あるところに
目の不自由な人が居た。
目が不自由と言っても彼の場合は非常に特殊なのだ。
まるっきり見えないわけでもないのだ。
それは、ある大きさ以下になると突然見えなくなるという不思議な目を持っていたのである。
例えば野球のボールくらいまではよく見えるのであるが、 ビー玉くらいになるとまったく見えないのである。
野球のボールが道ばたに落ちていたら、彼はすぐひろって自分のものにするくらいだから、なんの不自由もない。
ある日、彼は道を歩いていたら突然足をすくわれたかのように、すべって転んでしまった。
どうしてそうなったのか、彼にはそれがまったく分からない。
道には何も無い、滑るようなものは何も見あたらないのだ。
彼は頭を傾げてしきりに不思議がっている。
それを通りがかりの人が彼の様子を一部始終見ていたのだが、おかしくてたまらないとともに、どうして彼は不思議がっているのか分からなかった。
そこで、彼に聞いてみた。
「あんたはどうして不思議そう顔をして居るんだね?」
「はい、何もない道なのに僕は滑ったかのように転んでしまったんですよ。何もそこにはないですよね。」
通りがかりの人はその言葉で理解した。彼には見えていないのだ。そこにあるものが。
「そうか、君には見えないのか。そこにたくさんのビー玉が散らばって落ちているのが・・」
「え、そんな物は見あたりませんよ。道には何もないんですよ。だから僕は不思議でしょうがないのです。無いものは無いんですから。あなたは想像で言ってるんでしょう?そこにビー玉があるなんて考えられない!!」
通行人はあきらめたのだった。彼にいくらビー玉の存在を説いても無駄だった。彼が不自由な目をいくらかでも回復出来る日まで待つしかない。いつかビー玉くらいまで見えるようになって、さらに米粒くらいまで見える様に回復するまで、さらにそれよりも細かい物がいくらでも続いて有るという事を覚らせるには時間が必要だと。
そういえば最高の科学と言われている物理学にもそういう科学者や教授がたくさん居ると聞いた。
彼らにも特殊な目の不自由な人がたくさんいるというのだ。
しかし、彼らの目はかなり良いのだが。
むしろ、普通の人よりも目が良いくらいだから、特殊といっても高等な特殊な目になるだろうが。
その彼らもやはりある程度までは特殊な目でよく見ることが出来るが、そのある程度を超えると途端に見えなくなってしまうという。
もっとも彼らは自分の目を使うわけではないのだ。
その特殊な目というのは道具を使っているのだ。
いわゆる測定器。
先ほどの特殊な目の不自由な人と共通な点は、「その見える限界を超えるとまったく見えないので、何もないと思っている」ことだろう。
不自由の度合いは違っても、「見えないから無い」という観念はまったくおなじ事なのだから。
昔は細かい究極は顕微鏡の見える範囲までであった。
それが進んで原子という粒が見えた時は世界中が驚きであっただろう。
しかし、それで終わりではなかった。
特殊な目が回復(進歩ともいうか)するにつれて、「無い」ものが「有る」に代わっていった。
「無」という、この世の中に存在しないものが、途端に「有」という存在する物に代わってゆく。
次々とその見える粒が小さくなって行き、現時点でそれ以上見えないもの(自分の今の能力では確認出来ないもの)を「無いもの」とした。
人類の特殊な目の不自由な人たちはどんどんその目を回復させながら、その見えない境界線を粒の小さいものへとしていった。
いままで「無い」としてきた世界はどんどん「有る」という世界に組み込まれて行ったのだ。
しかし、ある程度まで来たらどうやら足踏みし始めているかの様になっている。
どうしても、その小さいな粒を超えるほどの物を見る(測定)ことが難しくなってきたからだろう。
どうも粒というよりもなにか別の様相をしているかのような物では測りきれないものが有るかの様だが、どうしてもそれを見ることが出来ない。
それ以上の世界をまだ「無の世界」だとしておくしかない。
そして世界の優秀な「不自由な特殊な目」を持った人たちが見えないものは「無いんだ」と普通の人たちも信じている。
話は飛ぶ。
菌は自然発生しない
という特殊な不自由な目を持った人たちは言い放った。
