入浴入浴 | ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

ニューヨーク・ニューヨークは公開当時(1977)見に行った。前の方しか空いてなくて、座るとやや見上げる姿勢になる。スクリーンが倒れ掛かってくるみたいな圧迫感と共に記憶にあるのはテナー・サックス奏者のそのスクリーンに貼り付いた、まるで魚眼レンズで撮ったかのような歪んだ姿だけだ。

 

昔、と言えるほどの時を経るうち、抑え切れずに記憶は流れ出でてしまったか、ストーリーは断片すら思い出せない。あるいはジャズの演奏シーンだけを聴いていたのか。テナー・サックスの吹き替えはジョージ・オールドとなにかに記されていた。

 

以上が思い出しながら書いた1977年の感想文。以下は2020年版です。

 

演奏家でないただの俳優がサックスを吹くふりをするのだからデクスター・ゴードン※1のような名演技の現出があろうはずもない。

 

分かっていることだが、それにしたって余りにもひどい。ひどいひどいひどすぎるっていうくらいひどい。

 

小倉久寛※2の足下にも及ばずと言うと小倉さんに失礼である。っていうくらいひどい。

 

・頭を揺らしながらサックスを吹く者はいない。

 

・楽器を持ってただ立つ姿ですら不自然で全くなってない(カメラの前のモデルが小道具を手にポーズを取るという、そういうスタンスを感じるが、そうではなく、そこには俳優としての演技があるべきだ)。

 

・やれやれ

 

以上がすべてである。見続ける気にならない。

 

対人の破天荒ぶりも描かれるが、チャーリー・パーカーや勝新太郎のように、そのひんしゅくや嘲笑を退けて余りある偉大な作品や活動が世に示されてこそ、それは赦してもらえるのであって(私見ですが政治屋にも当てはまります※3)、三流楽団の花形演奏家レベルという設定の上で身勝手なふるまいを演出しても観る方には的外れなアピールがあるだけだ。

 

え?有名バンドに在籍した天才プレイヤーの話だったの?

 

・カウント・ベイシー楽団にいたレスター・ヤング、いやジェイ・マクシャン・バンドのチャーリー・パーカーくらいのつもり?

 

・一寸した諍いからバンマスのキャブ・キャロウェイを刃物で追いかけ回したディジー・ガレスピー辺りの雰囲気※4を再現したかった?

 

残念ながら、様にならない腰抜けエア・サックスじゃそうは見てもらえない。

 

ライザ・ミネリは良かったと思うけれど、もう一方の主役がどこかの国の口ぱくアイドル並みときたもんだ。

 

この俳優は役作りのために太ったり痩せたり、それ以上の労苦も厭わないという話ではなかったか。

 

どこが?

 

なんて名前だったっけ。ロバートなんとか・・・。なんとも不幸な再会であった。

 

 

※1 本物の一流テナー奏者デクスター・ゴードンは映画「ラウンド・ミッドナイト」に主演し、本当にテナー・サックスを吹いた(あたりまえだ)。

破滅型の天才ジャズ・プレイヤー(バド・パウエル)をモデルに創られた映画は奇しくも「ニューヨークなんとか」と主役の人物像がよく似ている。比べれば「ニューヨーク~」の安っぽさが浮き彫りだ。

マーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロは、今からでも遅くはない証人喚問に素直に応じ、国民に謝罪のうえ罪を償うべきだ(どこかの国の前総理と間違えている?)。

 

※2 サックスの練習を始めた小倉久寛は「笑っていいとも」にその未熟ぶりを笑われるコーナーを創設してもらった。

 

※3 国や我々にとって有益な仕事をしてくれるなら、陰で少しくらい悪いことをしていても構わないとわたしは考えている。しかし、奴らは仕事そのものを自分たちの為だけにやっているのだから敵わない。

 

※4 ディジー・アトモスフェアという w。