インフルエンザの恐怖もいいけど・・もっと知ろうとすれば玄人 | akyoonの異端の医学と不思議な情報

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医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

先のNHKスペシャル

感染症恐怖症を作り上げるために画策したんだろうけど。
ちょっと幼稚っぽい。

たしかに感染症は増えつつあるという現実があるのだろうが、その根本は大自然の浄化作用がおこすものだという根本が判ればよい。

しかもその
原動力が太陽様の黒点活動にあるとしたら、近年の地球温暖化も太陽の活動に影響されているというものだ。
そして、二酸化炭素問題は結果であり、ちょうど感染症の細菌やウイルスが結果であるものと似ている。

つまり、結果だけを問題視して真の源を見ないから全然的はずれな対症療法しか浮かばないのらな。

また前置きが長くなりそうなので、引用をはやく   と。

ーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーーーーーーーー
第一章
  予防接種に問題はないか?


 予防接種は安全で、身体を病魔から防ぎ、健康を守るのに有効な科学的手段だという見解が、広く大衆に流れている。


 しかし、事実は、このことに関して、行政機関と医学やマスコミが流す情報の間にかなりの差があるのだ。

実際、明白で合理的で疑いの余地がないとされているものの多くが、厳密な調査には耐えることのできないものであることが示されている。

多くの予防接種が、必要なく、我々が思っているよりもはるかに防衛力のない予防接種も接種後の短い時間内でも安全でくないという証拠がある。また、ある型の予防接種の長期にわたる作用が、健康上多大の災害をもたらしうるという証拠もあるのだ。


 歴史的にも、予防接種と免疫の話は、見せかけの成功と、重大で悲劇的な失敗と、客観的な証拠の歪曲がミックスした壮大な罪の物語である。その原因は、人間の性格の善悪もあるが、それと同時に、現在「真実」とされているものに疑いを差しはさもうとしない専門家の近視眼と無気力というものもある。


 で、これらの批判が、真実を語っているという証拠をこれから述べよう。読者は心して読んでいただきたい。

予防接種によって防衛力を与えるという戦略の背後にある多くの考えには病気の因果律に関する哲学的概念が根幹にあるが、それ自体に疑問をもたざるをえない。

というのは、こうした概念は、身体のもつ自己調節機能についての我々の理解を曲解させるようだからである。




 まず、感染に対して自身を防御する能力は、そのときの身体の調子の良否に密接に関連していることは当然である。

したがって、発達した社会での合理的な健康状態の子どもに関して十分な意味をもつ議論は、低開発国の栄養不良の子どもに対しては無意味かもしれない。

予防接種の危険の程度は、これら二つの相反する状態では、おのずから違っているからである。とすれば、これら両極端の間には、あらゆる種類の相違が見られることを認識しておくべきなのである。


 では、どのような相違があるか、その証拠を、これからの章で述べよう。

著者が今日までに達した結論は、健康と防衛力を獲得するにはもっと良い方法が他にもあるということだが、読者は、自分なりの結論を出すようにしてほしいと思う。




 さて、この本で明らかにしようとする見解は、現在実施されている予防接種についての疑問を呼び起こそうとするものである。それほ、さまざまの局面の疑問を次々と自問してきた多くの科学者や開業医(彼らは組織化された医学を非常に熱心に取り入れてきた)、そして公衆衛生の任にあたる行政官の証言に、大いに見受けられることになるであろう。


 そして、予防接種の短所と危険性を明らかにする場合、次のことが必要になるだろう。

つまり、接種の根底にある方法論の歴史を見ること(第二章)、現行の手法の裏に隠されている理論的根拠を検証すること(第三章)、多くの伝染病流行地域における有効性に対する疑問を綿密に把握すること(第四章)、現行の手法では先天性であるとみなされている長期の慢性疾患の恐ろしい潜在的な力を直視すること(第五章)、短期間の副反応に関連する証拠を注意深く考察すること(第六章)、そして予防接種は望ましいものであり効果があり安全である(とくに幼児に対してしばしば強制される)という宣伝の根拠とされてきた仮説に疑問を差しはさむこと(第九章)である。さらに、こういった問題の検証に引き続いて、予防接種に含まれる健康を脅かすものに対して、より安全な防御の代わりとなる方法を考え出すことも大切なことである(第八章)。

