東海市を歩く~平州記念館へ!細井平州と長益上人 | 郷土を愛そう!散策しよう♪ウォーキングブログ

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からのつづき


〔2018年4月13日〕


名鉄(名古屋鉄道)常滑(とこなめ)線聚楽園(しゅうらくえん)駅下車。


へいしゅうくん!

へいしゅうくんは東海市のマスコットキャラクター爆笑


東海市は偉人‘細井平州’の誕生の地!


今日はここの平州記念館・郷土資料館へ行きます。

ちなみに細井平州は何をやった方なのか…??


細井平洲(ほそいへいしゅう)は江戸時代の儒学者。

米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山の師として、多くの教えを残しています。


細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海 市)に農家の二男として生まれました。


幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。


18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3 年間にわたって中国人について中国語を学びました。 


師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾「嚶鳴館」を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。


 
実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの藩の賓師として迎えられました。 

明和元年(1764)、平洲が37歳のとき米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあ たりました。

17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。

平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。 

安永9年(1780)尾張藩主徳川宗睦の侍講となり、また、尾張藩校の初代督学となって藩学の振興につとめました。

さらに藩内各地で廻村講話(講演会)を開き庶民教育にも努めました。 

享和元年(1801)6月29日、74歳で江戸でなくなり、お墓は、東京浅草の天嶽院にあり、東京都の旧跡に指定されています。 

平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれ、また内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。

東海市HPより転載


聚楽園駅前の、愛知製鋼本社ビルの脇を通る!


国道247を直進し、上畑の交差点を左に曲がる。

以前のブログ記事
の時は右に曲がりました!


坂道を登る。


右向いたら、懐かしい感じがする路地を発見爆笑

今日は先を急ぐのでスルー…

また後日探検に来よう♪


黙々と進む!


長益上人安置??


ん?


お菓子‘田中屋’爆笑

駄菓子屋さんかな??

やっているのかな??


あのスプライトの看板、素敵だわ爆笑

昭和チックラブ


ん??


長益塚。


長益上人のお墓ニコニコ

長益上人は何をされた方かと言うと…


長益上人は戦国時代の人で、荒尾町の宝国寺の和尚様でした。

その頃は戦乱に明け暮れる時代で、農民たちは大変苦しい生活をしていました。

そこで、近郷の農民たちが集まって訴え出ることにしました。

そして、訴状を長益上人に頼んで書いてもらいました。

ところが、そのことが時の支配者に知られ、農民たちは処罰を受けることになりましたが、長益上人はそのとがめを一身に背負って処刑されました。

そのとき長益上人は「私は今こうして無実の罪によって処刑されるが、それゆえ、死んでも人々の願いを聞き届け出るぞ」と言われました。

その後、慶安2(1649)年に荒尾七ヶ村の人々によって長益上人の供養のために建てられたのが長益塚です。

以来、現代に至るまで、お願いごとで訪れる人が絶えません。

かつては遠く岐阜県辺りからも願い事のために訪れる人があったと言います。


説明文から転載

長益上人は素晴らしい方なんですね爆笑

お参りを済ませ、平州記念館へ向かうおねがい


つづきブログつづく