、患者の命を延ばして成功しているーーーかの様に想ってしまうから、それに
反対するなんてのは、情の無い非国民のような気がして来るので、つい反対意見の声も小さくなってしまう。
それと、『臓器移植をした方が、移植しないよりも健康で長生き出来る』という、それこそ「科学的証明」法などあるのだろうか?
この論理も「患者の生命を救う」という絶対的善意の行いの様に一方的に想わせているのではないのだろうか?
移植などしなくてももっと良い方法が実はあるのでは?
臓器移植が不必要になると、とうぜん脳死などという不可解な論理は立ち消えてしまうだろう。
僕は上からの情報にいつも想う。
果たして「それ」は真実なのだろうか?
上から言われるまま、素直に信じて良いのだろうか?
ナオ、NO死と書いたのは、脳死は死ではないという意味です。ねんのため。
次々と沸いて来るいろんな疑問に、【脳死は、死ではない。】という本は、賛成者も反対者も必読の書である。
これを読まずして脳死も臓器移植も論じられない
と、えらく評価してしまった僕(まだ三分の一しか読んでないー謝)