予防接種に代わるものは、たしかに存在しているのである。しかも、それは、予防接種によって将来の人生を増られる本人が考えると同時に、子どもの親が考慮する価値が十分にあることなのだ。 

 偉大な因習打破の作家、イワン・イリッチは、彼の大作還学の復讐』の中で次のように書いている。

「病気のパターンについての研究については、昔の僧侶と同じくらい、前世紀の医師たちは軽率に振る舞ったという証拠がある。伝染病は、僧侶と医師によって呼び寄せられ、まったく手を施さなかったが、さまざまな伝染病が発生し消滅していった。伝染病は、教会での魔よけの儀式と同様、医療施設で行われる儀式によっても、その毒を和らげることはできなかった」

 こうして彼は、どのような人間集団においても、一般の健康状態を基本的に決定づけるのは環境であることを、いみじくも指摘したのだ。中でも大きく影響する要因は、遺伝的傾向は別として、食物栄養、衛生(摂生)、労働条件、家屋条件などである。


 したがって、この本の使命は、これらの記述が真実であることを読者に納得していただくこと、少なくとも一般大衆が予防接種を容認している風潮に対し、それは被接種者に不適切な防御を与えているにすぎないという疑問の姿勢を起こしていただくことになる。


 そしてそのことは、自分自身と子どもや孫の健康を守りたいと望んでいる人たちや、健康に大いに気をつけている人たちに対して、より安全な代替となるものがあると考えるように導くことにもなる。

しかし、だからといって子どもやあなた自身に予防接種をしないようにと息苦していると考えるべきではなく、予防接種に突きつけられたクレームの多くに対して主張される正当化を疑問視するべきであり、隠されている利益について見積もると同時に、内包する危険についても思いをいたすべきなのだと受けとってほしいのである。




 こうして、予防接種についての多方面からの議論において、我々は(半分の真実)と前世紀から続けられている、大変懇切であからさまな宣伝のベールを破ろうと試みる。我々は断固として問いたださなければならない。

「予防接種は絶対安全なのか?」

「それは、本当に、伝染病から守る力があるのか?」

「副反応のリスクに催しないのか?」

「これらの副反応と後日の慢性の健康障害との間には、どのような関連があるのか?」
 *「副反応」とは、以前、「副作用」といっていたもののこと。もっとはっきりいえば予防接種による 「害作用」(高橋恍正氏)である。毛利).

要するに、我々は接種に伴う長短期にわたる副反応と利益とされている点に注目することと並行して、予防接種の基本にある概念の合理性に疑問を差しはさまなければならないのだ。

もし@された証拠を公正な心で検証するならば、長い間認められていた見解を変えることについて議論が行われるはずであるし、医学の方法としても良い方向に変化することが期待されるはずである。まず、我々は予防接種の興味津々たる多彩な歴史に、目を向けることにしょう。





 [[  第二章    予防接種の驚くべき歴史]]

 予防接種は、天然痘にかかったときの危険を最小限に食い止めようという、何世紀にもわたる試みから始まった。人々は天然痘を防ぐ種痘法の父として、エドワード・ジュンナーを知っているが、事実は牛痘(牛の天然痘) の種を使ってこの病気を予防しようという試みは、彼が実験をする前の世紀から行われていた。彼のアイデアは、この方法を使うことから生まれたのである。

 古代のイギリスやドイツで魔術や予言などを業としていたドワルド派の僧侶たちは、徐々に身体の抵抗力をつける試みとして、天然痘の患者の膿疱からしみ出した液を均質に薄めたものを使ったりしていた。

