十二月二十八日の夕暮れ、尾張の熱田宿に立った浪人者二人。藤堂高虎と居相孫作だ。宿に入って飯を頼むが、炊くのはこれからで冷や飯もないというので正月用の餅を所望する。すると主人の井上八太夫が一升枡に餅を詰めて持って来る。高虎はさらに入れずに出すとは我らを軽んじるか?と憤るが、八太夫は「白餅は城持ちに通じ、枡はますますご出世」と言う。二人は一升枡の餅を何回もお代わりして食べる。
    翌朝「宿代はない。貸しついでに五貫文貸してくれ」と高虎は八太夫に頼む。八太夫は五両の金を出し、屠蘇と雑煮で出立を祝い新しい草鞋と弁当まで用意してくれた。
    感謝して宿を出た二人だが「槍一筋で三千石か五千石の家老になる」と言う孫作に「自分は城持ち大名になるから自分に仕えろ」と高虎が言うので二人は言い争いになる。高虎が城持ち大名になったら孫作は家老の地位を投げ打って高虎の別当になる、高虎は城持ち大名になれなければ坊主になると言い合って、二人は袂を別ち孫作は東へ高虎は西へ行く。
    十年して孫作は京極若狭守の家老上席となり五千石取りとなるが高虎は羽柴秀長の家来で三百石取りにとどまっていた。だが信長が本能寺に倒れ秀吉の天下になると、高虎は大きな出世を遂げ伊予大洲で五万石の城持ち大名になった。孫作は約束通り五千石の地位を捨て高虎のもとにやって来る。どうしても別当にと言うので高虎は孫作を五千石取りの別当にした。
    高虎は秀吉亡き後も家康に重用され、二つの城持ちになる若き日の志を叶えるため、所領石高の大きい福岡を断り、伊賀上野城と伊勢安濃津城の二カ国二城の主となった。
    あの白餅を振舞われてから三十一年後の十二月二十七日行列を揃えて安濃津を立った高虎は孫作とともに翌日熱田の本陣井上八太夫を訪ねる。八太夫は代替わりして息子が継いでいたが、あの主人は隠居して彦斎と名乗り健在であった。対面した高虎は礼を述べ、自分の替紋を枡に白餅を象って四角の中に丸にしていることを明かした。また高虎から三十石、孫作から二十石を隠居料として贈ることにした。今の地位を離れ高虎は彦斎に三日間仕えて帰途に着くのであった。