『ボーはおそれている』 この映画を2度見る奴は変態だと言われた!? | 悪食のシネ満漢全席

悪食のシネ満漢全席

ろくに情報知らぬまま、当たり屋みたいに突撃して、 しょーもない感想を言い合って、備忘録代わりに残します。 かなりの無責任、言いたい放題、無礼千万をお許し下さい。

 

悪食 75点
今年 11本目、19本目

監督、脚本 アリ・アスター
出演    ホワキン・フェニックス
      ネイサン・レイン
      エイミー・ライアン

怪死した母親の元に戻ろうとした男の奇想天外な旅。
豊洲ユナイテッドシネマへ。

鑑賞結果、これは解らん⁉️1度観たくらいじゃ全く理解出来ん‼️2度観たら少しだけ理解出来た。

ここからネタバレ満載でいきますからご注意を⁉️



主人公のボー(ホワキン・フェニックス)は、ある街のアパートに住んでいるのだが、その街がもうおかしい。
犯罪が横行しているというだけではなく、どう見ても異常だと思われる輩も沢山いる。その上、昼間の公道で殺人を犯している者まで?
ここは何処なんだ?



この最初のボーが住んでる街が設定が普通ではない。どころか異常である。
どこの街にも属さない世界観。
もはや何かのメタファーだと思うしかない。
そしてボーが感じる自分が置かれている現代社会こそがこうなのだと。

そんな町に住んでいるボー(ホワキン・フェニックス)のもとに母親からの手紙が届く。
父親の命日には帰って来いと。手紙には飛行機のチケットも入っていた。

父親は早くに亡くなっていた。死因は腹上死。母親とのSEXの最中、2人して絶頂を迎えたその時に亡くなったのだ。そしてその時に出来た子供がボーなのだ。

すぐさま用意をして出かけようとするボー(ホワキン・フェニックス)だったが、部屋の鍵を閉めようとした時に忘れ物をしたことに気付いて中に戻り、出てくるとスーツケースとドアにさしておいた鍵が無いのだ。
一旦、部屋に戻り気持ちを落ち着かせようと薬を飲むのだが、その薬は必ず水と一緒に飲まなければならないと書いてある。水道は工事で止まっていて使えない。ミネラルウォータさへ冷蔵庫には無かった。薬の袋には水無しで飲むと最悪命を落とすと書いてある。(そんな薬あるのか?)
ボーのアパートの前にはドラッグストアがある。
ポーは意を決してアパートの表ドアに雑誌を挟んでドラッグストアに駆け込みミネラルウォーターを手に入れるが財布を忘れた。ポケットには小銭があるがそれを出している間にアパートにその街に住む異常者達がどんどん入って行くのが見えた。
ボーは焦ってアパートに戻るが寸前でアパートの表ドアを閉められてしまう。
外壁工事の足場に登って一夜を過ごしたボーにかかってきた電話は母親の事故死の連絡だった。


隣人のドアベルを鳴らして中に入るもアパートの中は異常者ばかり。しかもボーに悪意を持つ異常者も。襲ってくるのである。
ボーは逃げ出した。警官にも不審者扱いされ、逃げ出したところをトラックに轢かれたのだ。
気が付いた時、そこは女の子の部屋のベッドだった。


轢いてしまったボーをその家族が助けてくれたのだ。
しかし長男を戦争で亡くしていたその家族はおかしくなっていた。


娘は戦争で失った息子を忘れられずにいる親に対して当てつけ自殺を図る。
それを見た両親はボーに敵意をむき出しにするのです。


そして息子の友達でありPTSDを患っているジーヴスにボーを殺すように依頼するのである。
ボーはまた逃げ出し、森の中を彷徨います。
そしてその森の中で旅回りの劇団に出会うのです。
彼等は観客をも劇中の登場人物であるが如くの芝居を作っていた。
そこへジーヴスが現れて殺戮を繰り広げるのです。

もはや何を言いたいかも分かりません。
理解不能な世界が続いていきます。


やっと辿り着いた母親の家は葬儀の後片付けをしていた。
母親は事故で亡くなったのだ。
葬儀はボー(ホアキン・フェニックス)が到着するまで待つと言っていたが、行方不明になったボーを待ちきれなかったのだ。
ボーは悲しみに暮れた。
そこに現れたのは死んだはずの母だった。
母はボーがなんやかんやと帰らない理由をつけることに辟易していて、死を偽装したのだ。



