27年前、就職活動をした。

 

ある放送局の試験の時、

席が自由だった。

一つの長い机の端と端に席があった。

 

私が、座っていると、

「ここ、いいですか?」と

声をかけてきた

男子学生がいた。

 

目が合った瞬間に、

私は、ひとめぼれした。

 

試験が始まって、しばらくすると、

「できた人は、帰っていいです」の

アナウンス。

 

その男子は、すぐに部屋を出た。

私は、試験に集中できなかった。

 

「職を捕まえるか、男を捕まえるか」

 

5分ほど、自制したものの、

集中できなかったので、私も退席した。

駅まで走れば、彼を探せるだろうか?

 

そう思いながら、

部屋を出て、エレベーターの前に行くと、

その男子がいた。

 

彼は、

「先に出て、君を待ってたんだ」と言った。

 

遠方から、

わざわざ、試験を受けに来て、

互いに、ひとめぼれして、

試験をろくに受けなかった二人。

 

その人との記憶は、

そこまでしかない。

27年前は、遠い過去だ。

 

なのに、私は、その人の

名前、生年月日、出身地、血液型

出身大学、兄弟の有無、

そして、なぜか、

就職先まで、

情報を知っていて、

共通の友人もいないのに、

どうしてだろうと思っていた。

 

(どうやら、試験の日に

情報を交換し、

その後、会ったこともあるらしい)

 

 

27年の時は流れ、

先日、その人から、

連絡があった。

 

「探しました」と。

 

私は、

教室のホームページに、

私の名前を入れても

検索にかからないように

計算しているし、

フェイスブックなどの、

個人を特定できるものは

何もしていないので、

とても不思議だった。

 

その人は、

私に連絡したことを、

「世間一般で言う、

まともなことをこなした上での

行動」だと言った。

 

「まともなこと」とは

何なのか尋ねると、

 

「長年、会社勤めをして、

それなりの地位について、

家庭もあるということ」

と言った。

 

無条件に可愛い子供がいて

モテないことはない妻がいて

知られた会社で、

それなりの地位を得たという。

 

「だから、怪しまないでください」と。

 

彼の言いたいことはわかる。

 

だから、

商品を売りつけたりしないし、

怪しげな勧誘はしないし、

お金をせびったりしないし、

男女の関係を求めることもしないし、

付きまとったりしない。

自分には、守るべきものがあるから、

君に迷惑はかけない。

ただの懐かしさだから、

連絡したことを変に思わないでほしいと、

たぶん、彼は言いたかったのだろう。

 

でも、家庭を築くことを

「まともなこと」と

表現した本心は、

私に対する「警戒心」だと思った。

 

「まともなこと」は、結界だ。

 

「まともなことをこなしたから、

自分のことを

怪しまないでください」とは、

大人らしい建前で、

 

本音は、

「まともなことをこなしたから、

君は、必要以上には、

自分に、近寄らないでください。

自分から連絡はしたけど、

勘違いしないでください。」

という

結界を張った意味なのだろう。

 

些細なことで、

地位も家庭も吹き飛ぶ時代だから。

 

それ以来、

私の頭の中には、

「まともなこと」

というフレーズが、

こだましている。

 

「まともなことをこなした」

というフレーズは、

私の心を寂しく、

みじめにさせた。

 

私が経験した人生は、

「まともなこと」とは

逆の景色・風景。

 

我が子の棺、

我が子を火葬する点火スイッチ、

法廷、

私が、この世と、この国を

恨むきっかけとなった

理不尽な判決文。

夫婦での、ののしりあい。

そして、一人での生活。

 

 

私の人生のBGMには、

ショパンの

プレリュード4番 ホ短調が

似合う。

と、

一人で、

悲劇のヒロインになりきり、

 

2分で弾けるこの曲を、

100回くらい、

延々と、

壊れたレコードのように、

弾き続けた。

過去を振り返りながら。

 

ピアノは楽しむためだけの道具ではない。

悲しむための道具でもある。

 

延々と、この曲を弾きながら、

自分の過去と向き合う。

 

人は人。

私は私。

 

人の人生と比べても

仕方がない。

 

ピアノは、悲しみと向き合うときに、

最適な道具である。

 

アルゲリッチの演奏を

貼り付けておこう。

プレリュード4番 ホ短調