小田原の廻船問屋江戸幸の若旦那寅吉が掛け取りから283両の金を持って戻って来た。母親が寅吉の衣服を改めると、懐から3両の入った紙包が出て来たから親旦那は使い込んだ金の残りだろうと怒り出して大騒ぎ。寅吉の話を聞くと、この3両は掛け取りの金の一部で、品川宿の武蔵屋長兵衛方で宿の娘お捨に盗まれたと苦情を言ってもらって来たが、それは勘違いで風呂に入った時に懐に入れて忘れていたもので盗まれたのではなかったというのだ。
これを聞いて親旦那は「武蔵屋さんに申し訳ない」と、寅吉に命じて早駕籠で品川へ向かわせる。寅吉が金を返し事情を話すと、主人の長兵衛が娘お捨に質す。すると、お捨は悪評の立つのを恐れて申し訳なさに高輪の浜で身を投げて死のうとしたが、ある侍が「冤罪の晴れる日も来よう、死ぬな」と諭し、3両の金をくれたのだという。
武蔵屋親子は礼をしようと、名も知れぬその侍の姿を求めて品川中を探し回る。12月になった頃、やはりその侍を探しに出ていた二人は、高輪あたりで人だかりがあるので尋ねると、赤穂浪士が主君内匠頭の仇討ち本懐を遂げて帰って来るというのだ。二人も無理やり先頭に出て見物していると、お捨が引き上げて来る浪士の一人で「貝賀弥左衛門」「享年五十三歳」と襟に書いてある人を見て、探し求める侍だと言う。二人は弥左衛門の前に平伏して礼を述べ、弥左衛門は今生の別れを告げる。
翌年二月四日切腹して果てた弥左衛門のために、武蔵屋の親子と廻船問屋江戸幸の親子は木像を作り弔ったという。