中世においては、同種毒療法として知られる天然痘の生物(膿や溶出液など)を使って病気を治療しようとする方法が、当代一流の天才的医学者パラセルサスによって、特別に用いられた

。歴史家ル・デュクによれば、一六七二年シラクサの老女がコンスタンチノープルで同じような方法を用いたとのことである。彼女は希望者の肌に×型に切り傷をつけ、傷口に天然痘の膿汁をこすりつけた。そして、これが天然痘を予防する確実な方法なのだといっていた。

また、こうした天然痘の分泌物に触れることを勧める以外の方法として、敬虔な祈りを捧げること、肉食を絶つこと、四十日間断食をすることきも行われていた。なかでも断食は、個人の健康上意味深い利益効果があるとして好まれた。



 なのに、この時代に天然痘がヨーロッパの広い地域に流行していたことは、記憶すべきことである。しかも多くの地方でよく似た予防法が行われていたけれども、すべて自己満足にすぎなかったのだ。


 しかしながらこのとき、エドワード・ジェンナーの仕事によって、種痘の組織的な実施が行われるようになったのである。彼の職業は散髪屋で、手足を治療する医師でもあった。



バーナード・ショウによると、天才というに値する彼のたった一つの資格は、牛の病気である牛痘に触れると天然痘にかからないという考えを、ジュステイという農夫から聞き出したという点だけなのである。


 この話の実際は、もっと複雑である。というのは、牛痘にいつも触れている乳しぼりの人たちから十分な情報を得ていながら、ジュステイの批判にもかかわらず、ジュンナーは「この防衛力は馬から得られたものであって、牛たちは馬痘に感染していたのだ」と主張したのである。

そして彼は、病気の馬から直接人に接種することを主張した。にもかかわらず、彼の実験は当時の人々に幻想をもたらし、英国議会は総額三万ポンドの賞金を彼に与えたのである。



 一度種痘に成功すれば、二度と天然痘にかかることはないという彼の主張は、これに反対する山のような証拠があったにもかかわらず、広く受け入れられた。

後になってヨーロッパでは、すべての幼児たちが牛痘の接種を受けることになった。そのあげく(十九世紀後半に)天然痘の大流行に蹂躙され、それがきっかけとなって、ジエンナ一によって提唱された方法は禁止されたのである。


 リンドラールは次のようにいっている。「一八七〇~一年にドイツでは天然痘が猛威を振るっており、一〇〇万人以上の人が罹患し、一二万人が死亡した。ところが、これらの人の九六%は、種痘をしていたのである。

たった四%の人が防衛力のない状態だったにすぎない。

そこで、ドイツの首相・ビスマルクは各州の政府に通達を送り、その中で、発疹性のおびただしい病人は種痘に起因していること、そして天然痘予防のための牛痘接種の効き目は完全にいつわりであることが明らかになったことを述べていた」


 バーナード・ショウは『ネイション』誌上に、次のように書いている。

 「種痘によって生命を守るのに失敗したことが否定しきれなくなると、とどのつまり、七年間はまだ有効だといい立てる(七は特別な魔法の数である)。そして多くの場合、再接種を義務づけたのだ。最も驚異的な大流行が起こって、種痘の義務接種が再高調に達した一八七一年には、毎日誰かが死の災害を受けたのである。この状態は、一八八一年の他の大流行まで続いた。ついでではあるが、この一八八一年には私も接種されたが、病気にかかってしまった。だが私は祖父よりも幸いであった。祖父は旧式の接種をし、種痘をし、その上自然の天然痘にかかったのであるから」



 それから後は、専門家たちは種痘にのみ頼ることは止め、発生を抑制する方法として隔離を始めた。

 すると、この方法は驚くべき成果を上げ、衛生学の進歩とあいまって、天然痘の発生をみごとに低下させた。こうして種痘の強制は大失敗に終わり、ついに廃止されることになったのである。



