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どつぼ男が寄ってきた①

中野しんたろうと言えば知る人ぞ知る
大阪のブルース歌手。

その実力、個性共に目を見張るものを持つのにライブハウス、バー、飲み屋に中華屋と
出入り禁止の店は多かった。

寺田町の居酒屋にポスターを貼らせてもらう際
「しんたろうが出るなら貼らんぞ」と
念を押された人もいる。

あるイベントのパンフレットには
“どつぼ男”と紹介されていた。
後に持ち歌の題名と知ったが
あまりにもしっくりきている。

手を焼きながらも友人付き合いしてた丹羽さんは
「あいつは破滅的な部分が
人格のかなりを占めてる」
とか言っていた。
そう言えば釜ヶ崎の越冬や夏祭りでも
自分以外のバンドの出番によく乱入する。

飛び入りで誰かの演奏に加わる時や
セッションでのマナーは自分だけが
目立ち過ぎない事だと
僕に教えてくれた人がいる。

しんたろうの場合は人の唄に割り込んでは
唄いたい放題、目立ちたい放題。
割り込まれた人の唄が台無しに
なろうがお構いなし。
つまりマナーは皆無。

その上マイクを握って吐く言葉は
「お○こ」「ち○ぽ」等々不特定多数の前では
ご遠慮願いたい言葉の連発。
始末に負えない存在だった。

当時、釜ヶ崎の夏祭や越冬祭は知ってても
「寄ってき」まつりの存在を知らない人は結構いた。
しんたろうもその一人、
でもいつまでも知らない訳は無かった。

第3回の「寄ってき」まつりに
現れたしんたろうは
丹羽さんの出番に乱入したのを皮切りに
全ての演奏に割り込んでは
放送禁止用語を撒き散らし
ご満悦で酔っ払ってたらしい。

なぜ“らしい”のかと言うと
僕はその場にいなかったからである。
越冬、夏祭に加えライブ以外の
私生活での酒癖の悪さ、しつこさ、
悪行三昧に辟易してた僕は
既に10メートルも近づけたくない位
重度のしんたろうアレルギーだった。

土足で割り込んだしんたろうと
それを許容した丹羽さんに
腹を立てた僕は現場を去ったのだ。

大人気ない話だが「こんな非常識な男と一緒に出来るか。
許可したならあんたが全責任負え」
と言う丹羽さんへの意志表示。
ある意味責任放棄とも言える。

しばらくして僕の携帯に着信が2本あった。
「近所の○○さんから苦情が出てる」
「また問題になっても庇えないぞ」

声の主は釜ヶ崎越冬実行委員会で
ライブを担当する2人。
苦情主は「このけしからん唄を
やらせてるのは越冬実か」
と電話で2人を責め立てたらしい。
全く関係も責任もない人達に
抗議の火の粉が降って来た。

急いで公園に戻るとそこは
ボリューム全開でだみ声の
「お○こ」「ち○ぽ」がエコー付きで渦巻く
ワンダーランドと化していた。
力ずくで音声スイッチを落とし
音響担当の丹羽さんの首根っこを掴み
苦情主を訪ね詫びと事情説明に向かった。
この時しんたろうは公園から姿を消していた。

‐続く‐

わかりやすい体質

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最近の道頓堀界隈から路上ライブが消えつつある。

かつてはキタやミナミのアーケードの下は
5メートル間隔で長渕剛や尾崎豊に
感化された唄うたい達がうようよ頑張っていた。

 数年後ゆずがヒットすると
長渕男や尾崎男が影をひそめ
ギターとタンバリンの
それっぽいデュオが席巻していたが
あれも一過性の流行りか
客引きのホスト君に縄張りを奪われたのか
もうあの辺りでは殆ど見かけない。

前から不思議だったのは彼らは
皆、同じところで場所取りをしていた事。
キタならナビオから梅田花月につながる商店街、
ミナミなら戎橋筋の商店街。

人通りが多くより目をひく場所が
いいのはわかるが
既に同じタイプの人が
似たような歌を歌ってる傍らなんて
しんどいだろう。
いくら質の高い演奏でも
飽きる程聞いた後なら敬遠したくなる。

 競争相手のいないところの方が聴く側の鮮度が違う。
同じ道頓堀でも橋の上ばかりでなく
橋の下で流行ってない唄をがなってるような
へそ曲がりが一人ぐらいいても面白い。

