盆も過ぎた。あの世の方はどうなってるんだろう?
おい、一年に一度かい?
おいらの田舎は一年に一度お墓参りする。
一年中ご先祖様はお墓にいる。
そして、お盆になるとお迎えに行くのだ。
家に連れてくるというのだ。
それが13日。
そして、14日にも15日にもお墓参りに行く人も居る。
当地に住んでいない人がほとんどだろう。
え、家に帰った? いま留守になっているって?
そんな事言うヤツは居ない。
それにしても、お墓に一年中居るって?
この下に眠るって?
おい、おれはやだね。こんな湿っぽい地下じゃ(笑い)
だいいち、この田舎では盆しか家に帰れないというじゃないか!
それに「永久の眠りにつきました」なんて宣言されてさ。
ず~~っと眠り続けるの?あの世では。
そにしても、ちょっと変だぜ。
akyonn氏は「生前、世の中のために・・・余りお役に立たず・・(オイオイ)」
なんて褒められているのかどうかも知らないけど、「生前」だよ、「生きる前」。
じゃあ、「生きていたときが死んでいた」のかよ!
そして、
死んでから生きたのかよ!
ぐだぐだ言ってないではやく往生しろよ!
え、「往生」?
これも生まれ往くじゃないの?
じゃあ、こっちは死に復る ← 往復葉書のつもりで考えている奴
なんなんだいった、あっちの世とこっちの世とは?
生きてんのかい、まだ、あっちでも?
でも、死んだと言うじゃないの、こちらでは
じゃあ、上の話はどうなんだよ?
往生しましたってのは?
死に逝くではなく、行き往くのじゃないの?
そんなへりくつ考えているやつはいないぞ。
ということで、一応、型どおりのお墓参りを済ませて来ました。
でも、あのスマトラ地震の際20万人?
3月の東北大震災でも万人以上?
すごく多くの人がなくなった。
それに対してどう答えるの?
往生しましたというの?
みな、悟りを開いた仏に生まれ変わりましたと言うのが往生だとすれば、
どうしてみんな悲しむの?どうして喜んであげないの?
それは不謹慎だぞ!
え、生まれ変わって仏の様にさとるんでしょ?
なぜそれが悪いことなの?
悲しまないとなぜ悪いの?
それはね、
残された家族や友人にとっては凄く痛手なんだよ。悲しいのは当たり前だぞ!!
それを喜んでやる?
ばかいってんじゃねえ~~
そんなのはな、無関心、非情というものだ!
そうか、それは自分で体験してはじめてわかった。
いや、親の死でそうとう昔味わった居たんだけど。
それにしても、最愛の愛房を失って
どうして誰もオレの気持ちをわかってくれないんだ!
どうしてオレを慰めてくれないんだ!こんなに悲しくて落ち込んでいるのに!!
みんな非情なやつばっかりだ。くちだけじゃないか!
ってね(苦笑)
そして、今回の、いやいつもそうだけど、他人の不幸をみて、正直自分には実感がわかない。
スマトラ沖の大津波、もっともっとたくさんの人がなくなった。
それなのに、飯くいながら平気でみているおれ。
遠くの人だからか、外国だからか、日本ならもっと悲しくなるのだろうか?
そうでもなかった。
他人の不幸をみてあまり感じない自分を発見した。
それは悟りだろうか?
そうでもない。
自分の身内の時はかなり痛手を受けた、悲しく寂しく、そして誰もオレの気持ちを察してくれないという怒りまで起こった。
これはなんなんだろう?
もちろん、死についてはたくさん、たくさん知識を貰った。
死は死ではない。どころか、こちらの方が幻想、夢の様な世界だと知った。
それなのに、こちらの方が超リアルに感じる。
だから、こちらから去った者の方が夢の世界に行ったと錯覚している。
知ってはいるけど、感情的なものが許さないのだ。
人の死に際して、悲しまない人を非情と言うが、じゃあ、それはすべての人に対してわき上がるのかというとそうでないだろう。
極端だけど、世界でも悪者とか悪魔的な人間が居るだろう。
その人が死んだら、おまえは悲しむのか?
喜ぶだろう?
じゃあ、死んだら悲しむべきという「べき」は方程式ではない。
死は悲しむべきことだというのは「限定的」なのだ。
それもかなり湾曲している、「自分にとって」愛するとか知っているとか近い存在とか善とか、いろいろ条件がいっぱいあるだろう。
無条件で人の死に対する反応が、もしも、起こるとしたら、その人は毎日、毎分毎秒、悲しくて苦しくて、とても生きておれないくらいになるだろう。
人の死に対して無関心というが、それはその人にとっての条件付き愛でしかないのでは?