こうなると母親までもがおかしい。
ボーの周りの人間が誰もが変なのだ。
これは現実か?やはり何かのメタファーか?
頭は混乱の渦へと巻き込まれていく。


と、映画は進行していく。話はこうしてラストへと向かっていくのだが、何を言いたいのか全く解らない。
ポー(ホアキン・フェニックス)を取り巻く環境、人間像、現象が全て異常性を帯びている。
これはボーが感じている外界の世界観であって現実に起こっていることではないという見方が正しいのだろう。
では何故、ボーには現実世界がそう見えているのか?
ボーがただの精神異常者なのか?
そうではないだろう。確かにボーの精神はおかしくなっているのかもしれない。
しかしだからと言ってボー自体がおかしな行動をとっている訳では無い。
ボーの繊細な心がそう見せていて、ボーはそんな世界でも必死になって自分を見失わないように生きているだけなのだ。
ポーのそんな行動は母親のボーに対する束縛と依存によって出来上がったのでは無いだろうか。
ボーにとってはストイックな母親ではあるが、それはボーに対しての溺愛の表現なのだ。その行動がボーに能動的に生きることよりも受動的に生きることの方が楽だと思わせてしまった。しかしそれはやはりおかしいと感じているボーの精神が世の中全てをおかしく見せている。
すなわちボーの精神世界のメタファーが映画の中の世界観なのだ。

 

2度目観た時の感想は若干変わっている。マザコンとまでは言わないが、精神的に母親に支配されてるということがわかった。その中で、その支配は子供にとっての成長過程みたいなもので、男の子ならば誰でもご経験ある、母親に対して性的なことを後ろめたく感じるあの感覚だ。それが大いなる足枷と見せたのがこの映画なのかと思ったところでのあのラストシーン。弾劾裁判のような場所で、ボーは責められ、弁解する余地のないまま乗っていたボートは破壊され、ボーの姿は消えてなくなるのだ。それがこの映画のラストシーンとなる。その意味することは母親からの脱却が自我の確立であり、母離れということなのであろう。だからこそ破壊された先に自分はいないのだ。母親からの脱却、そして自我の目覚めが新たなる自分の再構築だから存在自体は自分の中にだけあって母親の目には映らないのだ。ボーは恐れながらも、自分を確立したのだ。と、解釈してみたのだがどうだろう。

アリ・アスター監督のこのオリジナル脚本の世界観は全く一般的には受け入れられないだろう。
事実、アメリカでは興行的に大失敗だと言われている。
しかし考えても見てほしい。アリ・アスター監督の作った作品を。
「ヘレディタリー」、「ミッドサマー」。この監督の代表作品はホラーという位置付けをされているが、ただのホラーだったろうか?
そこには監督独特の世界観が入っていて他のホラー作品とは一線を画していた。
しかしホラーという根幹のジャンルが見ている観客の拠り所となってギリギリ理解が出来たにすぎないことを。

そう考えた上でこの映画を観てみるとどう見えるのか?
一つ分かるのはこの映画のジャンルを分類分け出来ないという点だ。
悪食はこの映画は摩訶不思議な映画というジャンルに放り込み、観る人が決めればいいという逃げの一手だ。
しかしこの映画を観た友人は不思議な映画で意味不明だが、コメディだよねと言っていた。
確かにコメディ映画に見えなくも無い。
というようにみる人によってまちまちな意見が出そうな映画なのだ。
つまり誰もがぶら下がっていられるだけの根幹となるジャンルすらない映画なのだ。
では、実験映画なのか?ある意味そうなのかもしれないがアリ・アスター監督は映画に対する挑戦を行ったのではないのかと思える。


劇中で出てくる森の中で遭遇した旅回りの劇団を思い出して欲しい。
彼等は観客を劇中の登場人物とする不思議な演劇をしていた。
アリ・アスター監督はまさにこれを目指していたのではなかろうか?
観ている観客の感性がこの映画の構成の一つであって、どう見えるかは観客次第であるということだ。


と、悪食はこの映画を観て結論づけたように思われるかもしれないが、実のところ何も解って無いに等しい。
いや、解っていない。一度やニ度観たからって解るものでもないだろう。
そんな映画をアリ・アスター監督は作ったのだ。
では端的にこの映画は面白いのか?と聞かれたらどう答えるか?
解りません。と答えよう。
だって解らないのだから。
3時間にも及ぶこの映画は長いです。観る人によっては理解することを放棄して眠りにつくこともあるでしょう。
悪食も途中意識が朦朧とする時間帯もありました。
でも何故か引き寄せられて観てしまう。
そんな映画です。
良い悪いではなく、記憶に残る映画。
そんな映画でした。
さて、興行成績的には失敗作と言われているこの映画。ロングランするとは思えません。早めに劇場に行って悪食と共に摩訶不思議な世界に漂ってみませんか?
記憶には残る映画ですよ。