今日も訪問してくださり、ありがとうございます。
一日中、うちの中にいましたが、
外はとても寒そうでしたね・・・
みなさま、冷えないようにお気を付け下さいね
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自分開示ブログ
自分の事 その9 生い立ち(幼児期)はこちらです
自分の事 その10→小中高で一番印象に残っている記憶はこちらです
自分の事 その11→大学生時代はこちらです
書いていて、あらためて自分の事、
暗いなぁというのと
両親のこと大好きだったなぁということを感じています
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卒業旅行はヨーロッパ7か国を3週間で周るハードなものでした
個人旅行をしたかったのですが、友人の親御さんがNG
まあ女子同士、仕方ないですね
なので3週間でヨーロッパのメジャーな都市を回って
好きなところをセレクトして
次はそこにゆっくり行くための味見?的な気持ちで行きました
(なんて生意気な(^^;)
今でも印象に残っているのは
スペインで観た本物のゲルニカの迫力と
早朝のトラファルガー広場
シェーンブルン宮殿などの建物
あとは
パリで警察官に英語で道を尋ねたら
フランス語で返されて
私はフランス語はわからないと言ったら
大丈夫、僕はきみの言ってることわかってる
と英語で返されて
パリ人め~と思ったこと(笑)
書いていたらヨーロッパに行きたくなりました
自由に行き来できるようになるのは
いつなのでしょうね
大学を卒業し、父のつてで入った会社は
面白かったのですが、ここにいてはいけない、と
何か感じていて1年と一か月でやめました
当時の私は、
バブルではありますが、さすがに1年経つのを待って
辞めたと言われたくなかったのですが
大差ないですよね(笑)
どんな見栄なんだ(-_-;)
そのあとすぐには次の会社は見つからず
ここを落ちたらしばらく休もうと思った最後の会社に
拾って頂けました
それなのに、入社日を
旅行に行くから1日ではなく
2週間ずらしてほしいと言って
8月13日付入社(@_@)
驚いたことにもう一人、
1日付入社を断った人がいました
入社当時は世間一般的には有名ではありませんでしたが
その後、世界一の会社になっていきます
そのエネルギーたるやすごくて
その会社の社員というだけで誇らしかった
入った時はとてもアットホームで
本社の人はみんな顔と名前が一致していて
仕事も必ず顔を見て話して進める、という
全く外資らしくない、当時で言う
日本企業のよいところがありました
人事部人事課からスタートし、
営業と研究以外はほとんどの業務に携わりました
最後には、業界として
日本のやり方を取り戻すためのプロジェクトに参画して
0→1をやり遂げました
とても良い経験を積むことができました
その会社には23年在籍しました
最後の数年は休職して
フェードアウトでしたが・・・
20代は本当によく遊びました(仕事はもちろんしました☺)
なんといっても25歳の時、父が上海赴任となり
ほどなくして母も上海移住。
日本の家を守るということで、私一人残ったのですが
よく友達を呼んでました
男の子たちもよく泊まっていました
健全に仲良かった(笑)
とはいえ一時帰国したときに
母は近所の人から何と言われていたのか💦
父の赴任中、上海には3回ほど行きました
異文化に触れることが何よりも好きな私に
バンドの景色や
当時の上海の
場所によって全く異なる街並みの違いや
町中の市場など
観光地ではないところに行けるのが
本当に楽しかった!
友人と一緒の時は
上海から広東経由香港へ電車で行ったことも。
この旅行はハプニング含め
思い出が多い旅行でした
この旅行記、今度書こう!←忘れないために目立たせてます(^^;
父だけ帰国したときなど
京王プラザホテルのラウンジで
仕事の話をよくしました
その時間が、とても楽しかった
有楽町でランチしたりもしました
父が会社に戻ったら
不倫騒動になっていたという笑い話つき(笑)
本当のところは、当時の中国は、
何かあった時に出られなくなるので
私まで上海入りすると一家全滅になるから
という理由が、私が日本に残った理由でした
父の仕事は、中国にコンピューターを導入すべく
理系では中国一、二を争う大学で
コンピューターを教えるという
半官半民事業で日本側の社長という立場でしたが
ピストルを突き付けられたり
相当な嫌がらせを受けていたようです
そして、一時帰国時の身体検査で
肺がんがみつかり、急遽帰国することとなりました
荷造りを終え、帰国する日の朝
TVを付けたら日本が大変なことになっていました
帰国できるのか?
