息子よりまあちゃんが好きと言う母のけつを叩いて鬼介護
我が母にはまあちゃん(正男)といういとこがいたようだ。
母は自分の体が思い通りに動かせないもどかしさから息子を呼ぶのだが、近ごろは取って代わって「まあちゃん」を呼ぶようになってしまった。まあちゃんと母はきっと仲が良かったのである。
あれこれとだめを出して叱り、ときには尻のひとつもひっぱたこうかという息子はあまり好かれていないようで・・・とほほほ・・・。
解説・
自分のことをやさしく扱ってくれない息子は母にとって鬼であるかも知れず、また一方で殊勝にもまじめに取り組もうとするほどに嫌がられる理不尽さを鬼の仕打ちと嘆く息子があるが、なによりも「介護」などという血の通わない官製概念と、そこにぶら下がって年寄りを食い物にする業者たち(←あえて業者と呼ぶ)※、そして、うごめくそれらと関わらずにはやっていけない無力感こそが鬼なる想念の湧き起こる因子なのである。
って、すぐにそういう話になってしまう。
※ ※ ※
世にアメフト暴行事件が起ころうと、○○ハラとかカタカナ用語が氾濫しようと、はたまた、プーチンがスパイを殺し損なおうと、ペリカン文書やパナマ文書並み衝撃度のモリカケ文書が発掘されようと、ミサイルに括られたアベ夫妻が北朝鮮に向けて発射されようと(←うそついた罰)、
なにが起ころうと、それを伝えるテレビを傍らに、どこ吹く風といびきをかいている母親のその姿こそが正解なのではないかと思う。
見たこともない新しい技術や概念、今まではなかったような事件に対してどのようなスタンスで対峙すべきなのか。そのような数多の社会現象に通底する本質的ななにかに気付かず、根本の理路を構築できないのなら、いずれ情報に振り回されて五里霧中。
だって北の核弾頭がとち狂って中国かロシアに落ちるかも知れない(←?)。もしもそんなことが起こったらどうするんだ。なんだって起こり得るのだ。そんな事態を一体どう解説するというのだろうか。
我々はどこに生きどこに行くのか。それを知りたいなら世間の騒ぎに踊らされていてはだめだ。神から小出しにされるフェイクを選り分け本質にたどり着かねばならぬ。いや、そのフェイクは本質への道筋にちりばめられている。
そしてしかし、個々の考察に終始する我々にはそれを捉えることができない。
自らの小賢しい脳みそをキャンセルし、それによって表層的な情報はこれをほぼすべてスキップし、丸裸にさらけ出された神の遊戯にのみフォーカスを施す。
なにごとにも我関せずとばかりに、なにくわぬ顔でそれをやってのけている母親こそ超越者であり、わたしにとってのイーシュワランマな・・・わけないだろ!
じゃんじゃん!
※具体的に誰とは言いませんが、その現状をひっくるめて「老人ビジネス」と名づけたいとわたしは思います。官が絡んで貧困ビジネスよりもたちが悪い、てか!
あー、こりゃこりゃ・・・。