それに肝心なことをすっかり忘れているのだ。
悲しんでいるのは誰だ?
寂しい思いをしているのは誰だ?
そう、行った人ではない。
残った人である。
彼らは「別れ」を悲しんでいるのだから。
「死を悲しんでいる」のかどうかは違うのではないのか?
おいらだって人が死んだらどうなる?って事は、山の様な情報を探し捜し求めて、
だいたい結論は出ていた。
それでも、愛房の死の際には最上級ショックだった。
なぜだ?
それは「死」が悲しいのではない。
死とは生きる形態が変化しただけのこと。
むしろあの世の方がこの世で不自由していた人にとっては自由な世界だ。
それなのに、「死」を悲しむというは?
もちろん
自分にとっての哀しみなのだ。悲しみ。
独りになる悲しみ寂しさ。
けっきょく、自分が不幸になったということを言いたいわけ。
自分の支えがなくなったとか、いつもの話し相手が居なくなったとか、
とにかく、自分なのだ。
悲しいのは自分、せつないのは自分。
自分以外に不幸なひとは居ないのだ。
死んだ人は幸福になるのだから。
そうでないと自分が思っているとしたら、それは自分に知識がないか、思いこまされているだけだ。
しかし、その知識だけではない。
自分が残されてしまった自分が可愛そうなのだ。
お墓参りもご先祖供養も自分が可愛いからできるんだ。
そして、向こうも喜んでくれているだろうと。
自分が喜ぶのだ。
お墓もお位牌もこちらの世で考えたアイテムだ。
なんて言ったら怒られるだろうな。
それはこちらの居るとあちらが分からないから出来るんだ。
ひとはどんな死に方をしようと、それは個々人が独りで体験するものだ。
それがたった独りでのたれ死にしようが、集団で災害とか事故で死のうが、
起こる事は個人がたった独りで体験することだ。
一度に大勢死んだから
だから凄く悲しむ。
じゃあ、
おれの奥さんはどうなる?
たった独り、おいらに見まもられて死んでいった。
こちらは誰も人知れずに近い。
じゃあ、たった独りだから悲しくないのか?
そうじゃないだろう。
他人様が誰かの死に対して思う気持ちなどかなり個人的条件付きなのだ。
知らない人だったらほとんど無関心だろう。
それは当然なのだ。
おいらの奥さんに対して思う気持ちは、この世に居たときとあの世に行ったときどうかわるのか?変わらないのか? そんな事は個人の思いでしかない。
おれはおれでよいのだ。
本当は死など無い。
(魂のインターネット」という本で明快に解説されている)
あるのはひとの意識だけなのだという。
それは知った。
知識としてはある。
だから、かなり悲しむ「べき」状況でもなんとか自分だけで乗り越えられた。
(ほとんど独りきりだったから、他人様の慰めなどは無かったと思うほど孤独感があったけどね)
しかし、知識はあってもその衝撃は厳しいものだ。これは体験しないと分からないだろうけど。
知識がなかったらどうなんだろう。
おそらく、半狂乱的悲しみを体験するひともいるかも知れない。
悟るのだとは言わない。
それよりも
「知る」ことでいいのだろう。
知らないと知っているではやはりいざというときの感情の乱れが違うと思う。
人はこの世で支配されるのは自分の抑えがたい感情である。
感情で白も黒も決めてしまうことさえあるだろう。
おなじ事をして、同じものを見て
それを判断する。特に善悪にして判断する人間の最大なる癖。
何十万年かそれ以上かは知らないが、その様な世界を創ってはまり込んだ自分。
生と死という様に分離の世界を創って往復するかの様に創って自ら体験する自分。
すっかりその癖が鍋底にこびりついてしまった自分。
いくらこすってもなかなか落ちない。
感情というもので表面にわき上がってくるが、それもわずかずつだろう。
そのわずかでも相当きびしい、苦しいのだ。
いろんな刺激材料は押し寄せてくるが、やはり特注はひとの死であろう。
死に際して、行く者と残る者。その絆の深さによって感情が爆発する。
まあ、こんなのを芸術と呼ぶには不謹慎かも知れないが、
まさに、あの世とこの世の接点に深い芸術性を入れ込んだのかもしれない。
なんて、
ち~~~~~~ん
盆くら話はこれにて。