しばらくして、東京は大丈夫となり
帰国できました
阪神大震災でした
父の誕生日も1月17日・・・
このころは母も色々やってくれていたので
父の入院、看病、家の事を手分けしてやっていました
上司に恵まれ、内勤にもかかわらず
朝、どこかに立ち寄ったことにしてくれて
病院に顔を出してから出勤したり、
といったことをさせていただいていました
今でもその上司には感謝しています
会いに行こう ←ここも忘れないように
父の肺がんのステージはⅢ、Ⅳの間くらいだったと記憶しています
転移は見つからなかったのですが
相当な進行具合で、手術不可
余命3か月と言われました
この話は、母の心臓のことを考え
私が一人で聞きました
泣きはらしてしまったので
父が私を慰めるというなんとも・・・
そして二人で出した答えが
転移していないなら、手術してきれいに取ってもらえたら
寿命は延ばせるのではないか?
その可能性に懸けよう!というものでした
それから1997年4月に亡くなるまで
4回の大手術に耐えてくれて
そのたびに元気になってくれて
最後の方は
モルヒネで意識が朦朧となるのが
本人も不安なようだったので
とにかく手帳に「記録」するといいよ、
という私の言葉通り、
震える文字で毎日薬の記録をしてくれていました
信頼していた先生が、出張で病院を空けることになった日、
父は、その日が怖いと言っていました
最期のとき、いったん帰宅したときに病院から連絡があり
とんぼ返りでもどったような気がします
戻った時には、一般病棟ではなく
父は、私の記憶の中では、上半身を起こしていて
前方の廊下との区切りの窓の方をみて
「電車がくるよ、ほら、来たよ」
と言っていました
迎えに来たと感じていたのではないかと思います
亡くなった時、心房細動で心電図が
なかなかよくドラマで見るような
ピーっという、まっすぐにならず
まだ死んでない!と言って
お医者様を困らせました
(ご臨終ですを言わせなかったのです)
お世話になっていた先生でしたら
そんな私をも、見守ってくれたと思います・・・
父が病室を出たとき、
病棟のお医者さま、看護師さん、総出で整列して、
頭を下げて送り出してくださった光景に
父がどれだけみなさんの心の中にいる存在なのか
こんなふうに送り出していただける父の人柄を
・・・続ける言葉がみつかりません
今でもその光景をしっかり覚えています
父はもともとは商社で
薬の原料を輸入する仕事をしていました
「僕には間に合わないけれど
肺がんは治る病気になるよ」
と言ってくれていたのが
今の私の仕事の原動力になっています
父が亡くなって落ち着いたころ、
お世話になった先生方に
お礼のご挨拶に伺いました
本当によくしていただいたので。
でも先生方、みなさん、最初は身構えるんです
亡くなった後にまで病院にくるのは
恨み言を言いに来るご家族の方が多いから、と
申し訳なさそうにおっしゃってくださいました
それも寂しかったな
父が亡くなって4か月後、
私が原因不明の病気になります
父が亡くなったのは58歳
私が30歳の時でした
父は、今の私の年齢の時に
がん宣告を受けました
母が43歳で脳梗塞で倒れ、
亡くなったのが私が43歳の時
父ががん宣告を受けたのが54歳で
今、私は一昨日、54歳になりました
昨日に続き、今日も、驚きの発見
このブログ、書かされているのかな?
今日もここまで読んでくださって
ありがとうございます