わたしはみみずです その1 プロローグ | ジャズと密教 傑作選

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空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

わたしはみみずである。
ところでさっそく話がそれるが、猫に名前を付けるなどということは人間が勝手に始めた慣習に過ぎず、猫自身は名前という概念を持っていない。

ものには名前が付くのがあたりまえであるという、人間だけに通用する常識を前提として話を始めてしまうとしたら、なんとも洞察が浅すぎるというものではないか。猫が自分の名前について言及するわけがないのである。

そういうわけでわたしには当然、名前などない。今後、付く予定もない。どこで生まれたか、もちろんとんと見当がつかない。自分がなにかから生まれ出でたという認識も、生という概念そのものもわたしにはないのである。

薄暗いじめじめした所でみゃあみゃあ鳴いていたという証言があるらしいが、そんなことをわたしは知る由もない。それはわたしにとってもそうだが、また、こういった事象のひとつひとつを作文する、人間なる視点にとってもどうでもいいことである。なぜなら、わたしが仮にいくら大声で鳴き、叫んだところで、現代の喧騒の中では誰の耳にも届かないからだ。聞こえなければ鳴いたことにならない。



生まれてこの方わたしは自らの生命活動を遂行し続けている。それはわたしの意思決定によるものでもなく、またそこにおいて、わたしの好むところを選んで右往左往するようなこともない。なにひとつ考えず、判断もせず、ただなにかの働きを自らの肉体中に生じさせている。

それは人間にあって、例えば、意志も意識もなく、しかし、様々な内臓が働き続けているというようなことである。意識しないが動いている。動作があってもその認識はない。我々にとってあたりまえのこんな状態は、だが人間にはどうも分かりにくいようだ。

彼らはその持つところの優秀な頭脳を駆使して、自ら物事を判断し、その行動を決定するのである。それは生物史上、未曽有空前のできごとであった。

彼らはそうして挙句の果て、産業革命を興し、遠方の他国を侵略する道をも開拓し始めた。そこに至って考えなくてはいけないのは、人間の脳みそなどというあやふやなものの判断が、いったい本当に正しいのかどうかである。人間は間違いを犯す生き物であるなどと居直る者も現れたが、ならばその時点で判断を委ねられる立場足りえないではないか。というのがまあ、普通の常識であろう。人間にだけは通用しないのだが。

(この宇宙大霊のうちにあって霊感を無視した自らの思考に基づく判断を下す。なんとも空恐ろしいことである)