 しかし、このように失敗が明白であり、その副反応が多発したにもかかわらず、種痘主義者は、強制接種をしている期間はヨーロッパ全体として発生が低下しているとして、種痘を正当化しようと試みた。

もちろん、この低下と種痘とが相関しているならば、他のすべての方法は排除され、この方法の失敗よりも発生率が低いという長所のために、種痘の継続を促進することが重要であることを示していたはずではある。

けれど、天然痘の影響力の低下に対する栄誉を種痘に与えることはできなかった。なぜなら種痘をするしないに関係なく、ヨーロッパすべての地域で低下が起こっているという事実があったからである。

もしいくらかでも効果があるならば、コレラ、チフス、結核、赤痢といった同時代に流行した他の多くの「死に至るやまい」の減少に対しても、同程度には効果があると認められるべきであった。



 イワン・イリッチは、明確に指摘している。「工業化時代の最初から優勢であった伝染病に対しては、どのような医療が効果的であったかを、明らかにすることができる。

たとえば、結核は二世代にまたがって最高潮に達した。ニューヨークでは一人…年に結核の死亡率は確実に最高であった。そしてコッホが最初に結核菌を培養し菌体染色をした六九二年までには、人口一万人当たり三七〇人に減少していた。最初のサナトリウムが一九一〇年に開院したときには、その率は人口一万人当たり一八〇人に減少していた。

当時結核は、死亡率表の第二位であったけれど、第二次大戦後は、抗生物質が一般に普及する以前でも、一万人当たり四八人の率で、死亡率表の十一位にすべり落ちていた。

コレラ、赤痢、チフスなども、医療にたよることもなく、同様にピークに達した後、衰えてしまったのである。

病因論が解明され、特効ある治療法が確立されるときまでに、それらの学問は関連性の多くを失い、必要ではなくなっていた。

猩紅熱、ジフテリア、百日咳、麻疹の一八六〇~一九六五年間の総死亡率は、十五歳以下の子どもでは、抗生物質の導入とジフテリア予防接種の普及する以前であったが、この期間に総計で、九〇%近くの減少を示している」



 この死亡率の低下についての説明は、衛生状態の改善、住環境の向上、そして何よりも栄養状態の向上のために、病気に対する抵抗力が強化されたこととともに、微生物そのものの毒性の変化に、関連させることができる。


 このようにして、天然痘や過去の多くの感染症の自然史は、よく似たパターンをたどった。そして、これは予防接種に関連があるというよりもむしろ、人間集団でのより良い環境、より良い栄養状態に関連が大きいのである。このことは、これらの感染症を制圧する方法を改善するために、全力を注ぐ立場に立って考える場合、我々に明白で重要なガイドラインを与えてくれる。
                       (注1)

 そして、その場合、宿主(ホスト)とその免疫機能が、中心的で最も重要な視点となる。論争の常として、免疫機能を高める最高の方法は病原菌を弱めたり菌体の限られた一部分を取り出した感染源(すなわちワクチン)にさらすことだと考える人もいれば、免疫機能を高めるには住環境や栄養要因を改善しなければならないと考える人もいる。もちろん、もしわずかの危険だけの予防接種で効果があるならば、我々は、そうだと信じさせられているが - その論争は、公平に考えられるものとなるであろう。しかしながら、予防接種は本来短期や長期の危険性をはらんでいることが判明しており、またどれほど防衛効果があるかも疑わしいという指摘もあるので、すべての該当者への大量集団接種には、再評価を加える必要があるのだ。



