思いのほか訪問者や「いいね」を下さる方が多いので
もしかしたら共感してくれたり
同じような経験をされたり
そういうことかなと思って綴ってみる
交通事故に遭ってからの記録は
こちらをクリックしてみてね
リンクばかりじゃ悪いので
【第1話「交通事故」の記事】
※2008年当時の文章なので赤い字で補足を入れております
2003年6月3日
平和実行委員会の会合を終えた夕方、
(↑生協ひろしまの
平和行進&平和のつどいの実行委員会)
支所から出ていつもの道を直進中、
右側の脇道から一時停止を無視した暴走車がぁ~!!
慌ててブレーキを踏んだ!
(らしい…
一瞬のできことで記憶がないが、しっかりとブレーキ痕あった)
が、間に合わず、激しい衝撃!!
人が死ぬ直前って
生まれたときからさっきまでのことを
一瞬で思い出すっていうけど…
その瞬間それに近いものがあった。
0.数秒の間にいろんな感情が一気に噴き出したのだ。
(何すんのぉ~!!!)
(え゛~!? 私、死んじゃうのぉ゛~!?)
(子供たちびっくりするで~)
(親に連絡せねば…)
(さっき笑顔で別れたばかりの生協仲間、みんな驚くだろうな)
(明日の仕事どうしよ~)
(子供たちの夕飯作れんじゃん)
(おいおい、私はまだこの世に心残りあるんだからな…)
他にも、
楽しかったこと、悲しかったこと、
それまでのいろんな記憶や
ありとあらゆるいろんな感情が
とにかく一瞬で私の中から溢れ出た。
(↑これホントに走馬灯ってヤツなのかと思った)
我に返って車から降りてみると、
車の前側はぐちゃぐちゃになったものの
私も相手も外傷はなく、すぐに警察を呼んだ。
支所へも電話。
すぐに当時の支所長がかけつけてくれ、
保険会社への連絡や警察とのやりとりを助けてくれた。
一通りのことが終わると、
始めは不機嫌そうだったおまわりさんが急に優しくなり…
つまり私は悪くない、被害者ってことがはっきりしたらしく
「災難じゃったなぁ~
今は何ともないかもしれんけど、
後から具合い悪うなるかもしれんけぇ
ちゃんと病院行きんさいよ。」
と、声をかけてくれた。
その後、支所長に連れられ病院へ…
当時のエリア担当さんがかけつけてくれ支所長と交代、
病院の後は警察に連れて行ってくれ、自宅まで送ってくれた。
家に帰って子供たちの顔を見たらホッとして涙々。。。
2008年の段階では横になったまま
パソコン画面で2年前の記録を見て
コピペはできたんだったかもしれないけど
一度に数分しかパソコン画面に向かうことはできないから
ガラケーを2~3行打っては保存し
忘れるからまた読み返し続きを打って保存
っていうのを繰り返しながら
必死で残そうと文章を作っていた
そういうワケで
2006年の私も 2008年の私も
何かを残さねばと がんばっていたらしい
実際 事故のとき体は無傷で
整形外科医には「軽いむち打ちでしょう。」と
どこかバカにされたような態度を取られたのを
なんとなく覚えている
でも おまわりさんの言葉が本当になるなんて…
当時は脳が大変なことになるんて思いもしなかったから
事故後もずいぶん無茶をしていた
後から考えると
それが重症化した一因かもしれない
今でも歳相応以上に物忘れは激しいし
それはヤングケアラーだった子どもたちから
いろいろ聞かされているし
最近でも会って話をしたとき
事故前の元気だった頃の記憶さえ
抜け落ちている部分が多々ある事実に
驚かされることが度々ある
同世代や上の年代の人は
「誰にでもあるよ」って言ってくれる
でもそれは違うんだなぁ…
そりゃあ50代にもなれば
忘れることはいろいろあるだろうけれど
そういうんじゃないんだよね
仲の良い人でも理解してもらえない部分
もちろんアラフィフ婚活で出会った夫には
到底わかりようもない話なので
大人になった子どもたちとの
そういう機会で知らされるのだ
この脳脊髄液減少症の記録
「こなきじじいを背負って」というのは
脳のダメージからくる様々な症状を表現することはとても難しいけれど
あえて多くの人にわかりやすく例えるとしたら
『酷い二日酔いの状態でこなきじじいを背負っているような状態』かな
と思いついて考え出したタイトル
「2008年の私 あっぱれ!」と思う
続きをもっとわかりやすく書こうと
何度もやりかけたんだけど
なかなか形にならず
2012年に一度再開したものの
それからは中断したまま年月が経ってしまった