ぼくはみみずくん その3 神の過失、そして被造物の諦念 | ジャズと密教 傑作選

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空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

自他は不二なのである。神の創造したこの宇宙というひとつの生命体のうちに我々はそれぞれあり、生命体の生成のためにそれぞれがなにかしらの役目を割り当てられている。人体にあってそれぞれの部位が各々役割を負っているごとくである。

然るに、役割について言及すると人類の常識はこれを否定するか、その義務について考え込むのである。人智による考察は余計である。「役割」について我々が考えを巡らす必要はない。与えられた性向に基づいて素直に悦びを求めるのみを旨とすべきなのだ。それが役割と、同時に生きる意味の全うであり、そこにこそ至福がある。

不二一元の理のうちに本体の生成に寄与せんとする生命活動を許されたはずの人類は、自ら培った執着心の分厚い堆積のために実相を正しく見る目を失った。

自他を分ける感覚の染みついた人類がひとり、全一と切り離されたとき、執着心は様々な形で当人に襲いかかる。自と他の間に起こるせめぎ合い。それもすべてへたに小賢しい頭脳を持ったがためだ。

脳みその性能に優劣を施すまではよかったが、人間の思考にだけ執着心なる働きを醸成する作用並びに回路が生まれてしまった。誰がそんなことを望んだか。

これは神の設計ミスに帰すべき事態であろう。

となると、空前絶後のその大きな瑕疵について創造主から我々被造物に向けて謝罪があったのかどうなのか。それは分からないが、少なくとも事態収拾のための方策は長い年月の間に形を変えて何度も練られてきたようである。

つい最近もサティア・サイババなる神が兜率天から降臨するや、人々に染み付いた執着心の抑制と排除のために精力的な活動を展開したことは記憶に新しい。

が、結局のところ、その成果は表面的な段階に止まり、彼はさじを投げて帰って行った(また来るそうだが、いっそのこと、もう放っておくというのも手ではないか)。