そして、何も無い世界から生まれる(発生)するはずは無いという教義は何世紀か世界に行き渡った。
そりゃそうだ。何もないところから何も生まれるはずはないのだ。
しかし、通行人は言った。
「あんたがた、首を傾げているけど、そこにはちゃんとあるじゃない、たくさんのビー玉が・・」
すると、そこにはほとんど特殊な目の不自由な人たちばかりであったから、通行人には分が悪かった。
「バカいってんじゃないよ!!そこには何もないじゃないか。わしらの中でも特に目の良い連中が居て、そいつらが言ってるんだからマチガイナイ!」
通行人はあきらめた。彼らは嫌と言うほどビー玉で足をすくわれて転ぶまで気がつかないだろうな・・・
また話は飛ぶ
ウイルスというものが特殊な目の不自由な人によってついに見えだした。
その人たちはそのウイルスが見えるがまだその先の細かい世界までは見えないのだ。
だから、野球ボールまではどうにか見えてもビー玉以下は見えないのだ。
だから、野球ボールまでは「有る世界」だが、ビー玉以下は「無い世界」
ウイルスという野球ボールはまだ見えていないビー玉以下の世界から出来上がってきた。
まあ、出世魚じゃないが、ブリになったらようやく見えたというような。
稚魚の時は見えないから、いきなりブリを発見するようなものだろう。
とにかく、彼らは細菌の次ぎにようやくウイルスが見える様になった。
しかし、彼ら特殊な目の不自由な人たちにはまだぼやけて見えるという程度であって、野球ボールの細かい縫い目や皮の性質、中身がどのようになっているか、そしてその野球ボールはどのような素材を使って、どのように作られたかなどは知ることは出来ない。
だから、ウイルスがそこに存在するという事だけは確認できても、ただそれだけの事。
その正確な性質やら素性などを調べる事はまだ出来ないのだ。
それはそうだ。その奥の小さい世界はまだ目に見えない特殊な目の不自由な人たちだから。
その野球ボール(ウイルス)がもっと小さな素材から出来ていて、さらにその素材は分子原子そしてまたその奥の小さな微粒子から出来上がっている・・・・なんて気の遠くなるような奥があるという事をまだ知らないから、相変わらず「それ以上の奥は無いのだ」と決めつけている。
この先、特殊な目の不自由な人たちの中から回復度の良いひとたちが現れるまで、彼らは「そうなのだ。無いんだよ君~。無の世界なんだよ。無いところから出るはずないじゃないかね。ちみぃ~」
物質と霊の世界がどこかで輪切りにされて分離されているわけではない。
いっしょくたん
ただ、特殊な目の不自由なジンミンが現時点で見える(測定発見できる)ところまでを有る世界。
それ以上見えない(測定発見できない)世界を無い世界。
だから、その境界線は昔からどんどん塗り替えられているわけだ。
今日はここまで見えたから、ここまでは有るんだよ。
昨日まで無かった世界も今日は有るというのだ。
じゃあ、ほんとに無かったのか有ったのか?
有ったんだ。
特殊な目の不自由な人がかってに有るだの無いだのと境界線を作っていただけのこと。
今日「無い」と言っても明日には「有る」に換わるのが科学という仮の学問。
唯物科学というのは
「今日まで見えたものまでを」科学的という。
明日見えるかどうか分からないが、とりあえず~~今日見えたものまでだけを科学的を言おうよ~~
って、けっこう勝手な言い分じゃ~~ん。
ウイルスはまだまだそれよりも微細な世界から生まれたんだよ。
ナニ~~~~~~~~~~そんな非科学的なこといっちゃイカン!
まだ見えない世界(無と言われている)から生まれて育って大きくなった細菌がね、私たちの味方となって身体の毒素の浄化を手伝ってくれるんだって。
ナニィ~~~~~~
バカいってんじゃないよ!!!
無の世界から生まれたあ~~~~?
無いところから、どうして生まれるんだよ~~~!!
まだまだ特殊な目の不自由な人たちの回復を祈らずにはいられません。
そういえばオイラの財布いつも空っぽなのに、いつの間にかお札が詰まっている・・・
むむ~~、この財布は無限の無限のありがとう財布なのかも?
どうやら低次な妄想は続いているらしいキョウコノゴロのこころなのだ。