 そんな話を丹羽さんとしてるうちに
自分がやってみたい衝動に駆られてしまった。

自転車で二人道頓堀まで走る。
たどり着くと橋の両側のたもとは
金網で封鎖されていた。
それを見て初めて橋は工事中だと知った。

しかしフェンスを乗り越えれば
ビデ足場があり橋の下まで行けそうだ。 せっかく来たんだから何とか下で唄いたい。

その事を言うと丹羽さんは
「別に下に降りなくてもここでもいいじゃない」
じゃあ何しに来たのだろう。
難しい人である。

2メートル弱のフェンスを前に
完全に意欲は失せたらしく欄干にもたれしゃがみ込んだまま動こうとしない。

そもそも長年のアルコール多量摂取のため
運動神経が著しく弱ってた丹羽さんに金網によじ登れとは
我ながら無茶な要求だった。

 仕方なく僕だけ降りる事にした。
下から見ると橋桁はトンネルのような半円形で
ここに声をぶつけると気持ちよくエコーがかかる。

唄いだすと上から声がかかる。
「おっちゃん何やってんの?」
17~18歳ぐらいだろうか
女の子が5人程話しかけて来た。

「みんな橋の上で唄うから下で唄うねん。
橋の下はおっちゃんの独壇場やで」

「そんなんやったら見といたるわあ。
頑張ってやあ!」

 その直後である。
聞き覚えのある声が
「せんごく~」「せんごく~」
丹羽さんである。
「どこから降りれる~?」

女の子の視線と声援があるのなら
フェンスを越える勇気も体力も湧いてくる。
丹羽さんはわかりやすい体質だった。

(注)この橋の下ライブは何回目かで警察官の警告を受け頓挫した。
工事現場に無断で入ると犯罪なのである。

滅されたエイリアン

 どこの役所だったか忘れてしまったが
外国人担当の窓口の名称の下に記されてる英訳が
「alien」エイリアン
となっていた。

それにある外国人団体が抗議の上
変更を求めたと言う。

ホラー映画のタイトルを
自分達の呼称に当てはめるな
と言う訳である。

役所側はあっさりalienから
「foreigher」フォリナーに表記を変えた。

 70年代のアニメには
「めくら」「きちがい」「百姓」等
放送禁止用語が乱れ飛んでたりする。

これらの言葉はいつ頃までメディアの中で生き続け
抹殺されたのだろう。

百姓は百の仕事をコツコツする。
どちらかと言うと尊い意味を持っていると
人に聞いた事がある。

 ある事件のニュース原稿の中の
「支那そば屋」と言う文字をそのまま読んだ
アナウンサーが謹慎処分を受けた。

支那そば屋そのものには
何のお咎めも無かったと
何かの本で読んだ。

 差別用語として指定されてる言葉達は
元々差別するために生まれてきたのだろうか。

百姓の例を出すまでもなく
そうでない言葉達が圧倒的に多い気がする。

 「めくら」と言う言葉が使えなくなっても
目の不自由な人は沢山存在する。

「目の不自由な人」を用いて
人を傷つける輩が現れ
その数が増えた時、
「目の不自由な人」は差別用語の仲間入りを果たし
抹殺されるに違いない。

「○○は人を傷つけるから使うな」である。
「○○は元々こういう意味なのに
間違った使い方をされている。
正しく使いましょう」
とは決してならない。

罪もない言葉がまた消えてゆく。

 今後フォリナーやストレンジャーなどの
タイトルでホラー映画が
制作されない事を祈るばかりである。

うかんむりの下

 02年春、幕を閉じた若者うたまつりに代わる
新たなイベントを立ち上げる事になり
また名称を考える作業に悩む事になる。

 僕は密かに架け橋をイメージした名称を
模索してたが
ある日、丹羽さんが
菓子屋さんの案をプッシュしてきた。

 「こっちの気持ちとしては
どんな立場の人でも
寄っといでって事だから
『寄っといでまつり』でいいんじゃないか」

この素朴で温かみのある「寄っといで」の語感に
シャキシャキ感を出そうと僕が手を加え
釜ヶ崎「寄ってき」まつりに決めた。

台詞だからカギかっこ。
祀るような神や御本尊はないから
ひらがなでまつり。

 その後中華屋とかで「よってこや」などの
店名があると知り看板を見つける度恥ずかしい気分にもなっていた。

 その2年後の04年2月に
バイキングライブというイベントを企画した時の事。
パンフレットに載せたいから「寄ってき」のロゴマークが欲しいと
丹羽さんが言い出し僕が創る事にした。

「寄ってき」の「寄」の字をデフォルメしたが
今一つしっくり来ない。

次はこの字を解体し英訳して見た。

一応丹羽さんに確かめる。
「大は英語でBigやね」
「そう。Big」
「じゃあ可は?」
「か?」
「可能性の可」
「可能性ならPossible」
「うかんむりは?」
「………………
 Ukanmuriじゃない?」

 そこで初めて気づいた。
「寄ってき」の中には大きな可能性が存在してたんだ。
更にカギかっこの中には“てき”もいる。

 やたら主義主張を押し通そうとするあまり
仲間との些細な相違や
失言も許せなくなり
離合集散を繰り返すサークルや団体もある。

でも僕らのまつりには敵をも
内包できる懐の深さがあったんだ。
「現実が伴ってない」なんて
言われても気にしない。
うかんむりの下には大きな可能性があるんだから。

 肝心のロゴはUとBとPをデフォルメして
スペクトラムとストロングマシンを混ぜた様なキャラクターが完成した。

ただし丹羽さんの超後回し体質のため
パンフレットには載らず
いまだ日の芽を見ていない。

ござの歌姫 ③

 西島礼子は声をかけてくる全ての労働者の話を聞く。

「ギターはええけど歌もっと練習せな」
「わし『真夜中のギター』好きやから次歌ってくれ」

ライブをやってる人達の中には
客の意見に耳を傾けない人も結構いる。
「素人に何がわかるか」
と言ったところだろうか。

聴いてくれる人のほとんどは素人。
素人の意見だって的を射てる事も多いのに。

 西島礼子は嬉々として聞いている。
心のこもったアドバイスから
見当はずれで無責任な意見まで。
話の内容よりも自分の唄に
かまってくれる人がいる事を
喜んでいるようにも見える。

小さな事に感動したり感謝できる。

西島礼子の初々しさが
いつまでも色褪せない理由がチラリと見えた。

日常の当たり前の中にこそ
感謝すべき事がたくさんあったりする。


 「島根県の実家に帰る事になりました」
「釜ヶ崎で唄わせてもらえるのも今日で最後です」

ござの上から
涙まじりの別れを告げたのは
第一回釜ヶ崎「寄ってき」まつりのステージ。

「また来いよ」「元気でな」
労働者達の言葉と
温かい拍手を背に
西島礼子の釜ヶ崎はひとまず終わり。


 今でも名字の変わった
“ござの歌姫”から
年賀状や近況メールが届く事がある。

また釜ヶ崎のステージに
ござを敷く日が来る
確率はものすごく低い。
僕はこっそり待つ事にしてる。



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