【歴史的事実と異なるところがあるが、聞いたのをベースにあらすじにします】

    明治2年天皇に従って東京に来た林廣守は雅楽を担当する一等伶人。英国海軍軍楽隊でフェントンから日本も西洋のように国歌を作るべきと聞かされて、政府に進言するが、作曲は林たちではなくフェントンに依頼され越中島の観兵式で演奏された。
    日本人が作るべきと主張した廣守は生まれ故郷の大阪天王寺に戻り、作曲に努め明治13年秋に完成させて上京し大山巌に嘆願する。大山には西洋楽譜を学べと一蹴されるが、ドイツ人エッケルトが楽譜に起こして政府に提出してくれる。だがこれが外国人と共謀して画策したとして問題となり廣守は市ヶ谷監獄に投獄される。この投獄中には妻さきこが献身的に尽くし、釈放後は雑司が谷の丘の上で貧しい生活を送り病も患う。そこへ文部大臣森有礼から使いが来て、廣守作曲の君が代を政府が国歌と定め、廣守は正四位勲四等に叙せられたと告げられた。また天皇からはお見舞金が届けられた。廣守は勲章を妻さきこの首に掛け、皇居に向かって遥拝する。すると天長節の祝いに廣守の君が代を小学校で演奏しているのが聞こえてくる。