 とにかく、ジュンナ一によって推奨された方法は、十九世紀には悲劇的な失敗に終わった。そして
 強制接種計画は、終局的には崩壊してしまった。



 種痘を経て予防接種までに発展させる考え方と方法論に、再び火をつけたのは、ルイ・パスツールの天才的な巧妙さと、行政への働きかけであった。

けれど、パスツールが公開デモンストレーションにおいて得た結果は、この方法の望ましい点を評価しようと試みる際の一つの大きな困難を明らかにしている。予防接種は、個人単位では、特殊な微生物に対するある程度の防衛力を刺激することを明らかにすることができた(我々はこの本の後の章で、この過程に含まれているメカニズムを、いっそう厳密に検証するであろう)。しかし、もう一度声を大にして「しかし」というが、この手法に内在する短期や長期の反動は、どうなのであろうか。

 問題の要点は、けっきょく、予防接種によって一つも望ましい効果を得られないことがしばしばあるというのではなくて、受容しがたい負担を負わないかぎり、健康に対して望ましい効果は得られないということなのである。

しかも、[[悲劇は、損失が明確でないという点にもある。というのは、損失の実態は長年の間現れないことがしばしばだし、たとえ現れても、因果関係を明らかにすることは必ずしも容易ではないからである。]]



幸か不幸か、最近の医学調査では、予防接種に起因する健康上の長期にわたる危険の可能性はけっして思いすごしではなく、真剣に注意を払う価値のある問題であることが示されている。

たとえば、麻疹のようなまれだけれど亜急性硬化性全脳炎を起こす恐れのある病気の予防が確立されたならば、どんなに多くの親が予防接種を受けるようにという勧告に喜んで応じ、愛する者を危険にさらすことから免れることであろうか?

また百日咳のような、不快な、まれには重篤化する病気に対する予防接種の短期間の副反応が、脳障害やてんかんといった重い症状(それはまれではあるが)を起こすことが知らされたならば、どの親がその危険を冒すだろうか?

これら二つの例では、その答えはわかりきっており、もしこの恐ろしい副反応と予防接種との間に確実な関連があるならば、接種を受ける人はたちまちのうちにほとんどいなくなってしまうであろう。

また麻疹でも百日咳でも、いずれにしても、罹患したときの危険がごくわずかなものであることがわかっていたり、また子どもの健康状態が十分な栄養や摂生のおかげで申し分ないならば、接種を受ける人は、さらに減少することであろう。

しかも、実際には、面倒な副反応の可能性は、ありうるばかりではなく、起こることがほぼ確実だということ、そして子どもが罹患したときの危険は、基本的な医学的手段さえとられておれば、最小限に食い止められるのである。

 {*たしかに、麻疹の余病は、肺炎を始めとして、日本では非常にまれになっている。ここに述べられてい
 る亜急性硬化性全脳炎も一〇万人に一人と、きわめてまれである。(毛利)}



 現に、きわめて重い脳障害の危険は、百日咳ワクチンでは実際に存在する。麻疹のようなワクチンでも、長期にわたる慢性の変性疾患の危険が存在する。そして、この事実は氷山の一角にすぎないのである。

たとえば、百咳ワクチンが脳障害を引き起こす事実を示すことはできるが(第五章参照)、この深刻な副反応と取るに足りないような副反応との間に、どのような種類の副反応が存在するであろうか。ある一部の子どもには、わずかな行動上の変化が起こるかもしれない。他の子どもたちには、健康状態を低下させる副反応が、注目されるかもしれない。

このような反応の問題は、「起こるか起こらないかどちらか」といったタイプではないからである。最も深刻な副反応しか起こらない、ということはありえないのだ。重篤な反応は、非常に劇的なものとして注目される反応ではあるが、長年にわたって、あるいはひょっとすると生涯、子どもたちの健康と行動に降りかかってくるのは、無数のちょっとした副反応なのである。

しかし、健康に影響を与えるすべての分野で何が危なくなっているかを、合理的に理解しようとする我々としては、これらのちょっとした副反応も深刻で明白な副反応と関連があるということを、心にとめなければならない。





以上ーーーーーーーーーーーーー